思い通りに、なんて
クロエは自分の婚約者が決まった、と父に言われた時最初何を言われたのかすぐに理解できなかった。
いや、婚約者、という言葉の意味はわかっている。
わかっているのだが、てっきりクロエとしては今までの事から金だけはある父よりも年上のお爺さんに売られるように嫁がされるか、身持ちも悪く女好きと有名のロクデナシあたりに……と想像していたのだ。
ポーラがクロエの事を姉として、家族として尊重してくれているから表立ってあからさまに冷遇できなくなってしまったけれど、オスカーにとってクロエは好きでもない女との間に義務で仕方なく、しぶしぶ作っただけの子供であったし、エイミにとっても愛する男を一時でもエイミと引き離す形になった憎い女の娘だ。
ポーラはそこをどうしても理解しがたいらしいけれど、クロエはもうずっと前から気付いている。だって態度に出ているのだ。隠そうともしていない。
ポーラの手前、それなりに取り繕っている時もあるけれど、そうじゃない時の態度なんて露骨すぎてこれに気付けない人は貴族としてやってはいけないだろうな、と思うくらいだ。
我が家は子爵家で貴族階級から見ても下の方だ。だからまだこの二人が貴族でいられているようなものだけど、これが高位貴族であったなら跡取りになんてされないだろうし、嫁にいかせるにしても駒としての価値もない。クロエですらそう判断するのだ。本当の高貴な身分の者からみれば、クロエよりも更に辛辣な評価を下すだろう。
ともあれ、どんなロクデナシと結婚させて家から追い出すのだろうか、とクロエは内心で身構えていたのだが。
カイン・ロシュフータ。
知った相手の名が父の口から出されてクロエは思わずきょとんとした表情を晒すところであった。
ギリギリで無表情を保ちはしたものの、それでも思っていた以上にマシ、というか破格すぎる相手である。
父や義母がこんないい縁談をクロエになんてあるはずがない。
顔にも声にも出さなかったがクロエの考えはそうであった。何か裏があるのかしら……? と父の話に耳を傾ければ、どうにもカインの悪評を聞いて決めたらしい。
性格最悪で自分より下だと思った者を見下す、平民辺りが想像するような高慢で傲慢な典型的な嫌な貴族像。まぁ露骨に人間性がアレな相手にクロエを嫁がせるとオスカーは言っていないが、それでも滲み出ていた。
子爵家からすれば、ロシュフータ家との縁ができるのも旨味があるのだろう。
本来ならばそう関わる事のない上の身分の方々と知り合う機会も、ロシュフータ家を通じてあるかもしれない。そうしてそういった方々に気に入られれば、身分こそ上がらずとも目をかけてもらえれば……という算段だってあったのだろう。
伯爵家から望まれるなんて栄誉な事だとかそれっぽい事を言っている。
もしかして、とクロエは思った。
もしかして、自分の父親は実はそこまで賢くないのでは? いやまぁ、クロエの母が死んだ時点で後妻引き入れからの年子の異母妹がいる時点で予想されていた事だけど。
それでも幼かった頃は大人というだけで自分は到底敵わない、そんな存在だと思っていたのだ。
実際に力で勝てる事はない。それは今もそうだろう。
けれど、思考という点においては。
クロエから見て、父のなんと醜悪な事か。
昔はもっと尊敬していたような気がする。
母が死ぬ前までの、幼子であった頃は父に構われる事がなくとも。尊敬と親愛の情があったはずなのだ。
けれどもそんなものがすっかりとなくなってしまえば。
そこにあるのはただひたすらに軽蔑だけだ。
それに、確かにカインの評判は一時期悪いものではあったけれど。
最近はすっかりそんな事もなくなっている。キースがカインに間違われて絡まれる事もなくなったし、堂々と仲良くしているような光景はないけれど、それでもたまに話をしている光景を目にする事はあったし、その際いかにもこれから喧嘩しますよ、というようなギスギスした雰囲気はなかった。正直クロエが家にいる時の方が余程ギスギスしている。
キースにふとそのあたりを尋ねた事があったが、その時キースはなんと答えたのだったか。
「悪評もたまには役に立つらしいから」
確か、そんな風に言っていた気がする。
悪評を役立たせるなど、どんな状況だろうかと疑問に思ったけれど本人がそれでいいのなら、周囲がとやかく言うものでもないのだろう。
そうしてそんな悪評まみれらしい令息との婚約を両親は嬉々として受け入れたわけだ。
結婚してもお飾りの妻にしかならないだろう、とか。
既に愛人がいて、そちらの子をクロエが産んだ子として育てる事になるのだろう、だとか。
実際そんな事はしないと思うのだけれど……とクロエが思うくらいにカインはそこまで酷い男というわけではないのに。
しかし実際その目で、学び舎でのカインを見る事のない父と義母はその酷い噂をあっさりと信じてしまったようだ。真偽を明らかにしようにも、その機会が少ないというのもあるのかもしれない。ロシュフータ伯爵夫妻へ噂を放置している事を問えるくらいに二人がしっかりしていたのであれば――いや、恐らくあちらの方が一枚も二枚も上手だろう。真実を明らかにしようと問うにしても、聞かないままであったとしても、どっちにしてもこの二人はいいように情報に踊らされる。
カインが、というかロシュフータ家がどうしてクロエに婚約を持ち掛けてきたのかはわからないが、とりあえずクロエはカインが婚約者になった、と知って。
その場でとりあえず神妙な表情をする事にしておいた。
下手に喜ぶような反応をすれば今からでも婚約の話を断るかもしれない。
……向こうから持ってきた話を一度決めておきながら、やっぱやーめた、が通るとは思わないが。仮にそれができるのであれば、向こうの家より身分が高い場合か、向こうに絶対的な落ち度があった時くらいか。
もしかしたら、向こうにも何か事情があるのかもしれない。
そうじゃなければわざわざクロエを嫁に、なんて思わないだろう。
クロエとしてはそう信じて疑う事すらなかった。
彼女にとって良かった事と言えば。
誰が見てもロクデナシである、とわかるような自分よりも年嵩の男へ嫁がされる心配がなくなった事だ。
もしそんな相手との婚約を決められてしまったのならば。
その時は家を出て全力で逃亡しなければならなくなるところだった。それこそ、後先を考える余裕もなく着の身着のままで逃げ出す事になっていたかもしれない。
そういった事が今の時点でなくなった、というのはクロエにとってもありがたい話である。
推定お飾りだろうと、クロエが伯爵家へ嫁ぐ事で、父と義母はこれでポーラの結婚相手選びに集中できると思ったのかもしれない。
ポーラには今までにも数名、婚約者にどうかという話が出ていたと聞いている。
流石に両親の前で堂々と愚痴るような事はしなかったが、馬車の中で二人きりになった時などで聞かされてはいるのだ。
エイミとしてはポーラにはしっかりとした家柄の相手を、と考えているのかもしれないが、しかしフィーリス子爵家の跡取りにしようというのであれば、婿を取らなければならないわけで。
将来家を継ぐ予定の長男は後を継いだ途端今まで築き上げてきたものを台無しにされないよう、それこそ教育はしっかりとしているが、長男に何かあった場合の予備として育てられる次男以降に関しては、微妙なところだって結構あるのだ。
成長していくにつれ、両親の期待外れな育ち方をした長男から次男を後継ぎに、とかそういった慌ただしい教育もないわけではないし、早い段階で婿入りすると決まった者に関しては婿入り先で無能の烙印を押されてあの家の人間の教育方針は駄目だ、なんて言われるのも家の恥になりかねないのでそういった場合はしっかりと教育をするけれど。
しかし、後継ぎに何かあるでもなく、婿入りの話も出てこないようなスペアたちは、それこそ最低限の教育だけされて成人後は己の力でなんとかしてね、という場合が多い。
どうにもならないから家に置いて下さい、なんて頼めばまぁ、面倒を見てくれない事もないかもしれないが、それだって家の資産状況によるし、仮に家にいる事を許されたとしても、今までのような生活は望めない。成人前はまだ子どもとしてみなされていたから多少の甘えも許されたけれど、成人後はただの穀潰しである。
ある程度優秀で家の事を手伝えるのであればまだしも、そうでなければペットよりも立場が低くなりかねない。
成人前にはそれなりに融通がきいたお小遣いも、成人後はそこまで恵んでもらえない事もあると聞く。
肩身の狭い生活が嫌ならとっとと家を出ろ、という圧は大なり小なり存在するようで。
少しでもいい家に嫁ごうとする令嬢にも苦労はあるが、同じくらい婿入り先を探す令息にも苦労はある。
エイミが勧めてきた相手は、ポーラ曰く顔は良かったけどちゃんとした教育を受けてるか微妙、との事だった。
幼い頃に友人となった他家の令嬢たちからの話も合わせると、性格は間違いなくポーラの嫌いなタイプだ。
少しでも良いお相手を、とエイミは思っているようだが子爵家に婿入りをしよう、という相手は大体それなりの者しかいない。
伯爵家の次男三男あたりを探せばそれなりにいるとは思うが、侯爵家や公爵家の次男以降の令息が子爵家へ、となると何らかの事情でもない限りは難しいだろう。
結果としてポーラのところへ持ち込まれた婚約話の相手は大体同じ子爵家か男爵家が大半であった。
家格が同じくらいなら、せめて見た目が少しでも良い相手と……とエイミは考えているのだろう。
正直釣書に短所なんて書かれるわけがない。欠点だって美点になるように書かれている事の方が大半だ。
そうなると、釣書に記される相手の人柄は割と他の令息たちと似てくる。馬に乗って遠出をするのが趣味だとか、読書を好むかは人によるがアウトドア派かインドア派に分かれるだけで、アウトドア派の令息たちの釣書も、インドア派の令息たちの釣書も、細部が若干異なるだけで大体同じである。
それでも気になった相手がいたのであれば、家の者を使い調べたりもするのだが……フィーリス子爵家ではそこまで手が回らないのだろう。
クロエの相手に関しては悪評が流れているからもし実際そこまで酷い相手じゃないにしても、それだけ悪い噂を流されるような相手に嫁げば何らかの面倒ごとに巻き込まれるだろう、とか考えている可能性は充分にあったし、ポーラの婚約者に関して家の者を使って調べられなくとも、エイミやオスカーが社交で情報を集めているから大丈夫だと考えている節はある。
オスカーにもエイミにとっても、大切なのはポーラで、故に自ら手間をかけようとしているのだな、とはクロエでも察する事ができた。
そうしてこの家の令息はどうだ、だとか、あの家の彼なんてどうかしら、とあれこれポーラに婚約者候補の話が持ち込まれる回数が増えてきて。
クロエの目から見ても辟易しているのがわかるのに、父も義母もお構いなしで。
あ、これは近いうちに爆発しそう……と思えば案の定。
「お父様お母様、わたし、結婚したい人ができたので彼を婚約者に迎えたいわ!」
ポーラは両親の勧める相手の誰一人として選ばず、自分で相手を決めてきたのである。




