第三話 大図書館の司書
その夜、アゼルの研究室の灯りは、朝まで消えることがなかった。
彼は、記憶を頼りにスケッチした「若き日のヴァンスの幻影」の、奇妙な手の動きを、何十枚もの羊皮紙に、様々な角度から描き起こしていた。
壁一面に貼り出されたそれらのスケッチは、まるで狂人の研究のようにも見えた。
「先輩、また徹夜ですか? 顔色が悪いです。せめて、これを」
翌朝、研究室の扉を開けたリリアは、机に突っ伏して眠り込んでいるアゼルの姿を見つけ、呆れたように、しかし心配そうに、持ってきたばかりの温かいスープとパンを彼の隣に置いた。
「…リリアか。いや、少し考え事を…」
眠りの浅いアゼルは、すぐに目を覚ました。
彼の目の下には、濃い隈ができていた。
「この手の動きだ」
彼は、スケッチの一枚を指差した。
「これは、ただの無意味な動きじゃない。高レベルの精神錬金術の術式の一部に酷似している。だが、不完全だ。私が知るどの文献にも、この先の術式が記されていない」
アゼルは、立ち上がると、部屋の中を歩き回りながら、自らの思考を整理するように語り始めた。
「矛盾しているんだ、何もかもが。リリア、君の分析では、現場からは『若返り』の試薬の痕跡しか見つからなかった。だが、ドクター・ヴァンスの遺体は、見るも無残に『老化』していた。若返ろうとしながら、老化する。そんなことはあり得ない。それは、傷を癒そうと薬を塗ったのに、かえって傷が深く抉られるようなものだ。あり得ないことが起きている。あるいは…」
彼は、そこで言葉を切り、リリアを真っ直ぐに見つめた。
「あるいは、その傷そのものは、目的ではなかったとしたら? もし、ドクター・ヴァンスの肉体が、ただの『燃料』だったとしたら? 若返りの試薬は、肉体を維持するためではない。その中にある『魂』という名の発動機を、限界まで稼働させるための、加速器だったとしたら?」
「魂の、発動機…?」
「ああ。魂を、別の器に『転写』するための、な。これは、禁忌中の禁忌…『魂の転写』の実験だったのかもしれない」
「そんな…」
リリアは、その言葉の響きに、思わず身震いした。
「だが、実験は失敗した。そして、この幻影が繰り返す手の動きは、その最後の『失敗の記録』だ。この術式を解読できれば、彼が何をしようとしていたのか、その全てが分かるはずだ。だが、これほど高度な禁術の記録が、通常の書庫にあるはずがない…」
「禁書庫…」
リリアは、ごくりと息を呑んだ。
「でも、あそこに入れるのは、学院長か、あるいは…」
「ああ」
アゼルは頷いた。
「大図書館の主、セラフィーナ・ローブ司書長の許可がなければ、誰であろうと入ることはできない」
◇
幻影都市アストラルムの中央に位置する大図書館は、それ自体が、知識を守るための巨大な要塞だった。
高い天井まで届く書架には、何十万冊という革装丁の古文書が、びっしりと並んでいる。
黴と古い羊皮紙、そして乾燥したインクの匂いが、静寂と共に、訪れる者の思考を過去へと誘う。
アゼルとリリアは、その最も奥、一般の生徒は立ち入ることができない、古文書修復室の扉を叩いた。
「…お入りなさい」
中から聞こえたのは、年齢不詳の、静かで、どこか幻影のように掴みどころのない声だった。
部屋の中には、一人の女性が、巨大な羊皮紙の巻物に向かい、修復作業を行っていた。
セラフィーナ・ローブ。
大図書館の司書長にして、この都市で最も博識な人物の一人だ。
彼女は、常に薄いヴェールのような幻影をその身にまとっており、その表情を正確に読み取ることは、誰にもできなかった。
「クレメンス研究員。あなたのような方が、ここへ来るとは、珍しいことですわね」
セラフィーナは、作業の手を止め、静かにアゼルを見つめた。
アゼルは、挨拶もそこそこに、懐からヴァンスの幻影の手の動きをスケッチした羊皮紙を取り出し、彼女の前に広げた。
そして、自らの仮説を、冷静に、しかし熱を込めて語り始めた。
若返りと老化の矛盾、そして、魂の転写の可能性。
セラフィーナは、黙って彼の話を聞いていた。
だが、アゼルが話し終えた時、彼女を包む幻影のヴェールが、ほんのわずかに、しかし確かに揺らいだ。
「…興味深い仮説ですわね、クレメンス研究員」
彼女は、落ち着き払った声で言った。
「ですが、それは、あまりにも飛躍しすぎてはいませんか? 魂の転写は、歴史上、幾多の天才たちが挑み、そして敗れ去った、ただのおとぎ話です。あなたが、そのおとぎ話を信じるに足る、特別な理由があるとでも?」
それは、アゼルの覚悟と、洞察力を試す、静かな問いだった。
「理由なら、あります」
アゼルは、彼女の挑戦的な視線を受け止めた。
「ドクター・ヴァンスは、ただの天才ではなかった。彼は、不可能を可能にすることに、その生涯を捧げた執念の男だ。彼は、古い術式をなぞっていたのではない。自らが、新しい術式を『創造』しようとしていたのです。だからこそ、この幻影が示す手の動きは、どの文献にも載っていない。これは、彼が最後に遺した、未発表の、そして失敗した、新しい論文そのものなのです。私は、彼が何をしようとしていたのか、その真実が知りたい。そのためには、彼が参考にしたであろう、禁書庫にある、魂の転写に関する全ての基礎理論を、確認する必要がある」
アゼルの言葉に、セラフィーナは、初めて、そのヴェールの奥で、かすかに目を見開いたように見えた。
「…あなたという方は、本当に、物事の表面ではなく、その奥にある理ばかりを見つめているのですね」
彼女は、小さくため息をつくと、静かに立ち上がった。
「よろしいでしょう。あなたが見ようとしている真実は、あるいは、あなたに絶望しかもたらさないかもしれません。ですが、あなたには、それを見る権利がある」
彼女は、アゼルとリリアを、禁書庫へと続く、秘密の扉へと案内した。
◇
その日の午後、アゼルは、ガイウス隊長と共に、再びシルヴィアの元を訪れていた。
だが、今回の尋問は、以前とは全く異なる様相を呈していた。
アゼルは、もはや彼女を追及しなかった。
「シルヴィア・ノクターン」
アゼルは、静かに、しかし、彼女の心に直接語りかけるように言った。
「あなたは、嘘をついている。だが、その嘘は、あなた自身を守るためのものではない。あなたの師、ドクター・ヴァンスの、名誉を守るための嘘だ」
その言葉に、シルヴィアの肩が、大きく震えた。
「何を…言っているのか、分かりません…」
「分かっているはずだ」
アゼルは続けた。
「ドクター・ヴァンスは、自らの研究の、最終段階の実験に失敗したんだ。彼は、老いた肉体から、自らの魂を、『幻影石』へと転写しようとしていた。そのために、彼は、自らの肉体を活性化させる『若返り』の試薬を大量に服用し、魂の転写に耐えうる状態を作り出そうとした。だが、その二つの、相反する錬金術の力が、彼の体内で激突し、暴走した。その結果、彼の肉体は、若返るどころか、その反動で、数十年分の寿命を一瞬で消費し、老化してしまった。それが、この事件の真相だ」
アゼルの言葉は、一語一語が、彼女の作り上げた嘘の壁を、崩していく。
「そして、あなたは、彼の研究室で、そのおぞましい光景を目の当たりにした。師の、あまりにも無残で、そして錬金術師として、不名誉な死を。あなたは、彼の名誉を守るために、そして、彼の危険な研究が、他の誰かの手に渡るのを防ぐために、全てを偽装した。あの、不自然に置かれた幻影生成器も、あなたが置いたものだ」
「…う…ああ…」
シルヴィアは、ついに、その場に泣き崩れた。
それは、罪を暴かれた者の涙ではなく、重すぎる秘密を一人で抱え続けてきた、孤独な魂の、解放の涙だった。
「先生は…ヴァンス先生は、誰よりも純粋な方でした…。ただ、錬金術の真理を、追い求めていただけなのです…。ですが、その探求は、いつしか、彼自身を蝕んでいきました…。私は、止めることができなかった…!あの日、研究室で、変わり果てた先生を見つけた時、私は…どうしていいか…。先生の偉大な名前が、こんな…こんな形で汚されてしまうことだけは、耐えられなかったんです…!」
彼女の嗚咽が、部屋に響き渡る。
事件の真相は、明らかになった。
ドクター・ヴァンスは、自らの探求の果てに、悲劇的な最期を遂げた一人の錬金術師だったのだ。
だが、アゼルの心には、まだ、一つの大きな疑問が残っていた。
(シルヴィアの偽装工作は、あまりにも稚拙だ。それに、あの完璧な密室。彼女一人の力で、あれほどの魔法的な封印を施すことは、不可能だ。一体、誰が、彼女の偽装工作を、手伝ったんだ…? そして、何のために…?)
一つの謎は解けた。
だがアゼルの心には、その向こうに、さらに幾重にも重なった、新たな謎の幻影が揺らめいて見えるかのようだった。