純情を弄ぶ
ポーラはうんざりしていた。
大好きな母だった。
大好きな父だった。
けれど、かつての幼き日。
新しい家で暮らす事になったと言われて。
姉ができるのだと言われて。
楽しみに、していたのだ。
本当に。心の奥底から。
どうして今まで一緒じゃなかったのか。
幼かった頃の自分はそんな事すらわからなかったけれど、それでもこれからは一緒なのだと思って。
仲良くなれるかドキドキして、初めて見た姉は優しそうで、ポーラは安心したのだ。意地悪な子だったらどうしようという不安もあったものだから。
けれど。
姉は優しかった。
でも、今まで大好きだった父と母が、優しくなかった。
ポーラには優しい。けれど、姉のクロエに対してこれっぽっちも優しくなかった。
皆一緒に仲良く暮らせると信じて疑っていなかったポーラは、幼いながらにきっとこの時、両親に失望した。幼かったが故に、それらを言葉にするには抱いた感情が難しくて大好きだった両親はなんとなく嫌いな人にまでなってしまったのである。
それでもポーラの事を両親は愛してくれていた。
同じようにクロエにもその優しさを向けてくれていれば、きっとポーラは今でも無邪気に両親を愛していられた。
カインはフィーリス子爵家の内情をキースから聞いて、どうにか上手くやったらしい。
正直な話、ほとんど初対面にも関わらずぐいぐい来たカインの事をポーラはとても不審者すぎて今でも安心して姉を任せられるとは思っていないがそれでも、両親がクロエを嫁入りさせようと相談していたところと比べればマシである。
ポーラは夜中ふと目が覚めて、なんとはなしに屋敷の中を移動して声を潜めて相談していた両親の会話を聞いてしまったのだ。
普段は寝たら朝までぐっすりだったのに、あの時はきっと何か――それこそ神様が囁いたのかもしれない。両親がクロエを嫁入りさせようとしている家の候補を話し合っているのを耳にすることができたのだから。知らないままであったなら、ポーラだってカインをもっと拒絶してキースであっても近づけないようにしていたに違いないのだ。
男爵家や子爵家といったロシュフータ家よりも身分が下の令息たちと揉めていたカインは、しかしその後彼らと和解してみせた。自分一人の力で、というわけではなく友人の力も借りたようだが、それでも解決させた事にかわりはない。
悪評だけはそれとなく流したままにしておいて、そうしてカインは見事ポーラの両親を騙し切ってみせた。
年の離れたクロエの事など若い娼婦か何かのようにしか扱わないであろう、そんな相手よりもお飾りで存在を軽んじられそうな印象の強い伯爵家との縁を結ぶ事を両親は選んだ。
本来予定していた家にまだ話を持ち掛けていなかったからどうにかなったけれど、もしちょっとでも手遅れになっていたら少々面倒な事になっていたかもしれなかったが、どうにかクロエを穏便かつ安全にこの家から脱出させる事はできるだろう。
心の中にしこりのように残っていた重荷の一つがなくなった、と言っても過言ではない。
だがそこで何もかもが解決したわけではない。予想していた事だけど、クロエが嫁入りすると決まって、そうなると次はポーラの番だ。
クロエを嫁に出して家から追い出せば、この家の後継ぎになるのはポーラである。
本来であれば長女のクロエがその立場であるはずだが、ポーラの我儘によって入学を一年遅らせた事で何らかの問題があるのだ、と周囲に思われてしまう事となってしまったクロエに、それでもそんなクロエを是非嫁に、と望んだ家があるのだ。下手をすれば婿を取るどころではなかった、と両親が言い訳めいた事を言う光景がポーラには余裕で想像できてしまった。
そもそも両親にそんな事を言って問い詰めるような人物がいるかどうかはポーラも詳しくないのでわからないが。
両親は社交の場ではそこまで悪い噂があるわけではないらしいので。かろうじて外面を保っているらしい。どうせならポーラの前でもその外面を保ち続けてくれていればよかったのに。
いや、両親はきっとポーラの前で外面を保たなければならないなんて考えた事もないのだろう。
クロエはともかくポーラは両親にとって愛しい子だ。きちんと愛しているしその愛が伝わっていると信じて疑っていない。ポーラにとって大切な姉を軽んじる様を見せられて、ポーラだけを溺愛しようとする姿を見たところで果たしてそんな愛が伝わるか……というのがポーラの本音である。どうせ両親に言ったところで脳内でどんなおかしな変換をするかわかったものじゃないので言わないが。
ともあれ、これで無事に――と言うのは違うかもしれないが、クロエが家を出る事になったのでポーラが婿を取って後を継ぐ、という体裁は整う。
そして婿には是非とも相応しい相手を……と両親が張り切り出すのもポーラは理解していた。
そうなる前から既に数名、婚約者としてどうだろうかという風に釣書を見せられたり、母はこの人なんてどうかしら? といくつか勧めてきたけれど。
ポーラは素直に首を縦に振れなかった。
もしかしたらいい人かもしれない。
けれど、母目線で見ていい人は、果たしてポーラにとって本当にいい人だろうか? という疑問というか疑惑が生じてしまったのだ。ポーラの事を愛してくれてはいるけれど、クロエの事は愛さない母。この婚約がクロエのものであったなら、きっとこの人を勧めてはこない。わかっている。わかってはいるのだ。
そうやって考えれば、家のためにはなるのだろう。
だが幼い頃からふつふつと煮込まれてしまった両親への不信感のせいで。
一度会ってみようかしら、なんて言葉すら出せなかった。
反抗期と言われてしまえばそれまでの事なのかもしれない。
ポーラは決して大人ではない。年齢的にもまだ成人していないしそれはわかっている。
だからだろうか。
今まで大好きだったはずの両親が――姉を冷遇して困らせるような事をしてきたあの二人を、こっちも同じくらい困らせてやろうという気持ちが生じてしまったのは。
まだ幼かったクロエに対する仕打ちを思い出す。
母が死んだばかりでまだ悲しい気持ちがあっただろうはずなのに、それを押し殺してポーラに穏やかに接してくれたクロエ。そんな優しい姉に、どうしてその存在を無視するような真似ができたのだろう。
あぁそうか、と思う。
大人だと思っていた両親よりも、クロエの方が余程大人の対応だった。
今になってその事実にすとんと納得してしまった。
あの頃のクロエは、大人たちのそんな周囲に訴えてもおおごとにならないような嫌がらせを受けて耐えていた。耐えるといっても、その前にポーラがしゃしゃり出て横やりをいれるような事をしていたから被害はそこまで大きくなっていなかったとはいえ、それでも嫌な思いをしたのは間違いないはずだ。
大の大人が、まだ年齢一桁の少女にする仕打ちだろうか。
その程度の事で、ともしかしたら言うかもしれない。
死ぬような目に遭わせていないのだから、それくらい……と。
対抗する手段を持ち合わせていない相手に一方的に心を傷つけるような事をしても、きっと両親は相手がクロエだからこそ何の罪悪感も持たないのだろう。
ならば、クロエの分まで自分が両親を困らせてやろう。
そう、思ってしまったのだ。
あの時のクロエはポーラが間に入る事で被害を少なくできたけれど。
オスカーもエイミも既に誰がどう見ても大人だ。小娘一人の嫌がらせなど些細な事だろう。それこそかつてのクロエが負ったであろう心の傷に比べれば、かすり傷みたいなものである。きっと。
そうして嫌な方向に決意を固めたポーラは早速行動に移ったのだ。
「ねぇ、ヒューゴ・レザード男爵令息。貴方、わたしと結婚する気ある?」
淑女であるならば、こんな大胆な言葉を言うはずがない。
けれどもポーラは今でこそ子爵令嬢ではあるが、元は市井で生活をしていたのだ。平民たちに交じって。
そういう意味では完全な淑女足りえない。
だが、それが何だと言うのだ。
ポーラは周囲に人がいない場所にあえて彼を呼び出して、そう問いかけた。
呼び出されたヒューゴは、その言葉をちゃんと理解するまでに数秒を要した。
そうして意味を理解した途端、
「え? え、えええええええええええ??」
大きな声こそあげなかったが、一瞬で顔を真っ赤に染めてわたわたとしだした。
ポーラは自分の外見をよく理解している。
そして、自分に想いを寄せている相手もなんとなく把握していた。
決して他人様からの好意に一切気付かず、えぇえ? あんな素敵な人がわたしなんか選ぶはずないよ~とか鈍感な事を言うような人間ではない。勿論、駆け引きとしてそういう振る舞いをする事はあるかもしれないが、生憎現状そんな予定はこれっぽっちも存在していないしそもそもそんな無駄なやりとりをする時間も惜しい。
自分に向けられる視線の中でもとりわけ熱心に見つめていたのがこのヒューゴだ。
男爵家、と言われているがその歴史は浅く他の貴族たちからは成り上がりと言われている事もあった。
実際少し調べてみれば、簡単にその歴史は知る事ができる。
ヒューゴの曽祖父と祖父が一代限りの騎士爵を与えられていたが、ヒューゴの父が祖父たちとは別の功績を出し、その結果男爵位を賜った。ヒューゴの曽祖父と祖父は武勇でもって功績を出したが、父親は商会を立ち上げて、この国を豊かにする一端を担った。今までこの国に大量に存在してはいたけど特に有効活用できそうにない植物に目をつけて、それらを加工し商品に仕立て上げ、莫大な財を築いたのだ。
今までは無駄に生えていたそれらの植物が、一転価値のある物へと変化したのである。この功績は大きかった。それによって生まれた雇用で仕事もなく犯罪に手を出す者が減り、国内の治安も若干改善されたとさえ言われている。
そういった話は他にもあって、恐らくこの国の男爵家の中で最も歴史は浅いけれど、この国の男爵家の中では最も財を持つ家でもある。下手な高位貴族の資産を上回っているとさえ。
それ故に、歴史ある貴族はともかく、貧乏貴族からもやっかみで成り上がりと言われているのだ。
そんな男爵家の子息であるヒューゴ。
彼は生まれた時点で貴族ではあるが、親はそうではなかった。それ故に貴族としての礼儀作法はまだ完璧とは言えず、若干周囲から浮いている部分もあったとは思う。
完全に浮いているわけではないのは、彼の周囲に一応友人たちがいたからだろう。
金目当てにつるんでいるような相手ではなく、ちゃんとした友人っぽかったので一応人を見る目くらいはあるらしい。
そうでなければあっという間に周囲から搾取されて平民へ逆戻りしていたに違いない。
その身分を確固たるものにすれば周囲の戯言も多少おさまるかもしれないが、そもそもが男爵家。身分の高いご令嬢がいくら金があるとはいえ男爵家へ嫁入りする、というのは中々ないし、それ以前に同じ男爵家からも嫁に出すには……と難色を示されている、とはポーラの友人たちからの噂で知っている。
歴史が浅いという事は、背負うものもまだそこまで無いという事。
もし何らかの――貴族でいられなくなるかもしれないような事が起きたとして、歴史ある貴族であればそれでも家を潰すわけにはいかぬと踏みとどまるところを、歴史の浅い貴族はそこまでの矜持も無い。簡単にでは平民に戻ろうとなる可能性もあるのだ。
身軽であるので行動力はある。だが、それはつまり、簡単に国を捨てる可能性もあるという事で。
もしそんな家に大事な娘を嫁にだして、その後に国を捨ててこの男爵家がいなくなったなら。
娘が出戻ってくるにしても、一緒に国を出ていくにしても、残された娘の実家は色んな意味で針の筵だ。最悪売国奴と罵られるだけで済めばいいが何らかの罪状を背負わされるかもしれない。
商売人としての信用はあるけれど、貴族としての信用はまだない。
それが、ヒューゴの家に対する周囲の貴族の認識だった。
とはいえ、その莫大な財産は魅力的なのでそれ目当てで群がる令嬢もいる事はいる。
しかし最初からいかにも財産目当てですとわかりきっている相手にヒューゴが靡くはずもなく。
彼はどうにか上手い事それらを躱しているようだった。
そしてそんなヒューゴは、ポーラへ熱烈な視線を向けていたのである。
勿論最初は勘違いではないか? とポーラも思った。けれどもどうやら勘違いではなさそうだなと思うくらいには確証を得てしまったし、それに――
丁度いいと思ってしまったのだ。
ポーラとて、純情な男性を弄ぶつもりはない。
だが、自分に好意を持っている相手ならこっちも同じだけ返すのは無理かもしれないけれど、それでもそれなりの情を育む事はできるだろう。
更にポーラは元は市井で生活していた事もあったから、貴族令嬢として育てられてきても正直生粋のご令嬢というわけでもない。血筋の上では確かにそうであったとしても、本人にその自覚がないのである。
なので下手に高位の身分の令息に見初められたら面倒な事になるなぁ、と思っていたし両親が勧めてくる結婚相手の身分も大半は同じく子爵家の中からであったし、そこに少しだけ男爵家と伯爵家がまじっていたくらいか。
だが、両親が勧めてきた男爵家の中でもヒューゴの家はなかった。
頭の中身が若干お花畑かもしれない両親でも、流石に歴史を重んじた、という事だろうか。
確かになんというか、両親はどこまでいっても貴族なのだろう。
自分たちが常に上にいると信じて疑わず、踏みつけたものが何であるかも気にしない。そんな、平民が想像する悪い貴族のイメージそのものと言われればポーラだって否定できない。
勿論両親は自分たちの身分を理解しているから、自分たちこそが頂点であるとまでは思っていないけれど、自分より下だと認識したものに対しては一切の悪気なく踏みつけていくのだろう。
それこそ、クロエに対する扱いを見ればそれは明らかだ。
「で、どうなの? 毎日毎日熱視線向けてばかりで声もかけてこなかったけど、あら? もしかしてお目当てはわたしではなくてお姉さま? それなら諦めた方が」
「いえ、違います貴方です」
あわあわしていたヒューゴがポーラの言葉を遮るように言う。
これでもし本当に目当てがクロエだったなら、ポーラはとんだ道化になるところであったがその可能性は低いと踏んでいたので呆気にとられたという事もなく、普通に口を閉じた。
「その」
「えぇ」
「確かに貴方の事が好きで」
「ありがとう、嬉しいわ」
「ただその、うちは歴史も浅い家で、婚約の話を持ち掛けても断られたり、あからさまに財産目当てだったりで……」
「でしょうね。ねぇ、でもわたしもその財産目当てだって言ったらどうするの?」
「えっ!?」
「あぁ、勘違いしないで。大金引き出させようとかではなくて、そうね……今のわたしにとって重要なのはその歴史の浅いって部分」
「え?」
「それにね、貴方がわたしを見ていたように、わたしも貴方を見ていたって言ったら……どうする?」
「え、えっ、えぇっ!?」
ポーラのそんな言葉にヒューゴは誤魔化せないくらい顔を赤く染めて驚いていた。
ポーラがヒューゴを認識したのは彼がやたらと熱視線を送ってきたからだ。
たまたまその時ヒューゴの少し後ろから友人がやって来たのが見えて、笑顔を浮かべて見せれば自分に向けられたのだと思ったのか、やはり今回のように顔を赤く染めて呆けたようにポーラを見つめ固まっていた。直後に後ろから来た友人たちへ向けた笑みだと気づいて、今度は恥ずかしさで耳まで染めて周囲に今の勘違いがバレたのではないかと落ち着きのない様子で周囲を見回しつつも本人は自然さを装って――ポーラから見て全然装えてなかったが――何食わぬ顔で去っていったのである。
ちょっと調べてみればヒューゴ・レザードとその家の成り立ちは簡単に知ることができたし、ついでに三男坊だというのも把握した。
自分を好いていて、それでいて自分にとって好都合な存在。
なんて可愛らしい人だろう。
そう思いながらも、ポーラはヒューゴを利用しようとしたのである。