取捨選択
クロエ・フィーリスが暴走した馬に激突されて意識を失ったという事故はすぐさま知られる形となった。
貴族街という比較的安全なはずのそこで起きた事故。
前日に降った雨のせいで路面にはそこかしこに小さな水溜まりが存在し、暴走した馬はそこを駆けどうやら足を滑らせたらしい。
クロエは馬の前足ではなく胴体部分がぶつかったようだが、そのまま馬の下敷きとなった。
現在意識は戻っていないが、しかし生きている。
クロエは現在病院に運び込まれ、治療されているとの事だ。
その知らせを聞いたポーラは気が気じゃなかった。
医者の話を聞く限り、内臓が潰れてはいないらしいがそれでも馬の巨体と激突したのもあって、骨折は数か所確認されているし、倒れた際に頭を強くぶつけたようで意識が戻るかも危ういと言われたのだ。
治療の手は尽くしたと言われたものの、クロエが目覚めるという言葉はなかった。
もしかしたらこのまま死んでしまうのかもしれない。
死ななくても、目が覚めないまま眠ったきりになってしまうのかもしれない。
そんな不安ばかりが押し寄せる。
ある日何事もなかったかのように目覚めてくれる事を祈っても、その祈りが届くかすらもわからないのだ。
事故に巻き込まれた、という話を聞いて流石にその時ばかりは両親もクロエが運ばれた病院に駆け付けたが、生きているという事実を聞いた時点で喜ぶでもなく微妙な反応をした時点で、ポーラは薄々両親が何を考えているか察してしまった。
いつ目覚めるかもわからない娘。
いっそ死んでくれていれば手間が省けたのに……という感情が母から漂っているようだった。
勿論それは、不安になっているポーラの思い過ごしかもしれない。不安だから今までのクロエに対する母の態度から、そうポーラが思い込んでしまっているだけの可能性もある。
けれどその可能性をあるはずがないと切り捨てられなかった。
父もまた難しい顔をしていたけれど、それはいつ目覚めるかわからない娘を思ってのものとはとても思えなかった。
そんなはずはない、心配している。
そうポーラが思うには、すっかり二人への信頼がなくなってしまっていたのだ。
「仕方ないわね、こうなってしまったのは……」
「あぁ、不幸な事故だったのだと思うしかない」
いつ目覚めるとも知れぬクロエのところにずっと付き添うわけにもいかず今日のところは……と医者からやんわり帰宅するよう促され、ポーラたち三人は屋敷へと戻ってきた。
そして戻るなり早々に二人はそんな風に言ったのだ。
仕方ない、ってなに?
不幸な事故はそうかもしれないけれど、お父様に至っては自分の血を分けた娘が生死の境をさまよっているのよ……?
ポーラはそう言いたくて仕方がなかった。
いやでもまだ、まだこちらの思い込みで糾弾するような事を言ってはいけない。
そう思ってぐっと言葉を飲み込んで、二人を見る。
「いつ目覚めるかもわからないのであれば、ロシュフータ家との婚約は解消されるだろうな」
「そうね、いつ目覚めるかもわからないのですもの。一年以内に目覚めるのであればまだ結婚の可能性もあるかもしれませんけれど、それ以上目覚めない可能性もあるのでしょう?」
「あぁ、それどころか……」
父が言いかけた言葉を止めたのは、ポーラにでもわかる事だった。
言われなくても察してしまった。
その先に続く言葉は「その頃には生きていないかもしれない」だ。
確かにこのまま目が覚めない可能性がとても高いと言われていたけれど。
それでも、そんな風にあっさりと諦めるような事……とポーラは思う。
確かにクロエがこうなってしまっては、政略であろうとそうでなかろうと、結婚をするというのがとても難しくなってしまう。回復の兆しがあればまだしも、そうでないのならいつ目覚めるかもわからない娘が嫁にくるのを待つなどほとんどの家はしないだろう。
目覚めると信じて待ち続けた結果長い年月だけを消費して結局目覚める事なく死にました、となったなら。
待ち続けていた相手の人生だって相応に消費されるのだから。
だから、婚約が無かった事になるというのはまだわかる。
それは仕方がない。どうしようもなかった。
けれどそこまでだ。
それ以上をポーラは諦めるつもりなどこれっぽっちもなかった。
「お姉さまがいつ目覚めるかはわからないけれど、わたしは諦めたりなんてしませんからね」
「ポーラ……」
「何を言っているんだ、ポーラ。どう考えたって望みは薄いじゃないか」
覚えの悪い子を咎めるような口調で母がポーラの名を口にして、父がどこか呆れたように言うけれど。
「お姉さまはちゃんと戻ってくる。戻ってくるわ。二人が何を言おうともわたしだけはそれを諦めない」
何を言われたってそれだけは譲るつもりなんてなかった。
「しかしだな、ポーラ」
どこか焦りを含んだような声で父が口を開く。
「現実問題として、あれをいつまでも病院においてなどおけないし、ここで面倒を見るにも使用人たちの手がそこまで回らないだろう」
「お姉さまは病院で診てもらうわ」
「いつまで。病院だってただじゃない。入院となればどれだけ金がかかると思っている」
「……レザード家に支援を頼むわ。お姉さまの入院費は借金としてわたしが背負います」
「ポーラ!」
聞き分けのない子に対する苛立ちだろうか。
今までそんな声を、オスカーがポーラにかけた事はなかった。そういった声がかけられていたのは、いつだってクロエで。
もし。
もしまだポーラが幼い頃であったなら。
そんな風に怒鳴るような声をかけられていたらきっと、びくりと肩を震わせて身を竦ませ怯えたかもしれない。今の今までそういう風に父から声をかけられた事がなかったなら、間違いなくそうやって怯えてもしかして自分は悪い事をしたのかもしれないと思ったに違いない。大人を怒らせた、という事にきっと何かとんでもない事をしたのかもしれないと考えて。
けれどもポーラはもう幼子などではない。
成人こそまだだけど、それだってあともう少しでそうなるのだ。いつまでも幼い頃のままでいるはずがない。
そして父は――オスカーは。
クロエに対して自分の機嫌の悪さをぶつけようとしていた事も何度だってあった。
ポーラだけがいればいいのに、という思いがあったのかもしれない。
ポーラの目から見て何も悪くないはずのクロエにそんな風に自分の機嫌の悪さをぶつけるようにしていた父の姿を、ポーラは幼い頃から見てきたのだ。
それ故に、今更自分が悪い事をして父を怒らせた、などとはこれっぽっちも思っていなかった。
恐れるほどの存在ですらないとも。
「いずれ家を継ぐのはわたし。そう、貴方が決めたのよ?
それとも、今からでも家を継がせないと?
それならそれで構わないわ。でも、よく考えた方がいい」
自分でも思っていなかった以上に低い、冷え切った声が出た事にポーラは内心で驚いた。
オスカーもエイミも、ポーラのそれは今までと同じ、いつもの我儘だと思っていた。
けれど流石に今回は今までとは異なる。クロエを入院させ続けるなど、気軽に言われたところで先の事を考えるのならそれがどれだけ難しい事か、わかっていないから簡単に言えるのだと思っていた。
クロエの意識があるのなら、その上でこれが足の骨が折れて、しばらくの間動けないとかであるのなら、病院に置く事を二人は反対しなかったに違いない。家に連れ帰っても面倒を見る使用人の手間がかかるだけで、それなら病院である程度治療をして自力で歩けるようになってから連れ帰った方が手間がかからないのだから。
けれどクロエの意識はいつはっきりするかもわからないのだ。
毎日看護師や医師が様子を確認し、その上で点滴などで必要な栄養分を送り込み、更には寝ている間の排泄物などの世話をさせるとなると、骨折して入院するだとかと比べて圧倒的に手間がかかる。クロエはただ眠っているだけであっても、容態がいつ変化するとも限らないしこまめに確認はしなければならないのだ。
床ずれを予防するために一日に何度かは世話をしなければならない。
寝ているならそのまま放置で、というわけにはいかないのである。
起きている患者であれば、喋れるなら自分の意思を口にすることができるが眠ったままとなると相手が今どういう不調を抱えているかなど、語れるはずもない。
起きている患者であってもそうだが、意識がない患者に関しては細心の注意を払わなければならないのだ。
であれば、それに付随して入院費用などもかなりかかる。
今の今までポーラにだけ教育を施せばいいと思っていた二人は、しかしポーラの我儘のせいでクロエにまで教育をする羽目になってしまっていた。
それはつまり、余計な出費に他ならない。
無駄、とすら思っていたくらいだ。
なのに、その無駄金を使っていた娘に更に入院費用をかけろとポーラは言っているのだ。
「うちにそんな金はない」
「だから言ったじゃない。レザード家に支援を頼むって。よかったわ、お金持ちの相手を選んで。相手も貴族としての名を使えるし、わたしも支援を受ける事ができるのならそれで充分。貴方たちが頼りにならないのはわかっていたから、本当に結婚相手を自分で選んでおいて正解だったと思っているの」
ポーラとしては別にこの結果を予想していたわけではない。
だが、それでも。
両親が選んだ相手と婚約していたのであれば、きっと間違いなくここでクロエは切り捨てられていた。ポーラが婚約者に縋ったとしても、きっと見捨てられていただろう。
ヒューゴはポーラに惚れている。だからまぁ、多少の情はかけてくれると踏んでいた。
流石に金銭面を全て頼るわけにはいかないけれど、それでも両親よりは頼りになる。いざとなったらヒューゴに爵位を売ってでも、ポーラはクロエのための資金を捻出するつもりでいた。
「わたしを跡取りにしないというのなら、それでも構わないわ。そしたらわたしは家を出て働くだけだもの。
お姉さまにかかる費用はわたしがどうにかする。最初から、アテになんてしていないわ」
「ポーラ!」
何てことを言うの!? とばかりにエイミが鋭くポーラの名を口にしたが、やはりポーラは怯まなかった。
「わたしね、最初は自分がこどもだからわからないのかなって思っていたの。でも、成人まであと少しってなってもやっぱりわからないわ。
どうして貴方たちがお姉さまに対してあんな風に冷たい態度を取れたのか。
大人になったらわかるかもしれないって思ったけど、きっと一生わからない。理解できない。
貴方たちにお姉さまが直接何かをしたというのならまだしも、お姉さまは何もしていなかった。お母さまとわたしがこの家にくるまではきっとお父さまの事だって慕っていたわ、お姉さまは。
でもそんなお姉さまに対してお父さまはどこまでも無関心だった。
そしてお母さまだって、ただ愛する人の前妻の子というだけで、お姉さまに冷たくあたって!
お母さまがそうするべき相手はお姉さまじゃない! お姉さまのお母様よ!
でもいないから! だからその子供に矛先を向けていただけじゃない!
お姉さまのお母様が生きていたなら貴方はずっと日陰の身だったもの!」
「ポーラッ!! 何てことを言うの!?」
母が金切り声を上げる。
それに対してポーラはむしろ鼻で嗤ってみせた。
「何よ本当の事じゃない。最初からお父さまの妻になれるだけの身分じゃなかった。いいえ、かつてはそうだったかもしれないけれど、当時はそうじゃなかった。でもそれは、絶対にお姉さまのせいじゃない。
それなのに今までの鬱憤晴らすみたいにお姉さまに酷い態度を取り続けてた。それはもう何を言っても変わらない事実よ。
わたしを追い出すならそうすればいい。でも、そうしたらこの家はどうなるのかしらね?
事故に遭った娘を見捨てて、もう一人いた娘は家を出ている。こんなの社交界で噂にならないはずがない。
どういう言い訳をするつもりかしら?
誤魔化し切れるといいけれど、でも、あら? ふふ、わたしったら学校でお友達になった方々に色々とお話しをしていたから。
世代交代をした後、折角取り繕った嘘が剥がれ落ちないといいのだけれど」
「なんてことを……」
それは明確な脅しだった。
それ以前にポーラを追い出したところでクロエの意識がこのままではこの家の跡を継ぐ者はいない。既にポーラの婚約者にヒューゴ・レザードが選ばれたという話はそれなりに広まっている。
今からこの婚約を解消するにしても、相手に非がない。そうなれば相応の理由と相応の慰謝料が必要となってしまう。
相手が歴史の浅い男爵家であったとて、対応を間違えればあちらは間違いなくその財でもってこちらに相応の報復を仕掛けるだろう。歴史が浅いという点で、平民に戻ったところで痛手も負わない、となっていたならそれこそこちらだけが一方的に甚大な被害を受ける形で。
であれば、ポーラとの婚約を今更なかった事にもできない。
ましてやポーラを追い出したところで、そうなればこれ幸いと彼女はこの仕打ちすら周囲に話すだろう。
「ねぇお父さま、相談なのだけれど」
「なんだ……?」
この先どうするべきか、を考えていたオスカーにポーラは一転して優しい声を出した。その変わり身になんだか得体の知れなさを感じてオスカーの声にはあからさまな困惑が混じっている。
「少し早いけれど、わたしをこの家の当主としてくださいな。
そうしてお二人はここを出て、どこか遠くでのんびり過ごせばよろしい。
今なら、娘がこんなことになって憔悴してしまって、だとか、取り繕う理由はありますもの。少し早いけどわたしに跡を譲ったとしても言い訳のしようはありますわ。
そうするのなら、わたしも話をそれなりに合わせるくらいはしてさしあげます」
「それは……」
「娘に何もかも押し付けて逃げ出した、なんて言わせませんわ。
わたしもその場合はお二人が実はちゃあんとお姉さまの事も我が子として愛していたのだという風に、えぇ、話の展開など変える事は可能です。
そうすれば、娘の一人を見捨て、もう一人に見捨てられたなんていう醜態は一転美談に持ち込む事も可能でしょう。
えぇ、お二人の結論次第ではございますけれど」
ぐ、とオスカーの喉が声にならない音を鳴らした。
先程までは自分の娘だった。我儘で、でも可愛らしい二人の間に生まれた娘。
けれど声のトーンだけではない。口調も先程と違い、そこにいたのは一人の貴族の女だった。
守るべきものを守るために己のプライドをかけて凛と立つ、貴族としての覚悟を背負った女。
我が子の成長を喜ぶべきなのだろう。
けれど、喜ぶよりも先に恐ろしさがやってきた。
一体いつからこんな風に……
そう思い返して、もしかして、となるまでにそう時間はかからなかった。
思えばポーラは我儘をよく言う娘だった。それを可愛らしいと思っていたのも事実だ。時として手がかかる事はあっても、それでもそれだけ甘えてくれていると思っていた。
しかし……
思い返せば娘の我儘の先にはいつだってクロエがいた。
いつから。
一体いつからそうだった……?
記憶を手繰っても明確にいつから、とオスカーにはわからなかった。
けれども、もう随分と昔からであることだけは確かで。
では。
そんな幼い頃から……?
そう考えると、可愛いはずの娘になんだか底知れぬ恐ろしさを感じたのだ。
そしてそれは、ポーラの母でもあるエイミもまた同様だった。
一等可愛い自慢の娘。
それが、自分が憎くて仕方のない娘に寄り添っている。自分ではなく、あの娘に。
クロエに出会う前であれば、ポーラの大好きが向かう先は自分や愛する夫であるはずだった。
それが果たしていつからこうなったのだろう。
いや、エイミは薄々気づきかけていた。
先程の娘の言葉がそう気づかせつつあった。
そうだ、確かに自分はあの女が産んだ娘というだけで、クロエの事を嫌っていた。
子供と大人の差は大きい。ろくな抵抗もできない相手をどうにでもできる状態で、だからこそエイミは自らが脅かされる事なくクロエに冷たくあたった。
けれどそれが。
その結果が。
愛する娘に自分を切り捨てる決断をさせてしまったのだ、と。
「お姉さまはわたしを見捨てなかった。なら、わたしもお姉さまの事を見捨てない。それだけよ」
エイミが考えたことが手に取るようにわかっている、とばかりにポーラは言う。
嗚呼……あぁ、娘は本気だ。
本気で彼女を救おうとしている。
そのためなら、本当に自分たちを切り捨てる事すら厭わずに。
オスカーにもエイミにも。
目の前にある選択肢は複数あるように見えつつも、しかし実際はたった一つしか選ぶことができないのだと。
そう気づいてしまって。
もしポーラが敵に回れば失うものなど何もない状態になりつつあるポーラは確実に二人の評判を地に落とすだろう。そうなれば貴族の地位にあり続けていてもより一層惨めさが増すだけだ。
それならばポーラの提案に従った方が、まだ傷は浅い。
それでもすぐには頷きたくなくて、オスカーもエイミもしばし沈黙を保ったままであった。
けれどもその時間だって永遠に続けられるわけもなく。
結局のところたっぷりと時間をかけたところでこの状況を自分たちの有利な展開にひっくり返す事などできず、二人は愛らしい娘の我儘を叶える形で頷くしかなかったのである。




