第二話 真実を追う者たち
夜の帳が下りた幻影都市アストラルムは、昼間とは全く異なる顔を見せていた。
錬金術による街灯が、石畳の道を青白く照らし出し、建物の影はより深く、濃くなる。
時折、実体のない幻獣が、音もなく路地を駆け抜けていくのが見えた。
ドクター・ヴァンスの事件現場である研究室には、ガイウス隊長の命令で厳重な封印が施され、館の使われていない一室に、臨時の捜査本部が設けられていた。
その一室で、アゼル、リリア、そしてガイウスの三人は、今後の捜査方針について、それぞれの意見を戦わせていた。
「よし、整理しよう」
最初に口火を切ったのは、ガイウスだった。
彼は、巨大な体で腕を組み、苦々しげにアゼルとリリアの顔を見た。
「密室、奇妙な老化死体、消えた石、場違いな道具、そして、お前だけに見えるという、被害者の若い頃の幻影…。俺の長年の経験でも、これほど奇妙な事件は初めてだ。だがな、アゼル、どんなに奇妙な事件でも、基本は同じだ。俺は俺のやり方で、物理的な証拠と、関係者たちの証言を一つ一つ突き合わせていく。それが、現実世界での捜査の鉄則だ」
彼の言葉には、錬金術という不可解な要素に対する、非錬金術師としての、ある種の反発と、自らの職務への誇りが滲んでいた。
「隊長の言う通りです。でも…」
リリアが、おずおずと口を挟んだ。
「あの密室を構成していたのは、物理的な錠だけではありません。三重の魔法的な封印が施されていました。それに、あの『老化』現象。どんな毒物でも、あんなことは起こせません。これは、間違いなく、極めて高度な錬金術が関わっています。犯人の錬金術の系統や、使用された試薬の痕跡を追うべきです」
彼女は、実践的な錬金術師の視点から、事件の異常性を指摘した。
だが、アゼルは、二人の意見に静かに首を横に振った。
「二人とも、罠に嵌っている」
「何だと?」
ガイウスが、眉をひそめる。
「この事件は、あまりにも『錬金術的な変死事件』として、整いすぎている」
アゼルは、壁に貼り付けた現場の見取り図を指差した。
「密室、奇妙な死体、思わせぶりな道具…。まるで、我々捜査する者たちに、『これは錬金術の謎ですよ』と、挑戦状を叩きつけているかのようだ。だが、俺が気になるのは、そこじゃない」
彼は、自らがスケッチした、若き日のヴァンスの幻影の絵を指差した。
「この幻影だ。なぜ、犯人は、この事件の唯一の『目撃者』となりうる、こんなものを現場に残した?これが、全ての鍵だ。我々が追うべきは、犯人ではない。この幻影が伝えようとしている、メッセージそのものだ」
物理的な証拠を追うガイウス。
錬金術的な痕跡を追うリリア。
そして、事件の背後にある意味そのものを追うアゼル。
三人の捜査方針は、奇しくも、三者三様の様相を呈していた。
◇
翌日、リリアは再び、ヴァンスの研究室に一人、籠っていた。
ガイウスの許可を得て、彼女は、現場に残された錬金術的な遺留品の、本格的な分析を開始したのだ。
彼女はまず、ヴァンスが倒れていた魔法陣の周囲から、微細な粉塵を慎重に採取した。
そして、学院から持ち込んだ、最新式の分光分析器に、その粉塵をセットする。
水晶のレンズが回転し、虹色の光が粉塵を通過すると、その組成が、壁のスクリーンに複雑な術式として表示された。
「…おかしい」
リリアは、表示された術式と、彼女の教科書に記された術式を、何度も見比べた。
「これは、『急速細胞劣化』の術式じゃない。むしろ逆…。『生命力活性化』の、それも、若返りの秘術に分類される、極めて高度な術式の一部だわ…」
彼女は、次に、机の上に不自然に置かれていた、旧式の幻影生成器の分析に取り掛かった。器具に残された魔力の残滓を、別の試薬で中和し、その反応を調べる。
「触媒の配合が、あまりにも雑…。これじゃ、高度な幻影なんて作れない。せいぜい、人の形をした、ぼんやりした光の塊を作るのがやっとのはず。なのに、アゼル先輩には、若き日のドクター・ヴァンスの姿が、はっきりと見えた…。どうして?」
矛盾、また、矛盾だ。
この現場は、錬金術師の目から見れば見るほど、ありえないことばかりだった。
リリアは、自分の分析結果を、几帳面な文字で羊皮紙にまとめていく。
その小さな背中は、真実を探求する、一人の錬失術師としての、確かな誇りに満ちていた。
◇
アゼルとガイウスは、関係者たちの尋問を開始した。
最初に呼び出されたのは、ヴァンスの弟子、シルヴィア・ノクターンだった。
彼女は、昨日よりもさらに憔悴し、その白い肌は、まるで陶器のように、血の気が引いていた。
「シルヴィア嬢」
ガイウスが、厳格な口調で尋問を始めた。
「君のについて、いくつか確認したいことがある。君は、昨夜、自室にいたと証言したが、それを証明できる者はいるかな?」
「…一人でした。先生の研究の邪魔にならないように、いつも、静かにしていましたから…」
彼女の答えは、か細く、消え入りそうだ。
「君の師、ドクター・ヴァンスは、誰かに恨まれていたか? 例えば、彼の研究を妬む者とか…」
「先生は、偉大すぎる方でした。妬む者は…いたかもしれません。ですが、先生に危害を加えるなんて…そんなこと、誰にも…」
彼女は、そこまで言って、言葉を詰まらせた。
その時、アゼルが、静かに、しかし、核心を突く質問を投げかけた。
「あなたは、師を尊敬していた。そうですね?」
「…はい。もちろんです」
「ならば、なぜ、彼の死の真相から、目を逸らすのですか?」
「え…?」
「あなたは、彼が、ただの老衰で死んだのではないと、知っているはずだ。彼の研究室で、何か、恐ろしいことが起きたのを。あなたは、本当は、何を見たのですか?」
アゼルの、全てを見通すかのような瞳に、シルヴィアの心の壁が、ついに崩壊した。
「…う…ああ…あああ…!」
彼女は、その場に泣き崩れた。
それは、あまりにも重い秘密を、一人で抱えきれなくなった、か弱い魂の悲鳴だった。
アゼルは、無言で立ち上がると、ガイウスに目配せをして部屋を出るよう促した。
これ以上の追及は無意味だと判断したからだ。
彼の冷静な分析が告げていた。
(彼女が全ての絵図を描いたわけではない。だが、何かを知っている)。
今、この精神状態の彼女から有益な言葉を引き出すことはできない。
だが、それで十分だった。
「彼女が何かを隠している」という最初の仮説が、確信に変わったのだから。
次の駒を動かす時だった。
次に二人が向かったのは、オルフェウス・ゼニスの研究室だった。
そこは、ヴァンスの整然とした研究室とは対照的に、あらゆる種類の錬金術器具や、用途不明の機械部品が、無秩序に、しかし、ある種の機能的な美しさをもって配置されていた。
空気は、オゾンの匂いと、数種類の薬品が混じり合った、刺激的な匂いで満ちている。
「何の用だ、凡人ども」
研究室の奥から現れたオルフェウスは、その尊大な態度を隠そうともしなかった。
彼は、アゼルを一瞥すると、嘲るように鼻を鳴らした。
「おお、これはクレメンス君ではないか。幻影ばかり追いかけて、まともな研究成果も出せない、学院の落ちこぼれが、何の用かね?」
「ドクター・ヴァンスが亡くなられました」
アゼルは、彼の挑発を意にも介さず、淡々と事実を告げた。
「あなたは、彼の不老不死の研究における、最大のライバルだった。彼の死は、あなたにとって、好都合だったのではないですか?」
「はっ!」
オルフェウスは、心底可笑しいというように、声を上げて笑った。
「私がヴァンスを殺したとでも? 私は、ヴァンスの古臭い研究など、とうに追い越している。奴の死は、錬金術の停滞が一つ消えただけの事。悲劇ではなく、必然だ。それに、昨夜の私には、完璧なアリバイがある。私はこの研究室で、一晩中、新しいキメラの創生実験に没頭していた。この結界が、その証拠だ」
彼が指し示す研究室の扉には、確かに、彼自身の魔力で構築された、極めて強力な防衛結界が張られていた。
最後に二人が訪れたのは、都市評議会の壮麗な建物だった。
大理石の廊下を抜け、高官であるグラハム・レイスの執務室へと通される。
部屋は、彼の性格を表すかのように、一点の曇りもなく磨き上げられ、調度品は全て、寸分の狂いもなく配置されていた。
「これは、ご苦労だったな、ガイウス隊長。そして、アゼル君も」
グラハムは、温厚な笑みを浮かべて二人を出迎えた。
だが、その瞳の奥は、凍てついた湖面のように、感情を読み取ることができない。
ガイウスとアゼルが、これまでの捜査の経過を報告すると、グラハムは、深く、そして悲しげにため息をついた。
「由々しき事態だ。伝説の錬金術師が、密室で怪死を遂げたなどと知られれば、市民は不安に陥る。早急な解決を望む」
彼は、心配そうに言った。
「ドクター・ヴァンスは、偉大な人物であったが…晩年は、少々、危険な研究にのめり込みすぎていたやもしれん。不老不死の秘術は、この都市の秩序を乱しかねない、禁断の知識だ。あるいは、誰かが、その危険な研究を、盗むためではなく、この世から消し去るために、何らかの手段に訴えた、という可能性も考えられるのではないかね?」
彼の言葉は、一見、捜査に協力しているように聞こえる。
だが、その実、巧みに、事件を殺人事件として、その動機を「都市の秩序を守るための、やむを得ない行為」という方向へと、誘導しようとしていた。
◇
夜、捜査本部に戻ったアゼルの元に、リリアが分析結果の報告書を持ってきた。
「先輩、やはりおかしいです。現場から採取された試薬の残滓は、全て、ヴァンス先生が研究していた『若返り』の秘薬のものでした。老化を促進するような薬品は、一滴も検出されませんでした」
「…そうか」
アゼルは、その報告書と、自らが描いた幻影のスケッチ、そして関係者三人の証言を、テーブルの上に並べた。
関係者は三人。
師の死を嘆きながらも、何かを隠している助手のシルヴィア。
圧倒的な才能を持ち、被害者の死を何とも思わない、傲慢なライバルのオルフェウス。
そして、都市の秩序を大義名分に、事件を特定の方向へと導こうとする、謎めいた高官のグラハム。
矛盾だらけの証拠と、嘘で塗り固められた証言。
だが、アゼルは、その混沌の中から、一つの、そして唯一の、光の道筋を見つけ出そうとしていた。
彼は、再び、若き日のヴァンスの幻影が繰り返していた、あの奇妙な手の動きのスケッチを、指でなぞった。
「…これは、メッセージか…?いや、違う」
アゼルは、呟いた。
「これは、メッセージというより、もっと直接的なものだ。論文、あるいは…数式そのものだ。ドクター・ヴァンスが、自らの死をもって、この世に発表しようとした、最後の…」
彼の鳶色の瞳に、初めて、確かな好奇心と、探求の光が灯った。
この事件は、彼がこれまで解き明かしてきた、どんな謎よりも、深く、そして魅力的だった。
幻影都市の本当の闇に、彼は今、ようやくその指先を触れようとしていた。