3.神が起こし給う奇跡
鼻を突く泥と汗の匂い。そして血の匂い。
死を纏った男がベッドにうつ伏せに寝かされている。彼の背中には数本の矢が刺さっていた。
その脇には犬耳族の男が立っていた。
エンネニーナは犬耳族の男をじっと見つめた。青年とも少年とも言いかねる中間の年頃に見える。彼女は一六歳になったばかりだが、年齢は同じ年くらいに見えた。白い肌に茶色の尖った耳を持つ美しい顔立ちだ。なんとも評価しがたい不思議な雰囲気を持つ青年だ。
気がつくと、犬耳族の男に見つめ返されていた。慌てて視線をそらす。
「俺はプリーアの兵士、セアト・ケルナス。そしてこちらの方が……」
セアトの言葉を修道長が手を伸ばして制止した。
「その先は聞きたくない。それにしても酷い矢傷だ」
「は、はあ……。助けたときには背中の方は無傷だった。背負って逃げているうちに矢を射かけられたようだ」
セアトが頭を掻いている。よくわからない状況説明と、その仕草が妙に人懐っこくみえた。
「エンネニーナ」
老婆が呼んだが、彼女は再びセアトを観察するように見つめていた。
「エンネニーナっ!」
「はっ、はいっ!」
彼女が慌てて返事をした。
「治癒魔法を試みるから、あなたも手伝いなさい」
「わかりました」
するとセアトが剣を差し出してきた。華麗な宝飾があしらわれた剣だ。身なりから考えて倒れている男のものだろう。
「こちらが大事な方だというのはわかります。でも、かろうじて呼吸がありますが、生きているのが不思議な状態です。もちろん最善を尽くしますが、そのような物で脅されたとしても、この方の容態を変えることはできません」
困惑した表情を浮かべていたが修道長はきっぱりと答える。
「いえ、俺には持ち合わせがありません。なのでこの剣を女神……、そうだな、ラクシェル様に奉納させていただきたく」
セアトも困惑した表情になっていた。先程から彼に全くの敵意も緊張感もないことがわかる。二人のやりとりを見ていたエンネニーナは笑いだした。そして、修道長に睨まれ慌てて姿勢を正した。
「いいのですか? その剣はあなたの物ではないでしょう」
「はい。この方は全快したとしても、この剣を抜いて戦う事はないので大丈夫です」
「でも、逃げるときには必要なのでは?」
「いいえ、この方は戦場からここまで逃げてきましたが、この方は一度も剣を抜きませんでした」
修道長の目配せを受け、エンネニーナがセアトから剣を受け取った。
この世界には数多の神々がいる。
始まりの二柱、創世の五柱、五十神、そして終末の神。他にも街や集落には道祖神的な神もいるとされており、すべての神々が信仰の対象になっていた。
そのなかでも五十神、特に女神五柱が信仰されている。女神五柱は五十神の中の五柱だ。人族を滅ぼすために地上に降臨した五十神から、女神五柱が救ってくれたという伝承があるからだ。リシャルもセアトと名乗った犬耳族の青年がいったラクシェルも女神の名前だ。
ただ、トラシルでは女神リシャルはその神々の戦いのときに、欲望の壺を破壊して禍を世界に撒き散らした神として人気が低い。プリーアとトラシルの延々と繰り返される戦いも彼女によってもたらされた禍のせいだとする者もいた。
治癒魔法は、女神たちに祈りを捧げ奇跡の術式を得ることで発動する。
女神の力は偉大で、傷病の原因が老衰や魔法などの呪術によるものでなければ、死の淵にある者さえも回復させることができる。つまり、デキムスのような状態でも生きてさえいれば回復が見込めるのである。
しかし、それほどの効果を発揮する奇跡には、術者の信仰の厚さ、そしてより多くの信仰心が集まる大きな街の教会でなければならなかった。
この修道院でできることはせいぜいデキムスを死の淵から遠ざけることであった。
修道長も過去は神々の寵愛を受けた奇跡の力の行使者であった。しかし老いは信仰の力まで奪っていくようだ。彼女の奇跡の力は全盛期もものとくらべれば程遠いものだった。
修道長の傍らでエンネニーナも祈りを捧げた。
どうか眼の前の怪我人に大いなる神の御慈悲を、そして、新たな心持ちで明日の光を受けるための安らぎを。
二人がベッドに横たわるデキムスに手をかざす。そこから柔らかな光が発し、デキムスの体を包みこんだ。
とりあえず、出血は止まり表面上の傷は癒えた。しかし、デキムスが目を覚ますことはなかった。
「繰り返し、治癒魔法を使えば完全に回復するのだろうか?」
セアトが尋ねてきた。
「この方が新たな傷を負えばその部分を治癒することはできます。しかし、一度、施術を行った箇所については耐性がつくので治癒魔法が効かなくなります。同じ術者が同じ傷をニ度治すことはできないのです。自然回復を待つしかないでしょう。ただし、私たち以上の加護の力を持つ者であれば、癒せるかもしれません。それにはリシャルの街であり、トラシルの王都のような大きな教会に向かう必要がありますが……」
修道長の答えに、セアトは軽く頷いた。エンネニーナにはその軽さから彼が本当はデキムスの回復を望んでいないのではと疑った。
「あの」
エンネニーナがセアトに声をかけた。
「この近くで、トラシル軍とプリーア軍の戦いがあったと聞きましたがどうなったのでしょうか?」
「ああ、トラシル軍が勝利したはずだ。俺たちは逃げてきた」
セアトの言葉に修道長の顔が険しいものに変わった。
「もう少し詳しく教えていただけないでしょうか?」
修道長の言葉に答え、セアトはデキムスを見つけた時の状況や、アウルスの事は省略したが、戦場で見てきた状況を詳しく伝えた。
修道長は物憂げな視線をエンネニーナに送ったあと、顔を伏せた。
「とにかく今夜はこの部屋で休んで下さい。彼女の名はエンネニーナです。食事は彼女に運ばせます。ほかの用事がある場合も彼女を呼んで下さい」
修道長の言葉にセアトは謝辞を示すように深く頭を下げた。そしてエンネニーナを見て微笑んだ。やはり、人懐っこさを感じさせるものだった。
セアトたちの部屋を後にして、修道長とエンネニーナは廊下を歩いていた。
窓から見える空の色は赤く染まっている。庭で育てられている麦穂もオレンジ色に染まっていた。ときおり風に煽られて黄金色に輝いてみえる。乾いた涼やかな風である。
間もなく日が落ちようとしていた。
「エンネニーナ、荷物をまとめなさい。そして夜が明ける前にあの二人と修道院を出ていきなさい」
「え? いやです」
エンネニーナは即座に答えた。彼女がこの修道院に引き取られたのは五歳の時だった。以来、最年少者として他の修道女たちから血のつながった子どものように育てられた。彼女を厳しく躾けたのは修道長だけだった。彼女にとっても、ここでの慎ましくも穏やかに時が流れていく生活が好きだった。十五名が暮らす小さな修道院ではあったが、聖堂内の荘厳さ、そしてこの場所から見えるのんびりとした景色。ヤギたちが草を食む姿を眺めるのも好きだ。思わずじっと見入ってしまう。そうして何十分も眺めていると、サボるなと怒られるのだ。
前を歩く修道長が立ち止まり振り向いた。
「いいですか? 戦争でトラシルが勝利したことは祝福するべきことです。ですが戦果が大きすぎるのです。今は残党狩りが行われているでしょう。遅からずこの修道院にもその手が伸びます」
「二人を受け入れて治療したことを咎められるということでしょうか? それでしたら、今すぐに二人を追い出しましょう」
エンネニーナにとって、何故か唐突に自分が追い出されようとしている今、二人が路頭に迷うことなどはどうでも良いことだった。
「何をいうのですか? 私たちは神を信奉しているのです。神たちにとって地上に境界はありません。傷つき神に助けを求める者がいるなら、私たちは必ず手を差し出さなくてはなりません」
「わかっています。でも、それがどうして私が出ていくことと関係があるのですか? 今夜は私の体を柱に縛って寝ることにします。部屋に鍵をかけます。ノックをされても絶対に開きません」
エンネニーナは子供じみてはいるが、徹底抗戦の覚悟を決めた。
「セアトという若者が連れてきた怪我人は、プリーアの東方総督です。私たちは敵の総大将を匿っているのです」
「……どうして分かるのですか?」
「その剣を持っていますね。ついて来なさい」
修道長はエンネニーナが胸に抱く剣を見つめると執務室へと歩き始めた。
「そう言えば、あの方は大丈夫でしょうか?」
「治癒はしましたが意識まで取り戻すことはできませんでした。あの方は街の大きな教会で治療を受けなければ遠からず死ぬでしょう」
エンネニーナに修道長が答えた。