第四話 幻影の足跡
シルヴィア・ノクターンの嗚咽が、静かな部屋に響き渡る。
彼女の告白によって、事件の様相は一変した。
ドクター・ヴァンスは、自らの探求の果てに、悲劇的な事故死を遂げた。
そして、シルヴィアは、師の名誉を守ろうとした、哀れな偽装工作の実行犯だった。
「…これで、事件は解決、ということになるのか」
尋問を終え、臨時捜査本部に指定された館の一室に戻る道すがら、ガイウス隊長が、重々しく呟いた。
彼の声には、安堵よりも、割り切れない苦々しさが滲んでいた。
「事故死と、助手の偽装工作。それが結論か」
「いいえ、隊長」
アゼルは、首を横に振った。
「事件は、解決にはほど遠い。むしろ、本当の謎は、ここから始まります」
「どういうことだ?」
「シルヴィア嬢の告白には、真実と、そして、彼女自身も気づいていない、巧妙な嘘が混じっている。彼女は、自分が『偽装工作を行った』と信じ込まされているに過ぎない」
アゼルは、足を止めて、ガイウスとリリアに向き直った。
「考えてみてください。彼女は、ドクター・ヴァンスの死体を発見し、パニックに陥りながらも、師の研究成果を隠そうとした。その発想は分かります。ですが、あの、三重の魔法的な封印が施された、完璧な密室。あれを、彼女一人の力で、あれほど短時間に構築することが、果たして可能でしょうか?」
リリアも、アゼルの言葉に頷いた。
「シルヴィア先輩は、優秀な錬金術師です。でも、彼女の専門は、生命錬金術。空間や幻影に干渉するような、高度な結界術は、専門外のはずです」
「そうだ」
アゼルは続けた。
「誰かがいたのです。シルヴィア嬢の稚拙な偽装工作を、完璧な密室に『仕上げた』、第三の人物が。彼女の悲しみと混乱を利用し、自らの目的のために、事件そのものを操った者が。そして、その人物こそが、この事件の真の黒幕です」
◇
アゼルは、ガイウス隊長の許可を得て、再び封鎖されたヴァンスの研究室へと戻った。
今度、彼が探すのは、物理的な証拠ではない。
実体のない、「幻影」が残した痕跡だった。
「リリア、頼めるか」
「はい、先輩!」
リリアは、学院から持ってきた、銀色の粒子が溶け込んだ特殊な液体を、噴霧器に注いだ。
これは、「幻影燐光」と呼ばれる試薬で、高濃度の魔力や、強力な幻影が通過した場所に反応し、ごくわずかな時間だけ、その残滓を発光させる効果がある。
彼女は、アゼルが指示した配合通りに、別の触媒を数滴加え、慎重に液体を攪拌した。
「噴霧は、部屋の隅から、ゆっくりと、円を描くように。できるだけ均一に頼む」
アゼルの指示を受け、リリアが部屋の隅々まで、霧状の試薬を噴霧していく。
シュー、という微かな音と共に、甘い匂いのする霧が、研究室を満たしていく。
すると、これまで何もなかったはずの空間に、無数の青白い光の点が、星屑のように浮かび上がった。
「…すごい…」
リリアが、息を呑む。
部屋全体が、ヴァンスの実験の失敗によって生じた、複雑な魔力の残滓で満ちていたのだ。
だが、アゼルが注目したのは、それだけではなかった。
「…あったぞ」
彼の視線の先、施錠されていた扉の前から、ヴァンスの死体があった場所まで、そして、そこから、なくなっていた「幻影石」が保管されていた棚の前まで、点々と、青白い光る足跡が、床にくっきりと浮かび上がっていたのだ。
それは、まるで、闇夜に光る、不気味な道標のようだった。
「これは…足跡?」
ガイウスが、眉をひそめる。
「ですが、人間のものじゃありません」
リリアが、その形をスケッチしながら言った。
「指が三本で、踵がない…。まるで、鳥のような…でも、もっと細くて、鋭い…」
「『囁く者』の足跡だ」
アゼルが、静かに断言した。
「都市評議会が、極秘に開発したとされる、諜報用の幻影の住民。その姿は霧のようで、物理的な壁をすり抜け、その声は、人の耳には聞こえず、ただ意識にだけ囁きかけるという…」
「なぜ、そんなものを知っている?」
ガイウスが、驚いてアゼルを見た。
「噂で、です」
アゼルは、そう言って、ガイウスから視線を逸らした。
彼が時折散歩するという「幻影の小道」で、その存在を、偶然、目撃したことがあったのだ。
◇
その日の深夜、アゼルとリリアは、ガイウス隊長の執務室に呼び出された。
机の上には、湯気の立つコーヒーが三つ、並べられている。
部屋の空気は、これまでになく、重く、張り詰めていた。
「…お前たちが、正しかったようだ」
ガイウスは、苦々しい顔で、一枚の報告書をアゼルの前に置いた。
それは、都市の防衛結界の、魔力記録だった。
「ドクター・ヴァンスが死亡したと推定される時刻、彼の研究室の結界に、外部から干渉した、極めて微弱な魔力の痕跡が記録されていた。あまりに微弱で、通常の警報システムは作動しなかったが…お前たちに言われて、改めて解析し直した結果だ。この魔力の波長は、ただ一つ、評議会の上級錬金術師が使う、特殊な幻影操作のものと、完全に一致した」
「…やはり」
アゼルの推測は、確信に変わった。
ガイウスは、しばらく何かを思い悩むように、沈黙していたが、やがて、重々しく口を開いた。
「…お前たちには、話しておくべきかもしれんな。この都市の、暗黙のルールを。そして、俺が最も嫌悪している、この都市の『闇』についてを」
彼は、都市評議会の中でも、特に治安維持を担当する部門が、極秘裏に「幻影の住民」を部隊として組織し、市民の監視や、時には、政敵の失脚のために、それらを使役しているという、衝撃の事実を語り始めた。
そして、その部隊を直接管理しているのが、高官グラハム・レイスである、ということも。
「奴は、それを『都市の秩序維持のため、やむを得ない措置だ』と言う。だがな、俺に言わせれば、それはただの、卑劣な覗き見であり、力の濫用だ。俺は、法と、この拳で、市民を守ると誓った。影に潜む化物に、街を嗅ぎまわらせるためじゃない」
◇
全てのピースが、はまった。
アゼルの研究室。
壁に貼り出された相関図の前で、彼は、事件の第二の真相を、リリアとガイウスに語り始めた。
「グラハム・レイス高官は、以前から、ドクター・ヴァンスの不老不死の研究を、危険視していました。それが、都市の秩序を乱す、禁忌の力であると。彼は、評議会の権限を使い、常にドクター・ヴァンスの動向を、あの『囁く者』を使って監視していたのでしょう」
そして、あの夜、彼は、ドクター・ヴァンスが実験に失敗し、事故死したことを知った。彼は、好機だと考えたのです。ドクター・ヴァンスの危険な研究を、その死と共に、完全に葬り去るための、絶好の機会だと。
彼は、師の死に動揺し、混乱しているシルヴィア嬢に接触しました。そして、彼女に囁いた。『このままでは、あなたの師は、錬金術師として、最も不名誉な死を遂げた者として、歴史に名を残すことになる。だが、彼が何者かの禁術によって襲われ、その研究成果と共に生命力そのものを奪われた、ということにすれば、彼の名誉は守られる』と。彼は、シルヴィア嬢の師への忠誠心を利用し、彼女に、偽りの襲撃事件を演じさせたのです。
彼女が、不自然な幻影生成器を置き、部屋を退出した後、グラハムは、自らが使役する『囁く者』を、研究室に侵入させた。『囁く者』は、壁をすり抜け、内側から、物理錠と、三重の魔法的封印を施し、完璧な密室を作り上げた。そして、彼が本当に狙っていた、ドクター・ヴァンスの最後の研究ノートと、最も重要な『幻影石』を、密かに盗み出させたのです。
彼の目的は、初めから、ドクター・ヴァンスの研究成果を、その存在ごと、この世から消し去ることだった。そして、その罪を、ドクター・ヴァンスのライバルであったオルフェウスに被せることさえ、計算に入れていたのかもしれません」
「あの男…!」
ガイウスは、怒りに拳を固く握りしめた。
「都市の秩序のためと言いながら、結局は己の権力と、思想の押し付けのためか!」
「ですが、まだ、謎が残ります」
リリアが、疑問を口にした。
「なぜ、グラハムは、ドクター・ヴァンスの幻影を、現場に残しておいたのでしょう? 彼の犯行の、唯一の目撃者になるかもしれないのに」
「それこそが、最大の謎だ」
アゼルは、若き日のヴァンスの幻影が繰り返していた、あの奇妙な手の動きのスケッチを、指でなぞった。
「グラハムは、恐らく、この幻影が、単なる魔力の残滓だと思っていたのでしょう。だが、もし、これが、ドクター・ヴァンス自身が、死の間際に遺した、最後のメッセージだとしたら…?」
事件の黒幕は、明らかになった。
だが、真相の追究は、まだ終わらない。
アゼルは、この事件の奥底に、グラハムの権力欲や、都市の秩序といったものを、遥かに超える、巨大な、そして根源的な、何者かの意志が働いているような、言いようのない予感に、包まれていた。