先は見えない
ずっと寝たきりだったから、普通に起きて立ち上がるだけでもかなり苦労した。
起きてすぐに食事をするわけにもいかず、しばらくの間は点滴で、そこから徐々に消化に良いスープあたりから少しずつ固形物を増やしていったけれど、戻らない体力のせいでトイレに行くだけでも大変だった。
それでも、点滴が外れた事はクロエにとって大きかった。
もっと針が細ければ痛くないのかもしれない、と思うのだけれど言うだけで医療技術がそう簡単に上がるわけもない。今より針がもっと細くなれば痛みは減るかもしれないが、それでもきっと人は注射という恐怖からは逃れられないのではないか、とクロエは思っている。
ともあれ、事故に遭う以前のような普通の生活をするだけ、というものが目覚めてからはとにかく大変だった。
それでも自分の足で歩けるというのは大きい。
ほんの少し歩くだけでも息切れがするが、それでも毎日少しずつ身体を動かしていけばいつかは以前のようになるかもしれない。そう期待を持つしかないのだ。
ポーラがこまめに様子を見に来てくれる事が、クロエにとって大きな励みになった。
学生時代の友人たちは皆貴族だ。
平民になってしまったクロエと関わりを持とうとは思わないだろうし、それに何より……仮に事故直後ならまだ希望を持って目覚めると思っていた人たちも、卒業後にはそれぞれ忙しくなっているはずで、そうなれば関係の薄くなってしまったクロエの事など記憶に残っているかも怪しい。
ポーラからクロエも一応学校は卒業した扱いになっているとは聞いたけれど、悲しい事にそれはきっとあまり役に立たないのではないか。
貴族であれば学校を卒業した事が一つの成人の証ともなるけれど、平民になってしまった今となっては……いや、一応それなりの仕事に就く事はできるかもしれない。
学校を卒業できたという事実が役立ちそうなのはそれくらいだった。
卒業まで半年といったところで、クロエの成績が優秀であったからこそ卒業できたのだとポーラには言われた。もし事故に遭っていたのが卒業まで一年、とかであったなら難しかった。
優秀である、という部分は本来ならば喜ぶべきところなのかもしれない。
けれど、あまり素直に喜べなかった。
それでも毎日コツコツと体力をつけて、どうにか一人である程度の事ができるようになってきたのはクロエが目覚めて半年が過ぎた頃だ。
元々子爵家でクロエは使用人たちから甲斐甲斐しく世話を焼かれていたわけではない。
むしろポーラが目を光らせていなければクロエは何もかも放置されていたっておかしくはなかったのだ。
それもあってある程度の事は自分でやるようになっていた。
もし、クロエがもっといい家の出身で身の回りの事を全て使用人にさせていたのであれば、回復までにはもっと時間がかかっていたかもしれない。
それでも、以前のように、動けるまでに半年がかかったのはクロエにはとても長かった。
どうしたって今までの記憶から、苦労せず動けたはずなのに……と思ってしまって中々動けなかった時は焦りもあったし、どうしてこうも動けないのかと自分自身に憤りを感じる事もあった。
けれどもようやく医者から退院しても大丈夫だと言われたのだ。
流石にまだ走ったりすればすぐに息が切れるかもしれないが、歩くだけであるのならかなり長く歩けるようにもなっていた。事故に遭った直後はあちこちぶつけていた怪我も、そもそも四年も眠っていた間に治っていたからこそ、目覚めた後はとにかく体力の衰えだけが問題だったのだ。しいて言うのなら、点滴が刺さっていた部分が痛かったくらいか。
意識がない間に刺さっていたからともかく、もし起きている時に注射や点滴の針が刺さるのを見る事になっていたら、きっとクロエのトラウマになっていたかもしれない。小さな子が注射が嫌だと泣き叫ぶのがよくわかる。
刺さる瞬間は意識がなかったけれど点滴を抜く時は起きていたので、引っこ抜いた後しばらくその部分をしっかり押さえていなければ傷口が開いたままで出血するから、と言われてクロエはしばらく借りてきた猫みたいに腕を押さえた状態で動けなかったくらいだ。
ちょっとでも動いたら押さえた部分がずれて傷口から血があふれ出るのではないかと怖かったのである。
太い針が刺さっていたからこそ、下手に傷口が開くような事になればどばっといくのではないかと、どうしてもいやな考えがよぎっていたのだ。
――かつてクロエが暮らしていた屋敷は既にクロエの住む場所ではない。
それ故に、帰る家がないクロエはポーラの借りているアパートに転がり込む形となってしまった。
そこは、病院から少し離れているが貴族街にある小さなアパートだった。
既に貴族ではないクロエもポーラも本来ならば貴族街で暮らせるはずはないのだけれど、しかしクロエが事故に遭った時まだクロエは子爵家の令嬢であったのは事実だし、ポーラだって同じく子爵家の令嬢だった。
ポーラはその身元を活かして職を得た。
その職場で働く者たち向けに用意されているのが、そのアパートだった。
貴族と関わる事もあるらしいので、貴族として過ごしてきたポーラなら確かに何か急な要件があって貴族と関わる事になったとしても、礼儀作法に関しては安心できる。それにポーラの事情は職場でも伝わっていて、それ故に彼女は貴族街にあるアパートを借りる事も許されているようなものだった。
ポーラが務めている職場は、そういった貴族たちと関わる事がある者に関しては貴族街のアパートで住む許可をとっているらしい。
関わる機会がなければ、貴族街ではなく平民たちが暮らしている区画にあるアパートを借りる予定だったのだが。
クロエは本来ならポーラの借りているアパートに住むのは問題があるのだが、それもポーラは事情を説明して一時的に、という形で許可をもらう事ができたようだ。
退院してもよい、と許可を得たとはいえまだクロエ一人で生活するのは難しいだろう事はクロエも理解している。
まだまだポーラには迷惑をかける形になってしまうし、ポーラ以外の人の温情にも縋る形になってしまうが、ここで下手に大丈夫だから、なんて言ったところでどうしようもない事はわかりきっている。
早めに一人で生活できるくらいになって、速やかに他の住む場所を探さなくては……そう決意する。
ポーラが働いているところでクロエも働けば、このアパートでの生活に文句が出る事はないのだろうけれど、しかしクロエは流石にそこまでは……となったのだ。
大体ポーラは既にここで働いてそこそこ経過しているけれど、クロエはそうではない。
入ったところでしばらくは足を引っ張るだけではないかとすら思っている。
そうじゃなかったとしても、何というか負い目というか引け目というか、ともあれそういうのがクロエの中にあったのは否定できない。
ポーラの職場の人からはポーラ経由で、無理はしないでゆっくり治すように、と伝えられたけれどその言葉をそのまま受け取るわけにもいかないだろう。
その言葉に甘えていつまでもダラダラ過ごすわけにはいかない。
今はまだできる事などたかが知れているけれど、それでもそこで諦めてしまってはいけないと気を引き締めて、クロエはできる事から手を付けていった。
ポーラが仕事に行っている間に家事を少しずつこなしていく。慣れない作業は思っていた以上に重労働に感じられた。
それでも毎日続けていれば、徐々に慣れてきて少しは自由な時間というものが作れそうだった。
いつまでもポーラの世話になるわけにもいかない。
家も、仕事も、探さなければならないものはあるし、必要な物は沢山ある。
いつまでも甘えているわけにはいかなかった。
家の中で備蓄されている食料が足りなくなってきたので、クロエは買い物に出る事にした。
最初のころは買い物に行けるような余裕もなくて、仕事帰りのポーラが買ってきてくれたりもしたけれど、今はもう一人で行けるようにはなってきたのだ。
貴族街でも一応食糧は売られている。
平民たちが暮らしている所と比べれば勿論値段はお高いけれど、しかし平民たちが利用する店のある下町とも言うべき場所まで行くとなると、流石にまだクロエの足では厳しいものがあるし、ポーラもそこまで行かないで貴族街の中だけで用事を済ませてほしいと、しつこいくらいに念を押していた。
貴族街の中は比較的安全ではあるけれど、平民たちが暮らしている所は物騒な事件も多いらしくそれもあってポーラは絶対だからね!? とクロエが頷くまで口を酸っぱくして言っていた。
これでは果たしてどちらが姉なのかわからない。
そう思っても、だからといってポーラの言う事を無視しようとは思わなかった。
これ以上余計な心配をかけたくないのもあるし、迷惑をかけたいわけでもないのだ。
それに、ポーラの言うとおりにしておけば少なくともポーラが心配しすぎて精神をすり減らす事はない。自分を心配して口うるさく言っているだけだというのはよく理解していた。
一日も早く自分一人でも大丈夫だと思われるようにならなければ……と思いながらも道を歩いていれば。
「あっ」
一人の少年がクロエを見て驚いたように声を上げた。
思わずそちらへと視線を向ければ、少年は口をぱくぱくとさせて何かを言おうとしながらも、しかし言葉が出てこないかのように固まっている。
少なくともクロエに見覚えはない。大体、少年くらいの年齢の人物は悲しいかな、クロエの知り合いにはいないのだ。ポーラと違ってクロエの交友関係はそこまで広くはない。学校に通っていた時はそれなりにいたとはいえ、今はもう付き合いも途切れた者たちばかりだ。
既に平民になってしまったからこそ、あまり大っぴらに貴族街を歩くのもちょっとだけ気まずいものはある。
貴族のための場所であって、ここは平民が気軽に足を踏み入れて良い場所ではないのだ。
貴族との関わり方を理解しているのであればまだしも、そうでない者がここに足を踏み入れるのであればそれこそ命を捨てる覚悟くらいは持っていなければならないだろう。
一応、みすぼらしくない服だとは思う。貴族の令嬢が着るにしては微妙かもしれないが。
それでもポーラが用意してくれた服は、別にセンスがおかしいだとか、そういう事もないはずで。
今の自分が平民だと改めて自覚して、クロエは貴族であろう少年に対して頭を下げて礼をした。
平民のくせにマトモにこちらに挨拶をしなかった、とかそういう言いがかりをつけてくるような相手には見えなかったが、しかし見た目と中身が同じような人間などそう存在しない。
何かしらあって、彼の機嫌が悪い時に平民と思しき人物を目撃して……とかそういう可能性もあり得るのだ。
だからこそこちらは貴方様に対して礼を欠くつもりはありませんよ、という意味を込めて礼をしたまま動かなかった。
「あっ、いや、ちが、ごめんなさいお姉さん、そういうつもりじゃなくて……」
焦ったような少年が、頭を上げてと言うのでクロエはそこで姿勢を戻す。
体力はそれなりに回復したと思っていたが、それでも万全とは言い難くこのままずっと礼をした体勢のままであったなら、多分あとちょっとで足か腹筋あたりがもたなくてバランスを崩していたかもしれない。
顔を上げたクロエの前に、少年がやって来る。
仮にも貴族であろう少年がこうも無防備に近づいてくるとは思わなくて、クロエも思わずたじろいだ。
「やっぱり、そうだ」
「あの、何か……」
一人納得した様子の少年に、クロエとしては困惑しかない。
「今、時間ありますか?」
「え? あの……?」
「少しでいいんです、付き合ってもらえませんか!?」
切羽詰まった様子でそう言われ、クロエは何が何だかわからないけれど。
それでも今のクロエは平民であるので。
貴族にそう言われてしまえば下手に逆らう事もできない。
余程重要な仕事中である、というのであればまだしも、残念ながら今のクロエはそこまで重要な仕事を任されているわけでもなく、少年にとっては幸いな事に時間に余裕だけはたっぷりとある。
正直、用件がわからないので断りたいし関わらない方がいいのではないか、と思うのだけれど。
下手に嘘を吐いて後日それがバレた場合、自分だけが貴族の不興を買うだけなら仕方ないが、ポーラにまでそれが及ぶ可能性を考えると頷くしかない。
この少年が平民を嬲る事に何の躊躇いもない、というような人ではありませんように……と祈りながらも、クロエは頷くしかなかった。
そしてそんなクロエの内心に気付く事なく少年はパッと表情を輝かせ、それではこちらへ! とクロエに手を差し出した。あまりにも自然にエスコートされてしまって、クロエはつい貴族令嬢だった時に学んだ作法に則ってしまったのである。
「あっ、今更ですが危害を加えたりはしません。ご安心を」
少年がそう言ったのは、なんだか立派な馬車に乗せられてからだった。
せめて馬車に乗る前に言ってほしかった、と思うものの文句も言えずにクロエは「はい」と言うしかなかったのである。
ちなみに馬車には少年の従者だろう女性が一人と護衛らしき男性もいたので、少年と二人きりではないものの……どちらにしてもクロエの内心に変わりはなかった。即ち、これからどうなるんだろうという恐怖である。