4.旅立ちの決意、旅立ちの夜明け前
執務室はこじんまりとした部屋だ。
修道長が執務をするための質素な木の机と、打ち合わせをするためのテーブルがある。それも革製のソファーではなく、食事をするときに使われるような4人掛けの机と椅子だった。
豪華なものと言えば木製の棚に整然と並べられた羊皮紙で作られた本だ。そして、部屋の調度品に不釣り合いな金属製の金庫だ。
修道長は金庫に向かうと服のポケットから取り出した鍵を差し込む。捻るとカチャリとロックが解除された音が響いた。
そして彼女が扉を開こうとしたが、固く閉ざされたまま、ぴくりとも動くことはなかった。
「おかしいですね……」
首を捻りながら先程の手順を繰り返した後に、もう一度、今度は力を込めて扉を開こうとしたがやはり扉は開かなかった。
「むむむっ!」
「私が開けましょうか?」
ムキになる修道長にエンネニーナがいった。修道長が鍵を渡そうとしたが、彼女は首を振って断った。そして大きく深呼吸をして肺に空気をためると彼女は力任せに金庫に蹴りを入れた。
修道長があっけにとられている中、ギギギと鈍く金属がこすれる音を立てて金庫が開いた。
これは彼女の五歳上で一番年齢の近い修道女、シャーバーティーに教わった事だ。蛇族の彼女にはこの扉を開く場合は必ず怪鳥のポーズをとって「ヒョー!」と奇声を上げてから蹴りを入れろと言われていた。しかし、それを修道長の前ですれば長い説教が始まりそうだったので省略した。
にもかかわらず、修道長のこめかみあたりに血管が浮き出てヒクヒクと動いている。
「随分前から壊れていました。お部屋のお掃除のときに気付いていましたが伝え忘れていました。鍵は意味がありません」
慌てて言い訳するように早口で説明をした。
「ま、まさか、中を見たのですか」
「い、いえ。流石にそれはしていません。信じて下さいっ」
お仕置きを恐れ、あわてふためきながら答える彼女を見て、修道長は深い溜め息をついた。
「そうですね……、もし、見ていたとしたら、あなたはその剣を見たときにもっと驚いていたことでしょう」
そういって修道長が金庫から取り出したものは、彼女がセアトから受け取った剣とそっくりな剣だった。
「こ、この剣は……」
よく見比べると装飾の細部が少し異なっていたが、柄に掘られた家紋のような印は全く同じものだった。
「十一年前のことです。あなたは修道院の門の前で眠っていました。あなたのお腹の上にその剣が置かれていたのです」
決して捨てられていたと言わないのは彼女の優しさなのだろう。
エンネニーナは慌てて自分のお腹を触った。
「刺さっていたわけではありません。置かれていたのです」
修道長が咳払いをした。
「……つまり、どういうことでしょうか?」
相変わらずお腹をなでながら質問をする。
「あなたには本当に幼少の頃の記憶は残っていないのですか?」
修道長の言葉に、聖堂に描かれた女神リシャルの姿を思い出す。
修道院にある聖堂ではなかった。もっと広く、白く磨かれた大理石の巨大な空間。陽の光が降り注ぎその中央で幼いエンネニーナは跪いて祈りを捧げていた。その彼女の頭にふれ、何度もなでる女性。
彼女が顔を上げて、女性の顔を見ようとするが、どう目を凝らしても輪郭がはっきりとしなかった。その女性がなにかを呟いた。
「……私には、ここに来るまでの記憶はありません」
エンネニーナが答える。
「そうですね。シスターの一人があなたを見つけたとき、私はあなたに出生に関する質問をしましたが、あなたは何も覚えておらず、答えることができませんでした。エンネニーナという名前も私がつけたものです。年齢を聞けばあなたは片手を広げたので五歳としたのです。この剣はあなたの出生を明かすことができるかもしれない手がかりです」
「でも、どうして私の出生がプリーアとわかったのですか?」
二つの剣には紋章の他には意匠がわかるような銘は刻まれていなかった。
セアトがこの剣を持ち込んだ事でプリーアのものだと判断できるが、それまではこの剣だけでは判断ができなかったはずだ。あるいは、修道長はこの紋章の意味を知っているのだろうか。
「剣の他にもこれが置かれていました」
修道長が取り出した小袋には何枚もの金貨が入っていた。それはトラシルのもではなく、プリーア金貨だった。このような物を一緒に残して行くのだ。彼女が上流の階級の出身であることがわかる。
「私のルーツはプリーアにあり、私はベッドで眠っている方となにか関係があると言うことでしょうか?」
「言い切ることはできません。ですが、この修道院には遠からず残兵狩りをするトラシル兵が訪れることになるでしょう。万が一、あなたの顔立ちに見覚えがある者がいたり、あなたの出生の秘密を知る者が訪れないともかぎりません。そうなったときに私ではあなたをかばい切ることができないのです」
それでもここに居残りたいと言えば、修道長はきっと全力で彼女を守ってくれるだろう。しかし、エンネニーナが居残ることで、この修道院に迷惑をかけてしまう可能性がある。彼女は歯を食いしばった。
「今日の戦いの余波が消えるのに幾日かかるのかわかりません。でも、その時はまた私をこの修道院の修道女として迎え入れていただけますか?」
彼女の言葉に修道長の頬に涙が伝った。いや、涙を流しているのはエンネニーナも同じだった。修道長が広げる手のなかに、彼女は飛び込んだ。しっかりと抱きしめ合う。
このぬくもりを決して忘れない。そして必ずここに戻ってくる。この家には彼女の家族が住んでいるのだから。エンネニーナは心に誓った。
夜明けには程遠い真夜中である。
セアトはエンネニーナに起こされた。出立の準備をするように言われ、その通りに行動した。
準備と言っても身一つで来たのである。
服はエンネニーナが用意をしてくれた。鉄の鎧ではなく冒険者のような革の鎧である。そして陽の光から身を守るためのマントも新しく用意してくれた。
デキムスは相変わらず眠り続けている。表面上の刀傷や矢を受けた跡は塞がれているので新たな出血はないが意識を取り戻していない。
エンネニーナと二人で彼を着替えさせた。
「修道長は、大きな街の教会へ連れて行ったほうがよいと言っていました」
エンネニーナが彼の容態が深刻であることを説明する。
セアトはこの修道院に訪れたときのようにデキムスを背負い、そしてその上からマントを羽織った。
厩舎に向かうと二頭の馬が出発の準備を終えて待機していた。
月齢の若い月が世界を淡く照らし出している。昼間とは打って変わって肌寒く冷え込んでいた。
二頭の馬には鞍のほかに荷袋が両側に下げられ、食料やテントも積み込まれていた。一頭の背中にはセアトが献上したはずの剣が結び付けられていた。それが二本になっていたので驚く。
「……どういうことだ?」
「このことは、移動中に説明します」
セアトの疑問をよそにエンネニーナが一頭の馬にまたがった。
「待て、あなたは何処へ向かうつもりだ?」
セアトの戸惑いに彼女はキョトンとした表情になる。
「えっと……、わかりません。その、セアトさんは何処へ行くつもりですか?」
答えていいものか一瞬逡巡する。しかし、お世話になった身だ。
「とりあえず、リシャルの街を目指して西へ向かう」
「では、私の行き先はリシャルの街です」
「……、何を考えている。ついて来るつもりか?」
「私が考えていることは、移動中にお話しします。でも、この修道院を夜のうちに発ちませんか? 日が昇り私たちが出ていくところを見られてしまうと、この修道院がプリーア兵を匿っていたと疑われてしまいます。私は夜目が利きますし、このあたりの地理には詳しいので、しばらくは私が先導します」
エンネニーナが馬を走らせ始めた。
「お、おいっ!」
セアトは慌てて馬に乗ろうとしたが、デキムスを抱えていたことを忘れていたためふらついた。改めて鞍を掴んで馬に乗り込み、フードを深くかぶりなおして彼女の後を追った。
修道院の門には修道長がいて開いてくれていた。他にも修道女たちが見送りのために並んでいた。
俺についてくると言うのは彼女の独断ではないようだ。
エンネニーナは修道長の側を声もかけずに通り過ぎていく。かわりに馬上から一礼をして、セアトは彼女の馬の横に並んだ。
彼女の頬が月の光を反射して瞬くように光ってみえた。セアトにはそれが涙だとすぐに気がついた。
「そんなに悲しんでいるのに、どうして俺についてくるんだ?」
「うぐ……、今話すと、涙が止まらなくなるので、もう少し待ってください」
彼女が顔を伏せた。そしてフードを深く被り直した。馬の揺れとは別に彼女の肩が小刻みに震えていた。泣くのをこらえようとしているように見えた。
セアトは口をつぐみ、彼女と馬を並べて走らせ続けた。