2.修道院のエンネニーナ
プリーアは海に突き出た半島の中央にある小さな都市国家だった。
その国家が半島を制圧し、内海の諸都市を吸収して覇権国家へと成長した。周辺諸国で抵抗できる国というのは東方のトラシルだけだった。そのトラシルもプリーアの半分の国力もない状態だ。
プリーアはもともと共和制の国だったが、今は皇帝を掲げる国家体制へと移行している。
帝政以降、栄華を極めて二百年が経過し、そして今では内紛が絶えず、皇帝が変わるたびに外征を繰り返し、国家はゆっくりと疲弊し老いていた。
トラシルはプリーアの東に位置する王国であった。いまはクリシナという王家が支配している。半乾燥気候下の樹木がほとんどない草原地帯が国土の殆どを占めているが、かつては緑豊かな地だったという。特に二つの大河に挟まれた地帯は大穀倉地帯として繁栄をしていた。支配領域はプリーアの三分の一にも満たない。西にはプリーアという超大国があり、北東にも魔族が支配する国家を抱え、両国とも良好な関係を結べているとはいえない状況である。
プリーアに話を戻すが、今回の東方遠征も皇帝の交代によるものだ。もはや恒例行事となっており、国境付近で適当に示威行動をとるだけだと誰もが予想していたが、東方総督のデキムスは功績を得ようとしたのか、トラシルの抵抗がないことに油断をしたのか、領内に侵攻した。本来なら攻略目標を定めるべきだったが、少なくともセアトたちの下級の兵士には知らされていなかった。進軍のルートは侵攻と同時に情報収集を行いながら決定するという、事前準備が行われたようには見えなかった。少なくともセアトの目にはそのように映り、侵攻時からこの度の遠征は万全であるとは全く思えなかった。彼が下級兵士だったため情報が入ってこなかったとも考えられるが、進軍方向さえも不明確なまま、やみくもに東進を続けていたようにさえ思えた。
しかし、その懸念をよそに東征は順調に進んだ。進軍の経路にあった、シャヘンの街を囲んだが、戦闘に発展することはなく、街はあっさりと降伏を決めて城門をひらいた。戦後の処理はリシャルから文官を呼び寄せることにして進軍は再開された。
そして、トラシル軍の奇襲である。セアトの所属する偵察部隊が偵察した場所とは丁度反対側の方角からの襲撃だったようだ。
待ち伏せされていたのか、行軍の末の奇襲なのか、敵軍の規模すらわからない。
偵察部隊は十名で構成された部隊であった。各方面に散開をして、地形や周辺の状況などを調査してそれを司令部に伝える役割だった。
調査を終えて帰還しているときに、自陣のあった方面から砂塵が舞い上がっているのが見えた。進軍を開始していたのかと思ったが、鬨の声や怒号が入り混じっていることから、戦闘が繰り広げられているのだとわかった。
自軍の惨状を知っても、彼らだけではどうすることもできない状況にあったので、戦場を大回りして西進し国境を目指すことを決めた。しかし、運悪く敵の索敵網に引っかかり、逃走をしているうちに仲間とはぐれ、気がつけば戦場に押し込まれていた。
セアトは馬上にあった。
戦場から無事に脱出することができた。
戦場の喧騒は今は遠くに聞こえ、追手の姿は見えず、手綱を握る手を緩める。デキムスの状態が気がかりだ。セアトの背中にもたれかかったまま動こうとする気配はない。
馬の揺れで、彼が呼吸をしているのかも分からなかった。一度、馬を降りて確認をしたいが、まばらな植生が点在するだけの広大で見渡しのよい荒涼とした大地である。遠くからでも敵兵に捕捉される可能性がある。そんな状況で男を背負って馬の乗り降りをしたくなかった。
敵の包囲網から逃れることができた。しかし、どこまでも続くこの地形は灼熱の牢獄だ。一刻も早くこの地形から逃れたい。今は馬を進めるだけだ。
太陽は傾き始めていたが、照りつける日差しに焼かれそうである。
馬がくぼみを避けるために変則的なステップを踏んだ。その揺れによりデキムスの体が傾き、それを煩わしく思いながら体を捻って正しい位置に背負い直す。
なぜ、この男を連れて逃げているのだろう。彼を捨てて逃げれば、無事に帝国の東方の街、リシャルにたどり着くことは可能だろうか。街を発ってから半月以上が経過している。この場所から街へ戻るのも至難だろう。
リシャルは女神五柱の一柱の名前でもある。セアトは戦場で出会ったアウルスのことを思い出した。凄まじい剣撃と、それに見合った豪胆さを持ち合わせた兵士だった。立ちふさがってきた敵にあのような者がいなくてよかったと心の底から思う。
彼には女神の加護はあっただろうか。無事に戦場から離脱することはできただろうか。
セアトは鬱々とした思考を止めるように首を振った。
思考が濁っていくのは暑さのせいだと彼は考える。この東方の乾ききった大地の熱にうなされて否定的な妄想にとりつかれてしまうのだと。
それにしても、敵はどのようにして潜み、急襲を成功させたのだろう。容易に思いつくことは偵察部隊の一部隊が裏切って敵方に情報を与えていた可能性だ。今回の東征は事前の下調べがなかった。そのために進軍時に偵察部隊に多くの人員が割かれた。初陣のセアトが選ばれたのもその理由だった。
とりとめのない妄想を続けていたが、周囲の景色が変わり始めた。荒涼とした地帯を抜け、緑が広がり始める。修道院はこの先だ。
エンネニーナは猫耳族の修道女の娘だ。
先端だけ黒い毛となっている尖った耳がピクピクと揺れる。水色の瞳は今は閉じられている。艶やかな浅黒い肌にソバージュのかかった黒く長い髪をした美しい少女だった。
細長い尻尾が揺れる。彼女の耳と同じく先端だけが黒く毛の色が変わっている。
膝をつき、胸の前で手を重ね合わせている。
彼女は他の修道女と共に修道院の丸屋根の下で神々に祈りを捧げていた。
天井には彼女たちの信仰する五十神の姿が色彩豊かに描かれている。
エンネニーナは瞳を開くとその中の一人の女神の姿を見つめる。かつて、この世界で神々の戦いがあったという。女神リシャルは異世界から持ち込んだ欲望の壺を破壊しこの世界に混沌をもたらした。異空間につながるダンジョン、そこから現れる魔物、魔法、邪心、邪念。
以来、この世界は争いが絶えることがなかった。
そして、近隣の平原で戦が行われているという。
その戦禍にこの修道院が飲まれるかもしれない。誰も口にはしないが、聖堂を包む重苦しい空気が彼女たちの不安を物語っていた。
祈りを終えた後、エンネニーナは所在なさげに天井のフレスコ画を眺めていた。その瞳は相変わらず、女神リシャルに注がれている。
聖堂の扉が開かれた。そして修道長が入ってきた。
「エンネニーナ、話があります。来なさい」
「はい」
彼女はおそるおそる返事をして、聖堂から出ていく修道長の背中を追いかける。
前を歩く修道長は老女だ。腰が曲がり、彼女の胸元程の背丈しかない。
廊下には静寂が広がっていた。戦の音はこの修道院までは届かない。エンネニーナは修道長の背中を見つめながら、内心では何をやらかしたことで怒られるのかとドキドキしていた。
修道長の執務室に連れて行かれるのかと考えていたが、客室へと向かっていく。
修道院は街里から離れたところにある。庭には畑があり、家畜も飼われており自給自足の環境が整っている。そして旅人のための宿泊施設として部屋と食事の提供もしていた。
「エンネニーナはリシャルの街の出身だったね?」
「いいえ、私はトラシルの者です」
修道長が立ち止まって振り返った。
「どうして、そんなくだらない嘘をいうのです?」
正直に言えば幼い頃の記憶はない。修道長をはじめ、他の修道女たちに彼女の出身はリシャルの街だと教えられたから、そう信じているだけだ。
「覚えているのなら尋ねないで下さい。ボケているのかと思いました。修道長の話はどうせろくでもないことですよね?」
修道長がエンネニーナを見つめた後、長いため息をついた。
「それは、お前がろくでもないことしかしないからです」
「私は確かにリシャル出身だと言われてきました。でも、知り合いはいませんし、身よりがあるとも思えません。トラシルにもです。ですから、私を尋ねて来る人なんていませんし、いたとするなら、それこそろくでもない方です。いつもポケーとして、集中力がないのは謝ります。ですので、ここに置いてください。身請けは嫌です」
彼女の言葉を聞いて修道長は再びため息をついた。
「別に、お前を尋ねて来たわけではないのだけどね。でもまぁ、ろくでもない者たちだというのは私も請け合うよ」
彼女は自分の身請け人が現れたのかと考えていたが、予想は外れた。
エンネニーナは修道長につれられて、客室の扉をノックした。