第二話 収束する赤い印
都市真理探求室は、さながら臨時の対策本部の様相を呈していた。
壁にはアストラルムの巨大な地図が貼られ、眠り病の被害者が出た場所に、赤い印が次々と付けられていく。
アゼルは、何日も眠らずに、その地図と、山と積まれた報告書の分析に没頭していた。
「被害者の年齢、性別、職業、健康状態…全てに、何の共通点も見いだせない」
ガイウスが、腕を組んで苦々しげに言った。
「唯一の共通点は、あの『幻の鐘』だけだ。だが、音の正体が分からんことには、対策の立てようもない」
「室長、私も被害者の方々の錬金術的な耐性を調べてみましたが、こちらもバラバラです。精神干渉系の術式に特に弱い、というわけでもありませんでした」
リリアも、分析結果を手に、悔しそうに付け加える。
手詰まりだった。
だが、アゼルだけは、その混沌とした情報の中に、一つの、微かな法則性を見出しつつあった。
「…いや、パターンはある」
アゼルは、地図の上に、半透明の羊皮紙を重ねた。
そこには、彼がこの一年、記録し続けてきた、都市全体の「幻影安定度」の変動データが、複雑な等高線のように描かれていた。
「被害者が出た場所は、全て、幻影の循環が、僅かに『淀んで』いる場所だ。そして、その淀みは、俺たちの浄化実験の後に、決まって発生している」
「何ですって!?」
リリアが、驚きに目を見開く。
「じゃあ、私たちの研究が、この事件の原因だと…?」
「直接の原因ではない。だが、引き金になった可能性は高い」
アゼルは、地図に付けられた赤い印を、無言でしばらく見つめていた。
リリアとガイウスは、彼が何を見出そうとしているのか、固唾を飲んで見守る。
「…隣同士を結んでも、意味のある図形は浮かび上がらない」
アゼルは静かに呟くと、一本の定規を手に取った。
そして、都市のほぼ対角線上に位置する二つの印を、まず一本の直線で結んだ。
次に、全く別の対角線上にある二つの印を、同じように結ぶ。
二本の線は、地図上のある一点で交わった。
アゼルはさらに三本目、四本目と線を引いていく。
すると、その全ての線が、まるで蜘蛛の巣のように、都市の中心にあるただ一点へと収束していくのを、三人は目の当たりにした。
「まさか…」
ガイウスが息を呑む。
その線の中心にあったのは、天を衝くようにそびえ立つ、あの塔だった。
「幻影の塔…」
アゼルは、自らの仮説を、確信をもって口にした。
「この『鳴らない鐘』は、都市の中枢である『幻影の塔』から発せられている。俺たちの都市浄化の研究が、意図せず塔の深層にある、未知のシステムを起動させてしまったんだ」
その仮説を裏付けるかのように、アゼルの脳裏には、被害者が出た場所で感じ取った、あの奇妙な「空白」の感覚が蘇っていた。
あれは、ただ魂が抜け落ちた空白ではない。
何者かによって、魂が意図的に「回収」された跡なのだ。
塔が、都市の安定を脅かす「不純物」と判断した市民の意識を、防衛機能の一環として、強制的に停止させているのではないか?
「そんな馬鹿なことがあるか!」
ガイウスが反論した。
「塔は、ただの建造物だろう!意思などあるはずが…」
「いいえ、隊長」
アゼルは静かに首を振った。
「塔は、ただの建造物ではありません。セラフィーナ司書長の言葉を借りれば、この都市そのものが、暴走する『記憶の残滓』を封じ込めるために築かれた、一つの、巨大な錬金術的結界なのです。そして、中央の『幻影の塔』は、その結界を維持するための、要となる装置…いわば、この都市の心臓であり、脳でもある」
その言葉に、ガイウスもリリアも、反論することができなかった。
セラフィーナは、この都市の成り立ちの真実を知っている、数少ない人間だったからだ。
三人は、最後の答えを求め、大図書館の主、セラフィーナ・ローブの元を訪れた。
大図書館の最奥、古文書修復室。
セラフィーナは、三人の来訪を予期していたかのように、静かにお茶の準備をしていた。
「…お気づきになりましたか、アゼル・クレメンス」
彼女は、アゼルが口火を切る前に、そう言った。
その声には、諦めと、そして、どこか試すような響きがあった。
「ええ」
アゼルは、彼女の前に、都市の地図と、自らの仮説を記した羊皮紙を置いた。
「この事件の犯人は、人間ではない。この都市自身です。そして、その心臓部である『幻影の塔』が、我々の浄化作業を『攻撃』と誤認し、防衛システムを起動させた。違いますか?」
セラフィーナは、長く、深い沈黙の後、ついに、重い口を開いた。
「…あなたの推測通りです。ですが、それは『誤認』ではありません」
「どういうことです?」
「塔は、論理の怪物。感情を持たぬ、絶対的な番人です。あなたたちの浄化作業は、確かに都市を良い方向へ導いている。だが、その過程で、封印されていた『記憶の残滓』を僅かに揺り動かし、結界全体に、ごく微細な『歪み』を生じさせているのもまた事実。塔は、その『歪み』を、将来的に都市全体を崩壊させかねない、致命的な脅威と判断したのです。そして、最も合理的で、最も効率的な方法で、その脅威を排除しようとしている」
「それが、市民の意識を奪うことだと…?」
リリアが、震える声で言った。
「そうです」
セラフィーナは、静かに頷いた。
「塔の論理によれば、都市の幻影の安定を乱す最大の要因は、そこに住まう人々の、予測不可能な『感情』そのもの。意識ある市民の数を減らすことで、結界にかかる負荷を最小限に抑え、自らを修復しようとしているのです。それは、塔にとって、トカゲが尻尾を切って生き延びるのと同じ、極めて自然な自己防衛なのです」
そのあまりに冷徹で、非人間的な論理に、三人は言葉を失った。
「どうすれば、止められるのですか?」
アゼルが、静かに問う。
「止める方法は、ただ一つ。塔の心臓部へ行き、塔と直接対話し、あなたたちの行いが、脅威ではなく、都市を救うための『治療』であることを、論理的に証明することだけです」
「塔の、内部へ…?」
「ええ。ですが、それは、死を意味するかもしれません」
セラフィーナは、三人の覚悟を試すように、そのヴェールの奥から、鋭い視線を向けた。
「これまで、塔の内部に足を踏み入れた者は、創設期の錬金術師たちを除いて、一人もいません。その内部がどうなっているのか、私にも分かりません。ただ、一つだけ言えるのは、塔は、自らの心臓部を守るため、侵入者に対し、容赦のない試練を課すであろうということです」
「行きます」
アゼルは、迷いなく答えた。
「この事件のきっかけとなったのは、私たちの研究だ。ならば、終わらせるのも、私たちの責任だ」
「私もです!」
リリアも、強く頷いた。
「眠ってしまった人たちを、放ってはおけません!」
ガイウスは、そんな二人を、苦々しいような、しかしどこか誇らしげな目で見つめていた。
「…分かった。だが、無茶はするな。お前たちが戻らない場合、俺が最後の手段を取る。この都市の未来は、お前たちだけに背負わせん」
セラフィーナは、三人の揺るぎない決意を見ると、静かに立ち上がった。
「…よろしいでしょう。あなた方が、その深淵を覗くというのなら、私は、道を示すまで」
彼女は、禁書庫のさらに奥、これまで誰も見たことのない、壁一面に複雑な術式が刻まれた、古びた石の扉の前へと、二人を案内した。
「これが、『幻影の塔』へと続く、唯一の入り口です。ですが、この扉は物理的な鍵では開きません。開くのは、月に一度、この都市の魔力が最も安定する、満月の刻だけ。そして、扉を開くためには、塔からの問いに、正しく答えなければなりません」
セラフィーナは、そう言うと、古代エルフ語で書かれた、一枚の羊皮紙をアゼルに手渡した。
「これが、塔に入るための『鍵』です。健闘を、祈ります」




