饗宴
アンコールの二曲目が終わる
音楽が余韻を残しながら夜に消えていく
薄闇の中でただ一つ輝くステージから、僕は観客をゆっくりと見渡した
このあと何が起こるのか、その場に居た全員がはっきりと理解していた
既に最前列から順に観客達は膝を突き、眼を閉じて両手を組んでいた
いつの頃からか、この時間は誰もが自然とその姿勢を取る様になった
それは祈りの様にも、痛切なる願いの様にも視えた
「私をお選び下さい」
「私をお選び下さい」
「私をお選び下さい」
さざ波の様に人々の声がこだまする
会場全員の人間が漏らすおびただしい数の囁きだったが、その総てがたった一つの願望を口にしていた
囁きが、はっきりとした大きさの声に変わっていく
会場の照明が静かに一つ、また一つと消えていった
やがて眼の前さえ視えなくなった頃、人々の躰が薄く光り始めた
「血」の漏出が始まる前触れだった
観客達の眼から、鼻から、口から、或いは爪の間から、さらさらと「血」が流れ始める
厳かな歓声が上がった
自分の躰から流れる生命の美しさに、涙するものさえ居た
あるいは、僕の生命の一部になる想像に興奮を覚えているのかも知れない
奇跡がこの世に存在する事を思わせる様な、このイベントで最も神聖な瞬間だった
約20分近くの時間をかけ、総ての観客は絶命した
誰もが安らかな表情で、笑いを浮かべている者も居る
宴の終わりに帰るべき場所へ帰り出す者達がするような、充足から来る種類の微笑みだった
「事実として、彼らは彼らが帰りたいと望む場所へ帰っていったのだ」
誰にも聞こえないくらいに、僕は小さく呟く
スポットライトが僕を照らす
最後に、今夜のイベントのスタッフが僕の元へ恭しく一つのグラスを運んだ
僕は静かに眼を閉じると、一息でそれを呷る
選ばれた観客一名の命そのものが、一つのグラスを経由して完全に僕のものとなった
「きっと今頃、配信は賑わっているだろうな」僕は思った
そして「次に選ばれるもの」になるために人々は集まり、また饗宴は始まる
誰とも知れない人間の汚い生命を飲み干すのは本当は気分が悪かったが、最近は少しずつ「血」の味にも歓びを感じれる様になっていた
───違和感を感じる
先程のグラスを運んだ男が、配信が終わってもなお同じ場所に立ち続けていた
「おい」
「妙だな」
「君は、何故立ち去らない?」
僕より少し背が高いくらいの、スーツにサングラスの男だ
彼はサングラスを外して胸ポケットにしまうと、ゆっくりと拳銃を取り出して僕に照準を合わせた
「この邪悪な宴を摘発するためだ」
スタッフ達に緊張が走る
会場には相当な人数、イベント運営のための人員が居たが、残念な事に僕に一番近い位置に居たのはこの男だった
「君、よく視ると可愛いね」
男に近付いて、僕は彼の髪をかき上げた
気が強そうで、でも表情に少し幼さを残している…
「正義の執行に熱意を燃やす、若き潜入捜査官」とでも言った所か
経験から言って彼の血は美味しい筈だ
歳も僕くらいだろう、一番美味しい年齢だ
銃声
僕は後ろに弾き飛ばされ、糸の切れた操り人形の様にステージの床に倒れた
同時に、スタッフ達が男に飛び掛かる
数秒もしない内に彼は拳銃を取り上げられ、そして取り押さえられた
あとはスタッフに任せようかとも思ったけど、僕は起き上がると、うつ伏せに取り押さえられた捜査官の顎を引いて自分の方を向かせた
「僕が生命を飲むところ、視てなかったの?」
「それに僕くらいにもなると、この規模の会場でも最大限の警備で守られてるんだよ」
「何も知らされず一人で来たところを視るに……君は警察組織から邪魔と思われていたんだ?」
最後に言った事に根拠は無い
でも、僕は彼の正義が挫ける所を視たかった
「ねえ、アレ用意してよ」
騒ぎに急いで駆け付けたマネージャーからナイフを受け取る
捜査官は「いくらでも刺してみろ、俺の心が屈する事は無い」と負け惜しみを言った
それを無視しながら自分の手首をナイフで裂く
シトラスの搾り汁の様に、血が滴り落ちた
取り押さえられた捜査官の口の中に、僕の血を滴らせる
「反応」は直ぐに起こった
自らの感覚がもたらす抗えない暴力に耐えながら、荒い呼吸で捜査官が油汗を流す
「…………そんな……」
「どうして………?」
「どうして…………」
激しく錯乱しながら捜査官が身悶える
いま彼の心や躰の中では、激しい快楽と道徳の崩壊が同時に発生している筈だ
「おめでとう」
彼の耳元に僕が囁きかける
「君も僕と、これから一緒に永遠を生きようね?」
会場に居る、総ての生命ある者の瞳の中で『神の名を穢す逆しまの十字架』が輝く
さっきまで正義の執行者だった彼もまた、今やその新しき仲間だった