前途は多難で満ちている
双子の片割れにそうとは知らず迷惑をかけ続けていた、と理解したカインは、それに気づかせてくれる切っ掛けを作ったクロエという令嬢を少なからず気にかけていた。
行き遅れ令嬢、という噂をカインだって耳にした事はある。
一年入学が遅れた程度で行き遅れとは言いすぎな気もするが、しかし女が子を産める時期というのは限りがある。貴族の家同士の婚姻は基本的に跡取りを産まなければならないが、しかし成人したとみなされない娘を嫁にはできない。学校を卒業できた、というのは貴族として最低限の常識を履修したという証明でもあるのだ。
学校を卒業しただけでは、一応貴族として認めない事もない、程度のものなので何の自慢にもならないのだが。
それでも、そういった証明があるのとないのとでは大違いだ。
カインは学問に関しては優秀であると自覚していたし、周囲もそう認めてはいたけれど。
しかしそれ以外はからっきしだったのだ、と知ることができたのだ。
知っていて目をそらし続けるのは問題だが、知らないままでい続けるのも問題である。
無知は罪、とはよく言ったものだ。
キースが散々口にしていた言葉だってそうだったはずなのに、身内の言葉を知らず軽んじてしまった事も大いに反省するべき点であった。
もしあのままずっとキースの言葉を無視し続けていたならば。
本当にある日突然、自分と間違われたままキースが殺されるような事になっていたかもしれない。
もしそうなれば、きっと悔やんでも悔やみきれなかっただろう。自分のせいで。そんな風に一生を自分自身で責め続けていたに違いない。
そんな手遅れになっていたかもしれない事態を解決に導いてくれたと言っても過言ではないクロエ・フィーリス。カインが興味を持ったのは、まさしく必然と言えよう。
恩人である、という思いもあった。
それだけではない、一年入学が遅れた行き遅れと陰で言われている事も知ってはいた。
ただ、今までのカインにとってその噂が耳に入っていたとしても、どうでもいいものとして聞き流していただけだ。
けれどもそんな彼女が、自分もそれなりに苦労をしていそうな令嬢が、自分にとっての恩人となれば。
自分だって大変なはずなのに、わざわざ何の関係もない他人を助けてくれるなんて……と驚嘆したのだ。
健康上に問題がある、という噂の他、彼女の妹の我儘で入学が遅れた、という話も少しだけ聞こえてきてはいた。どちらが本当なのか、というのを考える必要はなかった。
あのままでいれば、いつかキースとの仲は修復不可能なまでに拗れていたかもしれない。それを未然に防いだクロエに、せめて何らかの礼を、とも考えた。
しかしクロエについての噂を集めても、行き遅れだとかそういったものばかりで、彼女個人に関する――何を好んでいるだとか――噂はこれっぽっちも入ってこなかった。
クロエの友人経由で情報を得ようにも、悲しいかな、今の今まで勉強ばかりをしていたカインには、一応友人が一人もいないわけではなかったけれど、しかし女性の知り合いはほぼいなかったので。
クロエに近しい人物とのコンタクトすらとれなかったのであった。
親しいわけでもない男がいきなり近づいたところで、無用な警戒を抱かせるだけ、というのは流石にカインも理解していた。
だからこそ、人を介してクロエに関する情報を集めるのが難しいとなって。
彼は直接本人に聞く事にしたのである。
結果は言うまでもない。
何度か遠目でクロエを見た事はあった。
妹だというポーラと一緒にいる時や、一人の時。
健康上の理由で一年入学が遅れた、という噂を耳にしてはいるが、カインの目で見たクロエは健康そのものであったし、ではやはり妹の我儘で入学が遅れたとかいう噂が真実であったのかもしれない……とは思ったもののそれ以上に。
惹かれたのだ。どうしようもなく。
カインの周囲にたまにいる女性といえば、母を除けば何だか口煩い面倒な女くらいで。
女というのはやかましい生き物、という風に思い始めていたくらいだ。
実際学校にいる女子生徒たちだって、休み時間の間集まってはキャラキャラと甲高い声で囀っているのもあって、カインからすればあまりいい印象を持っていなかった。
けれどもクロエはそういった騒々しい女性とは正反対のおとなしく控えめな雰囲気で。
図書室で本を読んでいるのを見かけた時に、
「あ、好きだ」
とカインは突発的に自覚してしまったのである。
一見すると大人しそうで控えめなのに、それでもキースに声をかけてカインとの事を解決に導いてくれたのか、と考えると。
引っ込み思案で他者に声をかけるのも怖い、といった女性がいる事もカインは一応理解はしていた。見た目だけで言えばクロエはそういったカテゴリに該当しそうではあったのに、しかしキースがカインと間違われて絡まれていたところを助けに入り、そうしてその後も手を貸してくれていたのだ。
芯の強い女性なのだろう。
自然とカインはそう思えた。
好きだ、という自覚をした直後からカインの心臓はバクバクといつも以上に鼓動を激しくさせ、妙に落ち着かない気分にさせられもしたが図書室で声をかける事だけは自制した。
そもそもカインは今まで他者にこういった感情を抱いた事がない。
これが恋だ、と頭では早々に理解しはしたものの、理解したからといって適切な行動がとれる気がしなかったのだ。
声をかけたい気持ちはある。
自分を認識してほしいという気持ちもある。
クロエが今読んでいる本に関しても、共に語らいたい、なんて思いもした。
気持ちばかりがふわふわとしていて、しかしこの感情のまま行動に出たら、うっかり声を落とすことを忘れて司書に注意されそうだ、と頭の片隅の冷静な部分が判断したのもあって。
カインはぐっと堪えていたのだ。
傍から見れば不審者の図になろうとも。
ちなみにカインは周囲から既に気難しい面倒な相手認定をされていたのもあって、多少の奇行に周囲が注目する事はなかった。それを幸いと言っていいかは微妙なところではあるが。
そろそろ最終下校時間、となってクロエが席を立ちカウンターで本を借りる手続きをしていたらしきポーラと共に図書室を出て。
その後を追いかけて、途中で先回りをしてカインは二人の前に姿を現したのである。
妹の我儘で入学が遅れた、というのであればさぞそんな妹に迷惑しているのかもしれない、とも思ったが、カインの予想を裏切って二人の仲は良好に見えた。
それどころかカインが声をかけた時、妹の方が前に出てきたのだ。姉を守るように。
我儘で振り回しているのであれば、こういう時姉を矢面に立たせるのではないか、とも思ったがあまりにも自然な動作で立ち塞がられてしまって。
カインは若干困りつつも、それでもどうにか口を開いた。
キースとの件、助かった。ありがとう。
そんな、謝罪と感謝の気持ちを口に出すはずが。
気付けば好きな食べ物に始まって他の好きな物を聞き、最終的にどういった異性が好ましいかまでを口走っていたのだ。はっ、と気づいた時には手遅れだった。確かに気になってはいたけれど、そういったものを聞くのはもう少し後で、タイミングを見計らって、と思っていたのに。
突然の質問ラッシュに、妹の方が奇声を上げてカインに襲い掛かった。
行き遅れの姉を使って自分への矛先を回避させようとしている、なんて酷い誤解。
完全に姉の敵認定をされてしまったカインは、ポーラの思った以上に鋭い蹴りを耐え切れずその場で膝から崩れ落ちて。
令嬢とは思えないドスのきいた声で次お姉さまに近づいたら切り落とすとまで言われ。
こっわ。
何この妹こっわ。
と内心でガクブルしたのである。
カインの周囲で見かける女性というものの大半は、大抵騒がしくて、でも大した力は持っていないか弱い生き物であったので。
こんな初手から暴力かましてくる令嬢なんて未知なる生命体も同然であったのだ。
ポーラが幼少期、一時的にとはいえ市井で暮らしていた事を知っていればまだ、あぁ……とどこかで納得したかもしれない。けれどもそんな事は知らなかったので。
ただただどういう対応を取ればよいのか、さっぱりわからなかったのである。
腕力面で言えば、カインの方が確実に強くはあれど。
けれどもしかし、クロエに対して粗暴な振る舞いをするつもりはないのだ。
むしろ彼女に好意を抱いて、相手にも同じだけの気持ちを持ってもらいたいと思っているのなら、力で無理矢理……など確実に嫌われるのがわかりきっているし、その矛先を彼女ではなく妹へ向けても行きつく先は同じだろう。
あくまでも紳士的に振舞わなければならないのだ。
相手の暴力を一方的に受け続けるつもりは勿論ないけれど、相手に恐怖を抱かせるような事は避けなければならない。
もし仮にクロエに、
「この人怖いから関わりたくないわ」
なんて思われでもしたら。
想像だけで心臓が止まりそうな気がしたのだ。
その他にも、
「先に手を出した妹が悪いとしても、だからって同じように暴力で解決しようとするのはどうかと思います」
「軽蔑しました」
なんて言葉を吐かれでもしたら。
想像しただけで涙が出てきた。
ついでにこの想像は家に帰ってからだったので、突然ぼろぼろ涙を零して泣き始めたカインを見てキースがぎょっとして「どうした!?」となったのはちょっとした失態である。
黙っていてもどうして泣いたのか、どこか悪いのか、と心配させている片割れが更に心配するだけなので、早々に白状した結果、呆れられてしまったが。
その次の日あたりに、キース経由でクロエから「妹がごめんなさい」という旨の手紙を受け取って、カインは腹に食らった一撃の事はすっかりどうでもよくなってしまっていた。
密かに青くなっていたが、あばらが折れたわけでもなければ内臓に深刻なダメージが、というわけでもないし、ちょっと冷静に考えてみれば確かにもうじき暗くなろうかという時間帯に女性に詰め寄るような真似はよくなかった、とカイン自身思っていたので。
それでもクロエからそんな手紙が来た、という事で、すっかりカインはのぼせ上がってしまったのである。
恋文というわけでもないのに、大切そうに額縁にしまい込む始末だった。
「うわ……」
と片割れの心底ドン引きしました、みたいな声が聞こえても些細な話だ。
ロシュフータ家は将来的にカインが伯爵に、キースが子爵位を与えられる事が今のところは決定されているものの、しかし二人には未だ婚約者というものがいない。
高位貴族であるのなら、幼い頃に早々に婚約をさせておく家も勿論あるのだけれど、ロシュフータ家はそこまで急いで決めてしまっても、将来的に破局する可能性もあるわけだし……と余程問題のある女性を連れてこなければ子どもたちの意思に任せようという方針だったので。
両親のその目論見はある意味で正しかったかもしれない。
カインがこんな風に成長するとは思っていなかったので、もし早々に婚約者を決めていたとしても、相手の事を慮るという事をしない挙句事実という名のノンデリカシー発言を連発して相手を怒らせ続ける可能性もあったのだから。幼い頃はまだちょっと本が好きなだけのおとなしい子だったのだ。
しかも学校でその周囲に配慮を一切していない発言のせいで、同年代の女性からも恐らくあまりいい印象は持たれていない。顔はいいのに。
最悪後継ぎはどこかから養子を迎えるとか、キースが結婚してそっちで産んだ子を……なんて可能性も既に見据え始めていた両親にとって、まずカインが恋をしたという事実そのものが青天の霹靂だったと言ってもいい。
両親はフィーリス家、と聞いて微妙な反応をしていたけれど。
しかし、もしここでカインがクロエを射止めなければ恐らく他にマトモな女性が嫁に来てくれるかは疑わしい。
そう考えて、キースはカインの恋を応援する事にしたのだ。
ポーラにクロエに近づくなよ、と脅されている以上、カインが性懲りもなくクロエに近づくような事をすれば、きっと本当に実力行使に出てくるかもしれない。
クロエから近づく分にはポーラも文句は言わないだろうけれど。
せめてお互いの事を知るところから始めるにしても、接近禁止を言い渡されてしまっては、それすら難しくなってくる。手紙でのやりとりをするにしても、あの様子ではクロエの目に触れる前に処分されてしまう可能性というのも考えられた。
なので、まぁ。
「まったく仕方ないな」
なんて言いつつも、キースは一肌脱ぐことにしたのだ。
カインではなく自分がせめてポーラとクロエに近づいて、情報を得ようという作戦である。
キースも双子で見た目はカインにそっくりなので、万一クロエに近づいた時にカインと間違われると後々揉めそうだな、とは思ったのだ。
ならば最初にポーラにカインとキースが双子であるという事を知ってもらって、キースがクロエとカインの橋渡しをしようと考えたものの。
「お生憎ですけれど、お姉さまを貴方の兄なんかに渡すつもりはこれっぽっちもなくってよ。
わかったらさっさと立ち去りなさいな」
しっ、しっ、とまるで野良犬を追い払うかのような仕草をされて、取り付く島もなかったのである。