踏み出す道の先
ヒューゴが語った内容は、クロエが目覚めてからポーラに説明された内容とそこまで変わりはなかった。
クロエの入院費用が必要になったので金の工面をしたい事。
それくらいなら援助すると言っても、しかしポーラはそれを断った。
目覚めるまでにどれくらいかかるかもわからないのだ。一生それが続くとなると流石に申し訳ないと。
今はこうしてクロエが目覚めたからまだしも、事故に遭った直後は目覚めるかどうかもわからないままだった。
だからこそポーラの言い分もわかる。
ポーラがヒューゴ、並びに彼の実家をただの金蔓としか見ていないのであればその言葉に遠慮なく乗っただろう。
けれどもそうではなかったからこそ。
搾取し続ける事になるかもしれない事を避けた。
ポーラの中でクロエを見捨てるという選択肢はなく、またいつ終わりがくるかもわからない事態にヒューゴを巻き込みたくはなかったのだろう。
クロエが死ぬにしろ、目覚めるにしろそれがいつくるかなんて、あの時点ではわかりようもなかったのだから。
だからこそポーラは爵位を売るという話を持ち掛けて、まとまった金を工面した。
「待ち続けるにしても、ある程度の区切りはつけるつもりだと言っていたので貴方の入院にかかる凡そ五年分の費用をポーラに渡しました。そうして彼女は仕事を探すのだと言って、本当に職を探し始めた。
大変でしたよ、どうにか説得してうちの商会で雇う事にしたけれど、そうでなければ娼館に突撃していたかもしれなかったので」
「そ、れは……」
なんだそれは。
聞いていないわポーラ。
そう言いたかったが肝心の本人がいない。
「貴方にかかる費用はあるけれど、自分の生活に関してまでは計算に入れてなかった。その分だって別に出す事は何も問題なかったのに」
「あら、でも私の病院にかかった金額は実際……」
そこまで言ってアルベルトを見る。
セオドアとモーリスを助けた形になって、その費用はそちらから出していると言っていた。
「えぇ、なので実際あれは彼女が貴方が目覚めるまでの間の生活費用くらいの気持ちだったんです」
「それはそれで大盤振る舞いね」
爵位を売ったつもりで平民として生活するのなら、五年どころかそれ以上、働かなくても暮らしていけるのではないだろうか。
「その、あの時のポーラは間違いなく正気じゃなくて。
見ていてとても不安定な状態でした」
そう言われて、クロエは何と返すべきかわからず黙ったままヒューゴを見た。
クロエだって突然ポーラが事故に遭って目覚めるかどうかもわからない状態になった、なんて聞かされたら冷静ではいられないだろう。
半分しか血の繋がりはないけれど、それでもあの家の中でポーラは誰よりも家族として大切な存在なのだから。
ポーラが事故に遭ったのなら、間違いなく父も義母も「お前がそうなれば良かったのに」と言うだろう事は簡単に想像がつく。
けれども、そんな事を言われなくたってクロエだって自分が代われるのならと思っただろう。
ポーラがいたから、あの家で暮らしていけた。仮にポーラがいないまま父が義母を家に連れてきたとして、そうなったとしてもあの二人と上手くやっていけるとは思えなかったから。
ポーラがいなければ跡取りとしての教育はされたと思うけれど、やはりどこまでも淡々とした関係で家族と呼ぶのもどうかと思うくらいのものしかなかったはずだ。
「また守れなかった」
「え?」
「今度こそ守らなくちゃ。
そう、あの時ポーラは言っていたんです」
「それ、は……」
心当たりはある。
ポーラがクロエを守ろうとした切っ掛けとも言える出来事だ。
母が遺してくれた髪飾りを父がポーラに譲れと言って、クロエから無理矢理毟り取った幼い日の――ポーラがクロエに守るからと、まるで誓いのように言葉にした遠い日の思い出。
クロエからすればあれから充分すぎる程に守られていたと思っているし、事故に遭ったのはクロエの自業自得のような面もある。あの場にポーラはいなかった。彼女が責任を感じるような事はどこにもない。
けれど。
(そう。あの出来事はポーラにとってあまりにも根深く残ってしまったのね……)
今、かつての事を思い出してクロエが思う事は、今まで怪我らしい怪我をしてこなかったからあれが人生で一番痛いと思う出来事だったわね、である。
その後にもっと痛い目を見たとはいえ、事故に遭うまでは無理矢理髪飾りを引っ張られて勢いで髪がぶちぶちと抜けたあれが一番痛い出来事だったのだ。
まさか父がそこまでするとは思わなかったし、そういう意味では当時、心もとても痛んだけれど。
だがしかしもう父の事を家族として大切だとも思っていない今ならば、改めて父に酷い言葉を投げかけられたりしても心が痛む事はない。父が自分に優しい態度をとるなんて思っていない今ならば、どれだけ酷い言葉や態度を向けられてもあぁやっぱりね、で済んでしまうので。
大体母が死んで割とすぐにエイミとポーラを連れてきたのだ。父は。
あの時点でクロエは自分は愛されていないのだと理解したし、父に期待するのは無意味だと悟ったというのもある。
けれどもポーラはそうではない。
彼女は父に愛されていた。
優しい父親だと思っていた相手のそれが、ただの一面であって全てではないと知ってしまった。
これがポーラを虐める悪い姉を懲らしめたとかであれば、また違っただろう。
しかしそうではなかったから。ポーラはあの時点ではまだ普通に姉として、新しい家族の一人としてクロエを慕ってくれていた。
父や母とは違い家族になって間もなかったけれど、それでもポーラにとってクロエという存在は悪いものではなかったのだ。
優しいはずの父の、嫌な一面。
ある程度成長してからならば、人間にはそういう部分もあると受け入れられたかもしれない。
だが、今まで優しい存在だったはずの父が、ポーラに向けた態度ではないにしてもポーラが仲良くしていた相手にそういう面を見せたのだ。
それはきっと幼いポーラにとって、かなり衝撃的な出来事だったに違いない。
そうでなければ、クロエが事故に遭った時にそんな風に呟くとも思えなかった。
「心って目に見えるものではないものね……」
「え?」
「いえ、なんでもないわ」
クロエは割と早い段階で諦める事で受け入れた面もあった。
クロエの母の事を父がなんとも思っていなかった以上、そして母が死んでしまった以上はもう二人の関係が改善される事などありはしない。
同時にその母が産んだ自分の事も、無関心のままか嫌悪の象徴のどちらかになりはしても、ポーラのように愛する娘にはならないだろう。
そう理解したからこそ、愛されようと思う事を諦めた。
嫌われていてもそういうものだと受け入れた。
ポーラと同じように自分もいつか……なんて期待をしなければ。相手からの愛情を期待せず、自分もそういった感情を相手に持たなければ、精神的に楽になるのは早かった。
クロエにとって大切な家族はその時点でポーラだけだ。
本来なら、ポーラとだって仲良くできたかわからないけれど、しかしポーラが悪いわけではない。
そういう風に折り合いをつけた。
そうするしかなかった……とも言うけれど、クロエは別にその部分に関して後悔をしているだとか、そういうわけでもない。
後悔も何も、そもそもクロエの母と父の関係は最初から破綻していた。
ポーラにとって良い両親だった二人が、しかしクロエには良い両親とはいえない存在になって、幼心に傷ついたのだろうな、とは思う。
クロエは元々良好な関係ではなかったから諦めもさっさとついたけれど、ポーラは違う。
割り切ろうにも今までの優しかった両親の姿が記憶にある以上、そう簡単に諦めたり割り切ったりできなかった。
クロエ以上に受け入れるまでに相当な時間がかかったのではないだろうか。
本人が口でもういいの、なんて言ったところで本心ではまだ納得しきれていないなんてのは、よくある話だ。
「五年を区切りにするつもりではいたようですが、もし貴方が目覚めないまま五年を迎えていたらどうしていたのか……もしかしたら心中でもするのでは、とそんな考えがよぎりました」
「……私からはなんとも言えないわ」
そんな事あるはずがない、と言い切れない。
そうでなくともポーラにとってクロエは守らなければならない存在だと幼い頃に思い込んでしまったのだ。幼かった頃のクロエとポーラの仲がそこまで良くなければ。悪くはなくとも良くもない、というような最低限の関わりしかないものであったなら、きっとそうはならなかった。
ただ同じ家で過ごしているだけの人、くらいの距離感しかなかったのならばクロエが事故に遭ったとしても、それを聞いたところで「あら大変ね。お大事に」で済ませた事だろう。
けれどそうはならなかった。
そうならなかったポーラが、クロエが事故に遭った後どうしたかというのは今更である。
もし五年間眠り続けて目覚める様子もないままであったのならば……
今後の事を考えて、将来に希望がないと悲観して、ポーラはもしかしたら見舞いに来た時にクロエをその手にかけたかもしれない。
そしてその後に自分の命も……
「そういえば」
そこまで考えてふと疑問が浮かんだ。
「私のお見舞いってポーラ以外に誰か来た事はありましたか?」
ポーラが爵位を売ったと言って平民になったのだと言ったところで実際はそうではなかった。
であれば、友人の一人くらいは……と思うよりもまず最初にクロエが思い浮かべたのは父と義母だった。
いくら領地の片隅に追いやられるような事になったとしても、その前に最後に一目、とか言い出せば会わせないというわけにもいかないだろう。
その場合、見舞いというよりは邪魔な存在を消す方向に動きそうではあるけれど。
「いいや。きみの友人たちは見舞いに来るつもりだったようだけど、そもそもが忙しい時期だったからな。
落ち着いたら行こうと思った時にはポーラが爵位を売った話も流れていたし、そうでなくとも基本面会謝絶だ。
良からぬ事を企む者がいないとも言えなかったのでな。密かに見張りをつけていた」
答えたのはカインだった。
この時点で婚約はなかった事になっていたので、カインが見舞いにくるのは色々と問題がある――が、だからといって何もしないという選択肢はなかったようだ。
カインが手配した者たちによって、もし父や義母がクロエを害そうとするような事を考えたとしても、実行はできなかったとみるべきか。見舞いに訪れていたのはポーラだけ。
他に誰かが来ていたならまだしも、ここに来るのは自分だけとわかるような状況だったというのなら。
(思いつめたポーラが私を殺して自分も死ぬ、なんて事が本当にあったのかもしれないわね……)
そう考えて、けれどクロエはその部分に関して何を思うでもなかった。
ポーラに手間をかけさせてしまった、という気持ちにはなるけれど、彼女がそう決めて自分を殺すというのなら。
それはそれで良かったのに……なんて。
そう思ってしまったから。
両親への思いが砕けた時、ポーラに残された家族はクロエだけだった。
クロエにとってもポーラだけが家族と呼べる存在だった。
父や義母に自分が殺されそうになっていたのなら。
その時はきっと大人しく殺されてなんてやらなかっただろう。
意識を失って眠り続けていた時ならどうしようもなかったけれど、そうじゃない状況であったなら間違いなくクロエは抵抗したし相手にも傷を残そうとしたに違いない。
けれどもポーラにならば、自分の命を任せたって構わなかった。
もっとも、こうして生き延びてしまった今、簡単に命を捨てようとは思わない。せっかくポーラが繋ごうとしてくれた命だ。自分の命であっても粗末にしてはいけない。
「…………お話としては、なんとなくわかりました」
けれど、果たして自分がポーラを説得できるだろうか。
そんな風にも思う。
「その俺……いえ、私はポーラを幸せにしたいのです」
「えぇ、わかります。私も、ポーラには幸せになってほしい」
だから。
「もう少しだけ、時間をくださいな」
クロエに言えるのはそれだけだった。