死
「人間というものは、実に弱いものである。何かを蹴落とし、自分より弱いものを創ることによって自らを優位に立たせようとする。私はそれを悪だとは思わない。むしろ人間として間違ったことをしていない、当たり前の行動であると考えている。つまりは戦争で人を殺せば英雄に、日常で人を殺せば犯罪者になることと同じだ。ときに、人間が他の動物とは決定的に異なるものを持っているとすればそれは何だろうか。心だ。人間がケダモノであるというのなら、自分を優位に立たせるために様々な手段を犯すだろう。心という制御があるからこそ、全ての人間がそれを実行しない。しかし、それでいいと思っているのか。心という呪縛に囚われ、人間の本質を見失っていいはずがない。私が皆の心を預かろう。全ての罪を受け入れ、私だけが、ケダモノとなろうではないか。存分に競い合え。存分に互いを蹴落とし合え。そこに本当の弱さを見出したときが正義なのだ。平穏な日々が続くのはいいことだ。しかし代償があることによってさらに良き日が生まれるのであれば、それもまた今日までの日々を蹴落として手に入れる栄光であろう。より良きを得るには過去に見切りをつけなければならない。競いあうところに生まれる正義に疑念を感じる必要はないではないか。さぁ、新しい未来を共に築き上げていこう。ついて来るがいい」
歓声。歓喜。拍手喝采。
「これは何かの宗教か?」
向かい合わせに座るアリスはコーヒーを啜りながらこう言った。
高校生くらいにしか見えない女の子が、本当にブラックを飲めるとは思っていなかった。
それに様になっている姿がまた別の意味で滑稽である。
本人曰く、『お前みたいなガキよりよっぽど年上』らしい。
「自分でも言いたくないが、父だ」
テレビの画面に映る映像を睨みながら答えた。
「つまりお前の殺したい標的だな」
殺したい、と聞くと少々たじろぐ。
確かに殺したい。
殺したいほど憎い。
だが自分の手を汚したくないという偽善をまだ振り払えないでいた。
「穏便に済ませられるのならそのほうがいい。しかし……」
「無理だな」
ウィスを手に入れて俺は変わってしまった。
絶対命令による力で、全てを思うがままにできる。
殺したいだけなら、あいつのいるところから半径500m以内に入り、『自殺しろ』と言えばいい。
もし力を手にしてなければ、怒りをぶつけるだけで終わったと思う。
その末路が殺人となったとしても、後悔はしないはずだ。
しかし今となっては姉さんの記憶を取り戻すこともでき、さらにあの日のことをあいつから直接聞くことができる。
もし殺してしまったら間違いなく後悔する。
後悔はしたくない。
全てを奪ったあいつから全てを奪い、この冷たい世の中に放り出してやりたい。
「お前は、契約をしたときからすでに黒く染まっている。今さら人を殺めることだけはしたくないと戯言を抜かすつもりか?」
「違う。俺にはあいつに直接聞かなければならないことがある。だから殺さない、それだけだ」
アリスは俺の言うことを信用していないようだった。
そしてテレビを消し、不意に立ち上がった。
「ミコト、ついて来い」
「初めて名前で呼んだな。少しは心を開いたと思ってもいいか?」
こちらを振り返ったかと思ったら鼻で笑い、言い放った。
「好きに妄想するがいいさ、坊や」
つれられて来たのは、アリスに初めて出会った場所だった。
立ち入り禁止のテープを破っての進入。
なぜわざわざここに戻ってくる必要があるのか聞いてみたが、先ほどから頑として口を利いてくれない。
ただひたすらに上へと階を上がっていった。
エレベーターはあるが、人の気配も明かりもないところからすると使えそうにない。
ひたすら階段を上っていく。
「ついたぞ」
「……扉?」
5階ほど上がったところに、他とは別の感じがするドアがあった。
見た目も違えば大きさも違う。
「お前には人を殺す覚悟がない」
断言された。
言い返す言葉も出てこない。
「支部をつぶしにかかるのにそれでは甘すぎる。練習だ」
俺はあいつの居場所を知らない。
極少数ではあるが、ピークに逆らう集団はある。
最悪の事態を考えてピークは身を隠し、指令は各地の支部から送られる。
別にこれはあの男だけではなく、歴代のピークもそうだ。
そこで、支部をつぶしていけばあいつも黙ってはいられなくなり、動きを見せ、姿を現すだろうと考えた。
「俺に殺させようとここにつれてきたのか。中にはマフィアでもいるのか?」
返事の変わりに返ってきたのは、ドアの開く音だった。
とっさに身を屈め、壁に背を預けた。
「安心しろ」
しかしそこにはマフィアなどいなかった。
目の前には明らかにビルの中ではない、密林が広がっていたのだ。
「何だ……ここは……」
――――っ!?
一歩中へ足を踏み入れた途端、ドアが消えた。
「どうなっている!?」
「私も詳しくは知らん」
何と無責任な!
そのとき、背後から音が聞こえた。
男が3人、銃を片手にこちらへ向かってきた。
「逃げるぞ!」
「なぜだ?」
あいつらは見るからにやばそうだったからだ。
「身の危険を感じるなら、殺せばいいだろう。お前なら簡単にできるぞ?」
アリスの言うことは間違っていない。
覚悟がない、確かにそうだった。
「とりあえず今は逃げるぞ!」
当てもなく、ただひたすら走った。
こういうところでは河を下っていくと村に着くはずだと思い、すぐに河を下っていった。
しかし一向に村は見つからない。
それどころか、見たことのある景色を何度も繰り返し見ている。
「はぁ、はぁ……ばか者が……はぁ……殺せばいいものを……」
「雲の配置も変わらない。男どもの足音もほとんど遠ざかっていない。これはバーチャルか?」
そう思った瞬間、男達は急に走り出した。
そして俺達の前に姿を現した。
何のためらいもなく打ってくる。
「ま、待て!話を……」
男のうちの一人がバッグからミサイルのようなものを取り出した。
そのまま容赦なく発射し、爆音と共に爆風に呑まれた。
「ごほっ……ごほっ…」
爆風に飛ばされ、アリスと離れてしまった。
数十メートル先、アリスを目の隅に捉えた。
――――この状況で立ち上がり、こちらに手を振っているではないか!
「ば、ば……っごほ、ごほ……す……ごほっ……」
肺に入った砂で、うまくしゃべることができない。
こちらに走ってくる。
徐々に砂煙がはれてきた。
まだ待て!あいつらに見つかる!
そう、叫びたかった。
立ち上がり、あいつの元へ走り寄って地面に押し倒したかった。
まだ走るどころか、咳き込んで立ち上がることもできないというのに。
そして刹那の時。
彼女の表情は一瞬にして凍りついた。
横から玉が流れ、彼女の頭を貫通した。
まるで漫画のコマのように、鮮明にくっきりと、少しずつ血を流し、その場に倒れこんだ。
ドサッという音に正気を取り戻し、同時に体の自由も利いた。
「ア、アリスっ!」
すぐさま駆け寄った。
男達なんてどうでもよかった。
アリスは死んでいた。
確かめる必要もない。
頭から血を流し、ぐったりとしている。
額の真ん中には赤黒い穴が開いていた。
俺は立ち上がり、振り返った。
3人はこちらの行動をしっかりと見ていたらしく、三方向から銃を構えていた。
まるでアリスと出会った時と同じ状況だと思った。
ただひとつ、あの時と今では明らかに違うものがあった。
彼らが引き金を引く前に、叫んだ。
自分でも驚くほどの声量で、怒りのままに、それでもって冷静に。
「死ね」
銃口は俺ではなく、俺を囲むようにしてお互いの頭に向けられた。
そして銃声と共に地面には4体の遺体が転がった。
自分が殺したのだ、と思う余裕もなかった。
心は静かで空っぽだった。