そして、四年後
――ふ、と目を開けてすぐに状況を理解できなかった。
意識がぼんやりとしていて、状況把握に時間がかかったのは単純に見覚えのない天井が視界一杯に広がっていたからである。
あら、私の部屋の天井ってこんな色だったかしら? 違うわよね……? あら? ではここは一体……?
そう思って疑問を口に出そうとしたものの、喉が張り付いたみたいになってしまってロクに声も出せなかった。
水が欲しい。
そう思いながらも、誰かを呼ぼうとは思わなかった。
どうせ使用人たちは自分の言いつけはマトモに聞かないと知っている。
妹が近くにいるならまだしも、そうでない時の態度はとてもじゃないがロクなものではない。
表向きそれらを隠そうとしているようだが、内面からにじみ出ているのだ。今更表面だけ取り繕われたところでクロエが信用するはずもなかった。
だからこそ近くに水差しでも置いてないだろうかと思って、そっと首を動かして視界をずらす。
そうして移動させた視界の先は、自分のベッドの近くではなく何故だかその先の小さなドアだった。
あら? 本当にここ、どこかしら?
きょろ、と目を動かしてみるけれど、やはり心当たりがない。
それ以前に、どうしてここに自分がいるのかすらクロエにはわからなかった。
とりあえず起き上がろうとしたものの、自分の意思に反するように身体はぴくりとも動いてくれない。首を動かして視界をずらしただけでも重労働をこなした後のような疲労がやってきた。
「……ぇ」
自分では普通に「えっ?」と言ったつもりなのに、口から出たのは小鳥の囀りよりもなお小さな囁き声。いや、囁くというのもどうだろうというくらいの小さな小さな声だった。
今すぐ身を起こして何がどうなっているのか色々と確認したかったけれど、石になってしまったのかと思うくらいに動かない。いや、動かそうと思えば動くはずだが、力が入らなかったのである。
どうして。一体何があったの……?
そんな風に思いながらもどうにか首は動かせたので他の場所を見るべく視線を動かして。
そして、自分の腕にくっついている管に気が付いたのである。そこから視線を更に移動させればそれが点滴であるという事は理解できた。
点滴……?
え、それじゃあここは病院……?
そう思って改めて視線をぐるりと移動させる。
病院だと思って見れば、確かにそうなのかもしれないなと思えてきた。
もし病院であるのなら、とりあえず誰かしら、お医者様を呼べばこの状況がどういう事なのかを知るくらいはできるだろう。
しかし……
生憎と見える範囲に誰か人を呼べるような、音を鳴らすような道具は一切置かれていなかった。
自分の見えない範囲にはあるのかもしれないが、それを確認するためにはまず少しでも上半身を起こさなければならない。しかし身体に力が入らないので今はそれができない。
中々にどうしようもない状況だった。
どうしたものかと思っていれば、部屋の向こうから足音が聞こえてきて、そうしてこの部屋の扉が開けられた。
ぱちぱち、と瞬きをしてやってきた人物を見ていたクロエは、一瞬それが誰なのかすぐに気づけなかった。
見覚えはあると思う。
思うのだけれど、自分の中の記憶と一致しない。
そのせいでただ目を瞬いて見るだけとなってしまっていた。
しかし相手にとってはそうではなかったらしい。
ぽかんとした表情をしてクロエを見ていたが、それもほんの少しの間だけ。
口をパクパクと動かして何かを言おうとしたようだが、それよりも先にと踵を返して部屋を飛び出していく。
そうして先程以上に大きな足音を立てながらも、再び彼女は戻ってきた。
医者と看護師を引き連れて。
――クロエの身に何が起きたのか、本人がそれを知ったのはその後の事だ。
上手く声が出せなかった事から水をもらい、どうにか喉を湿らせれば多少は声が出るようになった。
自分が馬と激突して倒れた拍子に頭をぶつけ、そのまま意識を失ってずっと昏睡状態だったのだとか。
言われて、そういえば、なんかそんな事があったような……? とクロエはぼんやりと思い出す。
そうだ、確かにあの時、そうだった気がする。
まだどうにも頭に靄がかかったようでハッキリと思い出せないが、それでも確かにそんな事があったなと納得する。
驚いたのはなんとその事故から四年が経過しているという事だった。
四年。
卒業まであと半年、と家を出る日を待っていた。
けれどもあれから四年。
「じゃあ、私は……」
「お姉さまは卒業できています。確かに卒業まで半年となったところで通えなくなりましたが、それでも成績は優秀だったから卒業そのものはできています。
けれど……」
見覚えがあるような気がするな、と思っていた最初にこの部屋にやってきた女性はやはりポーラだった。
記憶の中よりも少しだけ大人びた彼女の声は震えている。泣くのを堪えようとしていた結果だが、しかし堪えきれずに涙を零していた。
ポーラの言葉が途中で途切れたのは、その先を告げる勇気がなかったのか、単純にクロエを思いやっての事なのか。
まだ頭はハッキリと働いてくれる気がしなかったけれど、それでもポーラが言わんとしていた事はなんとなく想像がついた。
卒業の日から三年半が経過しているとなれば、恐らく自分の婚約は無かった事になっている。
まぁそうだろうな、とクロエは思った。
こうして目覚めたとはいえ、しかしそのままずっと目覚めない可能性だってあったのだ。そんな相手の目覚めをずっと待っていられるはずもない。カインとの婚約は消えて、きっと今頃は他の令嬢と結婚しているのだろう。
その事に思う部分がないわけでもないが、しかしカインはロシュフータ家の跡取りだ。
キースもいるけれど、血を残さなければならない。であれば結婚し、子を産んでもらわなければならないのだ。いつ目覚めるかもわからない女を待ち続けるより別の相手と縁を繋ぐ。貴族としてならそうするだろう。
「それでは、両親は」
「それは」
クロエの聞きたい事を瞬時に察したポーラが答えようとするのを遮って、医者があれこれと質問をしていく。体調に関していくつかの質問をされて、クロエはそれに答えようとするも少ししか喋っていないのに喉がカラカラになって軽く咳き込んだ。
「意識が戻ったのは喜ばしいけれど、だからといって今までのように行動しようとしてはいけない。ずっと眠ったままだったのだから。
積もる話があるのは確かでしょうけれど、今日のところはそろそろ面会時間が終了しますので……」
前半はクロエに、後半はポーラへと告げて、医者は目覚めたばかりで眠くないかもしれないけれど、と前置いてそれでももう少し休むようにと言ってきた。
今起きたばかりなのに? と思ったが実際クロエが目覚めたのは昼が終わり夕方に差し掛かろうとしていた時間帯で、窓の外から見える景色はうっすらと暗くなりつつあった。
「また、明日。詳しい話はその時にするわ。
それでは、お姉さま、ゆっくり休んでね」
現状詳しい事はわからないが、それでもあまり遅くまでポーラをこの場に留めるわけにはいかないと思ったクロエは、「そうね、気を付けて」とポーラに言うのがやっとだった。
医者はもし何かあればベルを鳴らしてくださいと言い残して去っていく。
ベッド横、クロエが手を伸ばせば届く場所に見れば確かに小さなベルが置かれていた。
この後で何かあったとして、夜遅くに鳴らすのは迷惑ではないのかしら……と思ったが、そうやって遠慮した結果クロエが死ぬような事になればポーラがどうなるか……と想像してしまったのでクロエは神妙な顔をして頷いた。もっとも、頷いた時にはとっくに医者も看護師も去ってしまった後なので、室内にはクロエ一人だけだったが。
窓の外から見える景色は当然の事だけど、家から見た景色とは違う。
自宅以外で寝泊まりなんてした経験がなかったので新鮮と言えばそうなのかもしれない。
そんな風に言えばポーラは不謹慎だと怒るかもしれないな、と思いながらもぼうっと窓の外を見る。
意識が戻った直後は起き上がるのもつらかったけれど、看護師の助けを借りて今はベッドに上半身を軽く起こした状態である。大きなクッションみたいな枕が背面に置かれているので、このままの体勢で眠ったとしても身体を痛めるような事はないだろう。
ポーラがあんなに泣いたのなんて、いつ以来だろう。
ふとそんな事を思う。
意識が戻ったとはいえ本調子ではないせいで、どうにも動きにくいし頭もまだしっかりと働いている感じがしない。もしこのままこの状態だったらどうしよう、という不安を持ちながらも、それでもクロエはそんな悪い考えを打ち消すように別の事を考えようとする。
意識が戻ったクロエを見たポーラは慌てて医者を引き連れて戻ってきて、そうして泣いてクロエに抱き着いたのだ。すぐに看護師に引きはがされたけれど。
ずっと目覚めない可能性もあったようで、わんわん泣いていた。
そこから少し落ち着いたのを見計らって、クロエに現状を説明し始めたのだ。
ぼんやりと先程の光景を思い出しながらも、ポーラが泣いたのなんてそういえば幼い頃以来だったかな、と記憶を手繰る。そうだ、母からもらった髪飾りをポーラに譲ってやれと父が言って無理矢理クロエから取り上げた時か、その少し後だったか。
あら、あの時よりもさっきの方がいっぱい泣いてたわね、と思う。
そんな風に思考を巡らせているうちに、窓の外はどんどん暗くなっていっていよいよ室内までもが真っ暗になってしまった。
とはいえ、窓の外から見える空にはいくつかの星が瞬いているので完全な暗闇というわけでもない。月は細く、それもあってあまり明るいわけではないがそれもあって一度ゆっくり眠れと言われているような気がした。
起きたばかりのはずなのに、身体はすっかりと疲れてしまったのか瞼が自然と落ちていく。
このまま眠って、今度は目覚めなかったらどうしよう……そんな悪い想像をしてしまったけれど、それでも抗えなかった。意識がすぅっと落ちていく。
そうして翌日。
すっかり明るくなってから目覚めたクロエは少々疲れる事態に見舞われはしたが、それでも昨夜よりは体調も意識もマシだと言えた。
起きたからといってすぐに食事を、というわけにもいかないのでクロエは起きてからほとんどやることがなかった。
栄養に関しては一応点滴で身体に送り込まれているが、トイレに関しては自力でできるはずもなく。
まさかオムツをこの年になってつける事になっていようとは……と驚愕したのである。それが、起きてからの少々疲れる事態であった。
落ち着いて考えればまぁそうよね、となるのだが改めて現実を認識すると結構な衝撃だったのである。
クロエが意識を失っている間のオムツの交換は女性の看護師とあとは時々ポーラがやっていたと言われて、それも衝撃であった。
看護師はともかくポーラが!? と驚いたのだ。あと、流石になんて言うか居た堪れない。自分の意識がなかったとはいえ、意識が戻ってからそんな事を聞かされて一体どういう顔をすればいいのやら。
また明日、と昨日言った以上今日もポーラはやって来るはずだ。
その時に、本当にどういう顔をすればいいんだろう……?
昔からずっとポーラには手間ばかりかけさせているな、と申し訳なくなってくる。
学校を卒業したらカインと結婚して嫁入りして、家を出て、そうして少しでもポーラの負担を軽くしようと思っていたのに。少なくとも自分さえあの家にいなければ、両親はポーラを可愛がっているのだ。きっとその方が家族としても上手くやれるに違いないと思っていたのに。
……こうして自分が病院で四年も入院している、という事実に両親がよく許したなとさえ思った。
自分の事など無関心な父と、嫌っている義母なら即座に見捨てるという結論を出したっておかしくはないはずなのに。
入院し続けるのだってそれなりにお金がかかるだろうし、流石にポーラの我儘でもそれは譲らなかったのではないだろうか。
いや、むしろ意識がない間に見舞いと称して両親がクロエの息の根を止めに来る可能性だってあったのではないか? そんな風にも思ってしまう。
例えば栄養剤に細工をするだとか、刺さっている点滴をより深く押し込めば体内に刺さっている針が血管を大きく傷つけて内部で出血を……なんて。
クロエは医療について詳しくはないが、それでもそういった考えが浮かびはするのだ。
そうでなくたって、意識のないクロエを殺そうと思えば簡単に実行できるだろう。首を絞めたりして跡が残れば流石に事件となるだろうけれど、そっと口と鼻を塞いで呼吸をできなくしてしまえば。
事前に濡らしたハンカチをクロエの顔に押し付けて息をできなくさせてしまえば、それだけで簡単にクロエは死んだに違いないのだ。
それなら簡単に証拠なんて隠滅できそうだし、流石にここに見張りを置くなんて事もできないだろうから、やろうと思えば可能な気はする。
あの両親ならやってもおかしくない、と思う程度には嫌な信頼が芽生えてしまっている事に苦笑しか出てこなかった。直接手を下したとなれば自分たちの評判に関わるだろうけれど、事故に見せかけてしまえる状況なら実行するだろう、なんて。
クロエの父と義母に対して当たり前のようにそう思う程に、クロエの家族との仲はどうしようもないところまで来ていたのだ、と改めて思う。
けれどもそうなっていないという事は、それもきっとポーラが何かしら手を回したのだろうとも。
聞きたいこと、聞かなくてはならないこと、それらが沢山ありすぎて果たしていつ来るかはわからないが、今日中に疑問を解決できるかしら……?
噂をすればなんとやら、という以前にクロエはただそんな風に考えていただけではあったけれど。
昨日よりも早い時間にポーラはやって来た。




