彼女たちの幼少期
フィーリス子爵家に、クロエは長女として生を受けた。
両親はどうやら政略で結ばれた縁らしく、表面上はそれなりに体裁を保っていたようではあるけれど、しかし実際そこに愛などなかった。
それを理解したのはクロエが六歳の時、母親が死にその後すぐに父が再婚し後妻を迎え入れたからだ。
母が死んでまだ間もないというのに、喪に服す事もロクにせず再婚。
それだけならまだしも、一つ下の義妹ができた。
義妹は父と後妻の娘で、名をポーラという。
父がクロエを見る目には、何の温度もなかった。
だが、ポーラを見る父の眼差しは温かく、それは子を愛する親としてこれ以上ない程わかりやすいものだった。
「はじめまして、おねえさま! ポーラといいます。よろしくおねがいします」
まだ少し舌ったらずではあるが、しっかりと挨拶をした義妹にクロエは戸惑いながらも「よろしくね、クロエよ」とだけ言うのが精いっぱいだった。
だって、妹が、血のつながりが半分だけある妹がいるなんて聞いていなかった。
お父様は、お母様を愛してはいなかったの……?
そう聞きたい気持ちで一杯だったけれど、だが聞かなくてもわかる。
この二人と会う前であれば聞いたかもしれない。だがもう後妻であるエイミと義妹であるポーラを見れば、母は愛されてなどいなかった、と幼いクロエですら理解するしかなかったのだ。
優しくポーラを見る父に、なんだか無性に泣きたくなった。
だって自分はそんな目で見られた事がない。
どうして。
そう言いたい気持ちでいっぱいだった。
ここで、ポーラを突き放せばどうなっただろうか。
きっと父も後妻も声を上げクロエを怒鳴りポーラを心配し……もしかしたらクロエはここで家から放り出されてしまうかもしれない。
そんなはずはない、と思いたくても、言い切る事ができるほどの根拠はクロエにはなかった。
なんで、あなたが。
どうして。
もやもやとした黒い気持ちが胸いっぱいに広がって、ポーラの事をその感情の赴くままにできたらどれだけ良かっただろう。
けれども、クロエは知っていた。
怪我をすれば痛いのだという事も。暴力をふるわれたなら身体だけではなく心も痛くなるのだという事も。
ポーラがクロエに対して嫌な事をしてきたのであれば、自分の身を守るために突き飛ばすくらいはしたかもしれないが、ポーラはクロエに何もしていない。初めて会った姉に挨拶をしただけだ。
何も悪くないポーラを、クロエは叩いたりすることなどできなかったのである。
てっきり家から放り出されるのではないか、と思っていたクロエだがしかし実際そうはならなかった。
ただ、今まで以上に父が自分に無関心になって、義母となったエイミもクロエに対しこれといった関心を向けなかった。それだけだ。
酷い言葉で心を傷つけられたわけでもないし、暴力を振るわれたわけでもない。
食事だってちゃんと出されてはいる。使用人に世話をしなくていい、とか言われたわけでもないので一応身の回りに関しては母が生きていた頃とそこまで変わりはなかった。最初のうちは。
対するポーラは常に父も義母も気にかけていて、使用人たちもポーラの世話を優先的にするように、と指示されたのだろう。少しずつ、クロエの存在は使用人の間でも後回しにされるようになっていった。
食事に関してはポーラが誘いにやってきて「おねえさま、いっしょにいきましょう」と手を差し出してきたから、戸惑いつつもその手を掴んだ。
少し前に誰からも食事だと呼ばれる事もないまま、クロエの食事が抜かれそうになった事があってからポーラはこうして食事の時間になると真っ先にクロエの所へやってくるようになった。
だからこそ、クロエはお腹を空かせてひもじい思いをする事はなかった。
父や義母にポーラを優先的に、と言われていた使用人たちもポーラと共にクロエがやってくるのであれば、あえて彼女だけを蔑ろにするわけにもいかない。どこか気まずそうにしながらも、それでもクロエの食事は用意されていたし、食事内容に差がつくような事もなかった。
貴族令嬢としての教育に関しても、母が生きていた頃はされていたが、母が死んだ後クロエに無関心な父が何をするでもなく危うく放置されるところであったけれど。
「どうしてわたしだけお勉強しないといけないの? お姉さまは? ずるいわお姉さまだけお勉強しなくてもいいなんて」
そんな風に頬を膨らませて文句を言うポーラに、義母が貴方のためなのよと言ってもポーラは頑なに一人でお勉強なんてイヤ! と拒んだ。
結果としてクロエはポーラと同じ教育を受ける事になったのだ。
お姉さま! とにこにこしながら一緒に勉強ができる事が嬉しそうなポーラに、義母は複雑そうな表情を浮かべていたけれど。
けれどクロエが一緒にいて同じ勉強をする間はポーラもご機嫌かつ真面目に学ぶものだから。
ポーラが学びにあてる時間を、傍で見ているだけ、などというような事にもならなかった。
ある日の事だ。
「おねえさまのその髪飾り素敵ね」
「お母様が遺してくれた物なの」
「いいなあ、わたしもおねえさまとおそろいの髪飾りが欲しいわ」
そんなポーラの言葉を聞いていた父が、
「クロエ。その髪飾りをポーラに譲ってあげなさい」
突然そんな事を言いだしたのである。
「え? でも」
「でも、ではない。お前は姉なのに妹に優しくもできないのか」
「お、おとうさま……? 違うのよ、わたし、おねえさまのその髪飾りが欲しいんじゃなくて」
「いいんだよポーラ。ほらクロエ、ポーラに余計な気を使わせるんじゃない」
「え、きゃぁっ!?」
「おねえさまっ!?」
すぐに髪飾りを渡そうとしないクロエに対し、父は強引にクロエの髪飾りを外し取り上げる。
そうしてその髪飾りをポーラへと渡したのだ。
無理矢理外されたのもあって、ぶちぶちと数本クロエの髪が抜けた。
まさかそこまで強引に髪飾りを取り上げられるとは思わなかったクロエは、思ってもいなかった痛みに悲鳴を上げ、そんなクロエをポーラが案じる。
ポーラはあくまでも姉とのお揃いの髪飾りが欲しかっただけで、クロエがつけている、彼女の母親がクロエにあげた髪飾りが欲しいと言ったわけではない。
それなのに何をどう曲解したのか父はクロエから強引に髪飾りを毟り取って、それをポーラに差し出しているのだ。
ポーラはその時初めて父を信じられないような目で見たが、しかしそんなポーラの表情ですら髪飾りを受け取る事をためらっている、と受け取られたのか父はそっとポーラの手をとって、その手のひらに髪飾りを乗せたのである。
「まったく、お前はあの女に似て可愛げがないな」
父にとってはクロエはすぐに妹に髪飾りを譲らなかったばかりか、大袈裟に悲鳴を上げて同情を買おうとでもしたように見えたのだろうか。
クロエの母であり、かつての妻である女性の事を忌々しげに口にして、父はこれ以上ポーラにいじわるをするんじゃないぞ、と言って立ち去っていってしまった。
この後友人に誘われているとかで出かけるのだろう。支度をしてあとは時間になって家を出るだけ、というその時に、クロエとポーラのやりとりを見る事になったわけだが……父は出かける前に嫌なものをみた、という態度のままだった。
父が去って、そこに残されたのはクロエとポーラ、それから二人の使用人。
最近入ったばかりの新入りは、ポーラを優先的に、と言われその言葉通りにしていたが流石にクロエが今受けた仕打ちにどうしたものかと戸惑った様子だった。
そんな使用人たちよりも先に動いたのはポーラである。
「ごめんなさいおねえさま。わたしがあんな事言ったから……わたし、おねえさまの髪飾りが欲しかったんじゃない。おねえさまとただお揃いの髪飾りをつけられたら、って、ただそれだけで……」
これ、と困ったように差し出されたのは言うまでもなく先程父が押し付けたクロエの髪飾りである。
強引に取り外したせいで数本抜けた髪の毛がついたままのそれを、ポーラは涙目になりながらクロエに返そうとした。
「おねえさまのおかあさまが遺してくれた物なら、大切にしまい込んでおいたほうがいいのかも……」
もしまたこの髪飾りをクロエがつけているのを見たら、父が何を言い出すかわかったものではない。
父の中では妹に譲ったはずの物なのだ。それをまたクロエがつけているのを見れば、妹から奪ったのか、などと言い出しかねない。
そうなれば真実がどうであれ悪いのはクロエという事にされてしまう。
それだけはポーラでも理解できてしまった。
「……いいのよ、その髪飾りはポーラ、貴方が持っていて」
「でも、大切な思い出なんでしょう?」
「いいの。きっと貴方が大切に持ってくれていた方が、無事でいられると思うから」
「え……?」
「貴方にとってお父様がどういう人だったかはわからないけれど。
お父様は私の事なんてなんとも思っていないもの。いつ家から追い出されたっておかしくないわ」
「そんな……」
そんなことはない、とポーラは否定しようとしたが、しかしその言葉は途中で止まってしまった。
ポーラにとって父親はいつも優しく接してくれていた。
優しい父に優しい母。母は時々厳しい事も言ったりもしたけれど。でも、どちらも素敵な両親だと信じて疑っていなかったのである。
だが、その気持ちは今目の前で起きた光景のせいであっさりと揺らいだ。
ポーラに姉がいる、と言われた時はあまり事情を理解していなかった。
けれどフィーリス子爵邸でポーラが過ごすようになって、クロエに対する父の態度を見ているうちになんだかおかしいわ……? となって決定打が今だ。
だってポーラは一言も今クロエがつけていた髪飾りが欲しいなんて言っていなかった。
素敵とは言ったが、欲しいわけじゃなかった。
姉がつけていて似合っているからこそ素敵だったのに。
最初の頃はよくわからないなりに姉ができた、という事だけは理解していたポーラだけど。
あれから既に二年が経過しているのだ。
そうなれば、ある程度の事情もなんとなくこどもなりに理解だってできるようになってくる。
ポーラの母がクロエに無関心なのは、まだポーラでもわからないでもないのだ。
だってエイミはクロエの本当のお母さんじゃないから。
だからきっと、今回の件でエイミがクロエに対して労わりの言葉をかけるような事はしない。
使用人は、昔からいた人は去年辞めてしまった。
年齢のせい、というのもあるけれど、そうじゃなかった前からいた使用人たちは何かと理由をつけて父が紹介状を書いてよそへやってしまったのだ。
ちゃんと本当のお父さんなのに、それでもポーラの味方をしてもクロエの事は顧みない。
その事実に、ポーラは何とも言えない気持ちになった。
何がどう、と上手く言葉にできないがとても嫌な気持ちになったのは確かで。
腹違いの姉ではあるけれど、ポーラにとって姉という存在は初めて会ったその日から、大切な存在だと認識できたのに。でもこの家の自分以外の人はそうじゃないのだ。
そう思うと、無意識のうちに身体が強張った。
だってもしそれが本当なら、おねえさまが言ったようにある日突然彼女は家を追い出されてしまうかもしれないのだ。それをポーラが望まずとも。
「わ、わたし、おねえさまの事好きよ。優しいし、色んな事教えてくれるし。ホントに本当に大好きよ?
おねえさまができて、とても嬉しいの。だからね、その」
わたしが。
「守るから」
両親と違ってポーラはまだまだこどもで、できる事も少ないけれど。
それでも、幼いなりにポーラは決めたのだ。
親に蔑ろにされる姉をなんとかして守らなければ……! と。