第四話 第二の試練・記憶という名の代償
第一の試練を乗り越えた二人がたどり着いた次の階層は、前の階層とは全く異なる、無機質な空間だった。
そこは、果てしなく広がる、巨大な時計の内部のような場所だった。
無数の歯車が、規則正しく、しかし複雑に絡み合いながら回転し、床も壁も、全てが寸分の狂いもなく磨き上げられた金属でできている。
カチ、カチ、という、巨大な秒針が時を刻むような音だけが、冷たく響いていた。
「ここは…」
「塔の、論理的な防御システムを司る中枢部だろう。気をつけろ、リリア。ここでのルールは、俺たちの世界の常識とは、全く違うはずだ」
アゼルの警告通り、彼らが最初の通路へと足を踏み入れた瞬間、目の前に、一つの巨大な扉が現れた。
扉には、こう記されている。
『この扉は、開いている時にのみ、閉ざされる』
論理的なパラドックス。それが、この階層の試練だった。
「どういうことです?」
「言葉通りの意味だ」
アゼルは、扉を睨みつけながら言った。
「俺たちがこの扉を『開けよう』とすれば、それは閉ざされる。逆に、『開ける』ことを諦めれば、あるいは…」
リリアは、そんなアゼルの理屈を無視して、扉に手をかけた。
「えいっ!」
だが、扉はびくともしない。それどころか、彼女が力を込めれば込めるほど、扉はより強固に閉ざされていくかのようだった。
「無駄だ、リリア。力で解決できる問題じゃない」
アゼルは、扉から少し離れ、部屋全体を冷静に観察し始めた。
この空間を支配する、高次的なルールが必ずあるはずだ。
彼は、無数に回転する歯車の、その動きのパターンの中に、微かな非周期性があることを見抜いた。
そして、その非周期性が、扉に刻まれた古代ルーン文字の、特定の文字の点滅と、完全に同期していることに気づく。
「…そうか。これは、ただの扉ではない。俺たちの『認識』そのものを問う、一種の思考実験だ」
アゼルは、リリアに指示した。
「リリア、君は、この扉が『壁』だと思うんだ。絶対に開かない、ただの壁だと、強く念じろ」
「ええ…?」
「いいから、やるんだ」
リリアが、半信半疑で、扉を壁だと認識しようと集中する。
その間、アゼルは、歯車のパターンから予測したタイミングで、点滅するルーン文字に、そっと指で触れた。
彼は、扉を「開ける」のでも「閉める」のでもなく、「扉という概念そのものを、再定義する」という、第三の選択を行ったのだ。
すると、あれほど固く閉ざされていた扉が、まるで幻であったかのように、音もなく、すうっと消え失せた。
「すごい…!」
「次へ行くぞ。恐らく、ここから先は、こんな試練の連続だ」
アゼルの予測通り、そこから先は、彼の論理的思考能力を極限まで試す、矛盾の連続だった。
『進むためには、留まらねばならない』と記された通路では、歩みを止め、自らが道の一部となることをイメージすることで、道が開かれた。
『光あるところに道はなく、闇あるところに道は開ける』と記された広間では、リリアが錬金術で作り出した「完全な暗闇」の中にだけ、安全な道が浮かび上がった。
リリアは、アゼルの常人離れした思考の飛躍に、何度も驚かされ、そして助けられた。
そして、彼女の実践的な錬金術がなければ、アゼルの理論も、形にすることはできなかっただろう。
何時間にも及ぶ、精神をすり減らすような謎解きの末、二人はついに、この階層の中心部である、巨大な球体の前にたどり着いた。
それは、無数の歯車と水晶が組み合わさった、巨大な計算機のようだった。
そして、その球体の前には、最後の扉が、静かに二人を待ち構えていた。
扉には、こう記されている。
『真実を知る者は、この扉を開けることができない』
最後の、そして最大のパラドックスだった。
「どういうこと…?」
リリアは、絶望的な声を上げた。
「私たちは、真実を知るために、ここまで来たのに…」
「ああ、その通りだ」
アゼルは、扉を見つめながら、静かに言った。
「そして、それこそが、この扉の罠だ」
彼は、これまでの人生で培ってきた、全ての知識と、論理と、そして、この旅で得た仲間との絆を、頭の中で反芻していた。
そして、一つの、あまりにも危険な結論に達する。
「リリア、君は先に進め」
「えっ?先輩はどうするんですか!?」
「俺は、ここまでの全ての記憶を、自らの手で消し去る」
アゼルは、懐から一つの小さな水晶瓶を取り出した。
中には、彼が独自に開発した、記憶を一時的に封印する、禁忌の錬金薬が入っていた。
「そんな、無茶です!そんなことをしたら、元に戻れなくなるかもしれない!」
「他に方法はない」
アゼルの声は、穏やかだった。
「この扉は、『真実を知る者』を拒絶する。ならば、俺が、この瞬間に、『何も知らない者』になればいい。俺は、この事件のことも、塔のことも、そして、君のことも、全て忘れる。そうすれば、俺は『真実を知らない者』となり、この扉を開ける資格を得る。君は、その扉の先で、俺が再び記憶を取り戻すための、トリガーになってくれ」
それは、自らの精神そのものを捧げる、あまりにも危険な賭けだった。
だが、リリアは、アゼルの瞳の奥にある、揺るぎない覚悟と、自分への絶対的な信頼を見て、涙を堪えながら、こくりと頷いた。
「…分かりました。信じています、先輩」
アゼルは、覚悟を決めた目で彼女を見つめた。
「リリア、君に頼みがある。君は、昔俺が作った賢者の石の失敗作を、まだ持っているか?君が、俺が捨てようとしたのを止めて、持っていった、あの光るだけの石ころだ」
リリアは一瞬驚いた顔をしたが、すぐにこくりと頷き、いつも首から下げているペンダントの、服の中に隠していた飾り部分を取り出して見せた。
それは、まさしくあのアミュレットだった。
「…ええ、もちろんです。私のお守りですから」
「そうか。ならば、話が早い」
アゼルは安堵の息をわずかに漏らした。
「俺が記憶を失ったら、それを俺に見せてくれ。それを見れば、俺は…」
彼は、そこで言葉を切り、リリアの頭を、少しだけ不器用に撫でた。
「頼んだぞ、相棒」
アゼルは、そう言うと、躊躇なく、記憶封印の薬を飲み干した。
彼の瞳から、急速に光が失われていく。
彼は、目の前のリリアを、まるで初めて見るかのように、不思議そうな顔で見つめた。
「…君は、誰だ…?」
その言葉に、リリアは胸が張り裂けそうになるのを堪え、彼の手を引いて、静かに開かれた最後の扉の向こうへと、足を踏み入れた。




