第一話 老いた死体と閉ざされた扉
幻影都市アストラルムの夜明けは、常に錬金術的な奇跡から始まる。
東の空が白み始め、最初の太陽光が都市を覆う巨大な結界に触れると、大気そのものがプリズムとなって、七色の光の粒子が街全体に降り注ぐのだ。
それは、神々しいほどの美しさであり、同時に、この都市が「普通」ではないことの、何よりの証明でもあった。
都市の中央には、創設期から存在するという「幻影の塔」がそびえ立っている。
その塔は、見る者の精神状態や、大気に満ちる魔力の揺らぎによって、その姿を絶えず変える。
ある時は、天を突く巨大な水晶のように輝き、またある時は、天へと昇る竜のように、螺旋状の幻影を描く。
人々は、その塔の最上階に、都市を維持する強力な錬金術装置があると信じていたが、その真実を知る者は、誰もいなかった。
アゼル・クレメンスは、そんな幻想的な光景には目もくれず、いつものように学院へと続く石畳の道を歩いていた。
彼にとって、この街の奇跡は、解き明かすべき謎ではあっても、心を動かされる対象ではなかった。
彼の足元で、石畳の一部が、まるで水面のように、一瞬だけ波紋を描いて揺らいだ。
道の向こうから歩いてくる商人は、その変化に気づくこともなく、通り過ぎていく。
アゼルは、それを当たり前のこととして、僅かに歩調を変えて避けた。
「おはよう、アゼル君。今日も早いね」
パン屋の主人が、焼きたてのパンを店先に並べながら、陽気に声をかけてきた。
その主人の隣には、甲冑をまとった、半透明の騎士の幻影が、じっとパンを見つめている。
「ああ。騎士殿も、変わりないようで何よりだ」
アゼルは、騎士の幻影に、軽く会釈した。
「おうよ。こいつは、毎朝決まって、一番固い黒パンを買いに来るんだ。もう何十年もな」
主人は、こともなげに笑った。
この都市では、実体を持つ「市民」と、過去の記憶や強い想いが幻影として実体化した「幻影の住民」が、奇妙な形で共存している。
ほとんどの市民には、彼ら-「幻影の住民」は見えない。
だが、アゼルのように、生まれつき幻影を見る能力が高い者にとっては、彼らは、そこにいるのが当たり前の、隣人だった。
アゼルは、ある路地裏の前で、ふと足を止めた。
そこだけ、空気が、よどんでいる。
都市の創設期、あるいはそれ以前の、不老不死の研究の失敗によって生まれたとされる『記憶の残滓』。
その一種が、この場所に染み付いているのだ。
目を凝らせば、かつてここで繰り広げられたであろう、錬金術師同士の、無言の決闘の場面が、陽炎のように揺らめいて見える。
彼は、その過去の悲劇に干渉することなく、静かにその場を迂回した。
アゼルは、錬金術学院の研究棟にある、自らの研究室の扉を開ける。
中は、彼にとっての世界そのものだった。
壁一面の本棚には、物質錬金術、精神錬金術、生命錬金術に関する、膨大な古文書が並んでいる。
そして、机の上には、彼が今、最も情熱を注いでいる研究…「幻影と実体の境界線に関する、論理的考察」の数式が記された羊皮紙が、無数に散らばっていた。
彼は、窓の外で、また姿を変えた幻影の塔を一瞥すると、すぐに自らの思考の海へと、深く、深く潜っていった。
時折、その思考の海をかき乱す、理由のわからない灼熱と絶叫の悪夢から目を逸らすかのように。
◇
「アゼル先輩、また食事を抜いていますね!そんなことだから、いつも顔色が悪いんですよ!」
研究室の静寂を破ったのは、扉を勢いよく開けて入ってきた、明るい声だった。
リリア・フローレス。
アゼルの後輩であり、彼の研究室に何かと顔を出す、世話焼きな助手だ。
彼女の手には、手製のサンドイッチと温かいハーブティーが乗った盆がある。
「こんにちは、リリア。いや、今、重要な数式の証明の途中で…」
「ダメです!先生も、先輩の生活態度にはいつもハラハラしているんですから」
リリアは、有無を言わせぬ様子で盆を机に置いた。
彼女は、アゼルのような理論家ではないが、実践的な物質錬金術の腕は確かで、その社交的な性格は、内向的なアゼルにとって、時として眩しく、時として救いでもあった。
「ありがとう」
アゼルは、ぶっきらぼうに礼を言うと、サンドイッチを一口かじった。
味には頓着しない彼だが、彼女の作るものは、いつも不思議と体に染み渡り、悪夢の残滓で冷えた心を、少しだけ温めてくれる気がした。
「そういえば、見てください、先輩!昨日の実習で、ようやく純度99%の賢者の石の結晶化に成功したんです!」
リリアは、そう言って、小さなガラス瓶に入った、寸分の曇りもない美しい紅色の結晶を、アゼルに見せた。
「…見事だ。触媒の配合を変えたのか?」
「はい!先輩が前に呟いていた、『幻影蝶の鱗粉を、極微量加えることで、物質の結合構造が安定するかもしれない』っていう仮説を、試してみたんです!」
「…そうか」
アゼルは、短く答えたが、その口元には、珍しく、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。
自分の抽象的な理論が、彼女の実践的な技術によって、こうして形になる。
その瞬間は、彼にとっても、純粋な喜びだった。
その時だった。
研究室の扉が、乱暴に叩かれた。
扉を開けると、息を切らして立っていたのは、都市の守衛隊の若い隊員だった。
その顔は、恐怖と混乱で青ざめている。
「クレメンス研究員!至急、ご同道願います!ドクター・エドワード・ヴァンスが…!ご自身の研究室で、死体となって発見されました!」
◇
ドクター・ヴァンスの研究室は、「幻影の塔」のほど近く、錬金術師の中でも特に高名な者だけが住むことを許される、壮麗な館の一角にあった。
現場には、すでに都市の守衛隊長であるガイウス・ストーンが、屈強な部下たちを率いて、周囲を封鎖していた。
「また錬金術師どもの厄介事か…」
ガイウスは、アゼルとリリアの姿を認めると、苦々しげに吐き捨てた。
「密室だと?馬鹿を言え。お前らの『錬金術』とやらを使えば、壁なんぞ、ないのと同じだろうが!なのに、ご丁寧に、扉は斧で破壊する羽目になった。アゼル、お前の出番だ。学院長からの推薦でな。俺たちには、この奇妙な事件は手に負えん」
ガイウスが指し示した先、研究室の扉は、斧によって無残に破壊されていた。
「発見者は、被害者の助手であるシルヴィア・ノクターン嬢だ」
ガイウスは説明した。
「毎朝、先生の朝食を運んでくるのが日課だったらしい。だが、今朝は扉が内側から施錠されており、呼びかけにも応答がなかった。ただの鍵ではない。ドワーフ製の物理錠と、三重の魔法的な封印が施されていた。やむを得ず、我々が扉を破壊して中に入った。つまり、完璧な密室だ」
アゼルは、静かに中へと足を踏み入れた。
リリアも、ごくりと息を呑んで、彼の後に続く。
研究室の中は、異様な光景だった。
壁一面の本棚には古文書が並び、机の上には複雑な錬金術器具が散乱している。
そして、部屋の中央の床に描かれた錬金術の魔法陣。
その中心に、ドクター・エドワード・ヴァンスは倒れていた。
だが、その姿は、アゼルたちが知る彼のものではなかった。
数日前まで、矍鑠として学院を歩いていたはずの老錬金術師は、まるで、そこからさらに数十年分の寿命を一度に吸い取られたかのように、乾いたミイラのように「老化」して、事切れていたのだ。
「ひっ…!」
リリアが、小さな悲鳴を上げた。
「なんだ、あれは…?」
アゼルが、その異様な光景に眉をひそめる。
老いた死体の周囲を、陽炎のように、青白い人型の幻影が、ゆらゆらと揺らめいていた。
それは、若き日の、まだ希望に満ちていた頃のドクター・ヴァンスの姿だった。
常人にはぼんやりとしか見えないその幻影が、アゼルの高い幻影視能力を持つ瞳には、あまりにも克明に映し出されていた。
「死因は…?」
アゼルは、冷静に、検死官の報告を促した。
「それが…分かりません。外傷も、毒物の痕跡も一切ない。まるで、ろうそくが燃え尽きるように、ただ、生命力そのものが、完全に消え失せている。寿命です。自然死としか、言いようがありません」
「八十代の老人が、一晩で百二十歳になったとでも言うのか?」
アゼルは、現場を見渡した。不自然な点が、いくつもあった。
机の隅に、普段ドクター・ヴァンスが使わないような、旧式の「幻影を作り出す錬金術器具」が、不自然に置かれている。
そして、彼の研究成果の一部であるはずの、特定の幻影を凝縮して作られた「幻影石」が、一つだけ、保管棚からなくなっていた。
密室。
老化。
若い幻影。
常識では考えられない要素が、この事件をより深く、そして不可解なものにしていた。
「ガイウス隊長」
アゼルは、背後の隊長に、振り返らずに言った。
「この事件、私が引き受けましょう」
その声には、謎を前にした、錬金術師としての、静かで、しかし抑えきれない探求心が、炎のように燃え盛っていた。
幻影都市の錬金術師、アゼル・クレメンスの、最初の、そして奇妙な事件の捜査が、今、静かに幕を開けた。