来た!
皇太子が来た!
そう思い、ドアの方を見て「!!」とガン見しそうになり、慌てて視線を逸らし「いらっしゃいませ。おはようございます、皇太子殿下」とお辞儀をする。視線を逸らしたものの、やはり目は彼を追ってしまう。
皇太子は朝陽のような爽やかな笑顔と共に「おはようございます」と応じた。
思わず見惚れそうになったのは、彼の装いが秀麗だったからだ。白シャツにサファイアブルーのクラヴァット、セレストブルーのジレ、同色のズボンに白革のロングブーツ、そして袖や裾に銀糸の刺繍があしらわれたセレストブルーの上衣。昨日は純白の軍服にマントだったが、今日は平服のようだ。
平服……なのだろうが、礼服と思える程、皇太子が着ていると、洗練されて見える。
朝からいい目の保養だ。彼を毎朝眺めることができるヒロインは、果報者と言える。
ひとまずソファに皇太子を案内し「お飲み物は、召し上がりますか?」と尋ねた。
普通なら来店し、ソファに座り、呪いについてのヒアリングだ。でも皇太子からは、既にすべて話は聞いている。今すぐにでも、呪いの吸収を始められる状態だった。
「飲み物……その前に、呪いの吸収をしていただくのは、初めての経験です。どのような感じなのですか?」
用意したティーセットを置いた棚の前に立つ私は、皇太子の方に体を向け、手順の説明を始める。
「そうですね。呪いの吸収は、私が相手の手に触れることで、可能です。呪いの重さにより時間は変わりますが、数分で終わります。呪いは一旦私が吸収しますが、例えると蜘蛛の糸一本分で、皇太子殿下と私の間に、呪いが残った状態です」
皇太子殿下は「なるほど」と頷き、続きを促す。
「すぐに私が眠り、夢の中で疑似体験を行えば、呪いは解け、その糸もなくなります。これも呪いによりますが、長くても三十分程度でしょうか。その糸がなくなった瞬間。皇太子殿下は、経験したことがない爽快感を覚えると思います。心身共に解き放たれた感覚。それはとてつもない感動を呼び起こし、解呪されたと実感できると思います」
「シャーリーは、あちらのカウチでお休みになるのですね?」
「はい」と返事をすると、皇太子は「では飲み物……紅茶は、シャーリーが呪いを吸収し、お休みになってから、自分で用意し、いただくようにします。そこにティーセットが用意されていますし、暖炉にお湯も用意されているようですから」と応じた。
「え、皇太子殿下が自ら紅茶をいれるのですか!?」
「そうですね。バーリントン帝国を訪問した東方からの使節団が、ティーセレモニーを披露してくれたのです。それを体験した時は、驚きました。たかがお茶をいれるだけなのに、こんなことをするのかと。でも紅茶を入れる時に、真似事をしてみたのです」
ティーセレモニー……つまり茶道を体験したということね。
趣味で裏千家のお茶の教室に通っていた。
でも茶道と紅茶をいれることは、全く違うと思うのだけど……。
「すると……なんでしょうね。単純な動作なのでしょうが、それが気持ちを落ち着かせてくれるというか……。以来、ナイト・ティーは自分でいれています」
これは驚き。
小説に、皇太子が紅茶を自身が入れているなんて描写はなかったのに。
でもそれもそうよね。小説にすべてが描かれているわけではない。
……この世界のヒロインは、この皇太子が手ずからいれた紅茶を、飲ませてもらえるのね。
その姿を想像し、思わず微笑ましくなる。
「シャーリー?」
「いえ、それでは紅茶は、皇太子殿下にお任せしますね」
「ええ、そうしていただいて構いません。……では始めますか?」
「はい。それでは失礼させていただき、皇太子殿下の隣に、座らせていただきますね」
「どうぞ」と応じた皇太子の隣に腰をおろすと。
マグノリアのいい香りがした。
そうか。
完全無欠の皇太子は、その身からこんなに甘い香りを漂わせているのね。
本当に。
呪いさえなければ、パーフェクト・ヒューマンだ。
その皇太子の手をとろうとして、お願いすることになる。
「手袋を外していただいてもいいですか?」
「!! 失礼しました」
皇太子はシルクで出来ているであろう白い手袋を外し、その手を私に差し出した。「失礼します」と言い、その手をとる。「ほう」とため息が出そうになるのを呑み込む。
なんて綺麗な手なのだろう。武術にも秀でているはずだが、手がごつごつしていない。手の平は確かに硬い。でも甲の方はとても滑らか。指も想像より細い。
これがあのエリス皇太子の手なのね……。
不思議だった。平面の、表紙絵以外は文字情報しかなかった皇太子に触れているなんて。
「……こちらの手も必要ですか?」
ハッとして顔を上げ、皇太子を見て「?」となる。
美貌の皇太子が、頬を少し赤くしているように見えた。
「片手で大丈夫です。……緊張されていますか?」
「そう……ですね。呪いがあるため、舞踏会でも最初のダンスをする以外、女性の手に触れることはありませんから。外交においても、手袋をつけた状態で握手が普通ですし……」
まさかと思うけど……。
この皇太子は呪いのせいで、女性との接触が極端なまでに少なかったのでは? しかも素手で女性に触れる機会がない……。非言語的コミュニケーションの一つであり、肌と肌の触れあいであるタッチングは、本来、安らぎをもたらすもの。相手を異性として強く意識すると、その意味は違ってくる。
大丈夫かしら?
いや、今は呪いの吸収に集中しよう。
その手に触れ、目を閉じる。
「うっ」と声が漏れてしまう。
なんておどろおどろしい……。
呪いは目で見えるものではない。しかし目を閉じた状態で、こうやって呪いを感知すると、脳裏に呪いが見えるのだ。多くが黒く、煙のようにまとわりついてくるのだけど……。
皇太子にかけられた、愛する人と結ばれると即死する――この呪いは、赤黒い。血のような赤い粘着質な物が、脳裏に広がっていく。これは非常に気持ち悪い……。呪いというか怨念を感じる。
思わず手が震えてしまった。
「!!」
遠慮がちに。優しく包み込むように。皇太子の手が、私の甲に触れていた。
私が震えていることに、皇太子は気が付いたのだろう。でも声をかけると、呪いの吸収を邪魔してしまうと思った。そこで迷いながらも心配し、私の手に、気遣うように触れることになったのだと判断する。
本当に優しい人なのね、皇太子は。
皇太子の優しさに、気分の悪さが少し和らいだ。そして怨念のような呪いも――。
「……吸収、終わりました」
「大丈夫ですか、シャーリー!? 震えていましたし、顔色が……青ざめています」
「そうですね。すぐに眠り、呪いを解きたいと思います」
なんとか声が震えるのは、抑えられた。が、しかし。本当にこの呪いは、気持ちが悪かった。早く解呪したいと思いつつ、皇太子を心配させるわけにはいかない。なるべくゆっくり彼から手を離し、そして立ち上がろうとした。
「あっ」
「危ない!」と叫んだ皇太子に、体を支えられていた。
「し、失礼しました」そう言って、自力で体を支えようとするが、力が入らない。明らかに呪いのせいで、体がいうことをきかない。母親が亡くなるまで、呪詛返しではなく、呪いの吸収も行っていた。死を伴う呪いの吸収は、これが初めてというわけではないのに……。
とにかく皇太子の呪いは、これまで吸収したどの呪いよりも、重い! それだけ呪った相手が、皇太子に執着しているということだ。
「カウチまで、運びます。不快と感じるかもしれませんが、お許しください」
皇太子はそう言うと、軽々と私を抱き上げる。しかも私が何か言う間もなく、カウチへと運んでくれた。不快に感じるなんてことはなく、むしろその頼りがいのある迅速な対応に、好ましさを覚えている。
「ありがとうございます」
「いえ、大丈夫ですか?」
一瞬、皇太子の気遣いに、呪いのことを忘れかけた。だが脳裏には、血のような呪いがのたうち回っていた。
カウチに横になるのと同時に。
もう早く眠り、呪いを疑似体験し、解呪したい気持ちでいっぱいになっている。
ぐっと歯を食いしばり、気持ちの悪さを呑み込み、皇太子に告げた。
「お気遣い、痛み入ります、皇太子殿下。必ず、この呪いは解きますから。お待ちください」
「シャーリー……」
碧眼の瞳を心配そうに曇らせた皇太子の顔を見た後、すぐに目を閉じる。
赤黒い血のような呪いに呑み込まれるように。一気に眠りの底に落ちた。引き込まれたのは深い眠り。なかなか夢を見ることができない。
呪いの底に沈み込み、苦しむ中、ずっと感じるのは手の温もりだ。
その温もりに集中することで、次第に赤黒い闇から浮上する。
やがて周囲の景色が黒くなり、それは少しずつ白くなり、やがて夜が明けた。
「ピチュー、ピチュー」
鳥のさえずりが聞こえる。
降り注ぐ陽光に、目が開けていられない。
ふわりと吹く優しい風。
目を開けるとそこに……エリス皇太子がいる。
黄金の宝飾品で飾られた純白の軍服、はためく眩しい白さのマント。ブロンドのサラサラの髪が揺れ、澄んだ碧眼の瞳が私を見て微笑む。その瞳に映るのは……波打つようなブロンドで、皇太子と同じ碧眼の瞳を持った肌の美しい女性……ヒロインの聖女タマラだ。
皇太子と同じ真っ白なドレスを着ている。
美しいレースと刺繍で飾れた、妖精のようなドレスだった。
そうか。私は……タマラに転生したのね?
まるでメルヘンの世界のような森の中にいた。
石造りのアーチがあり、水面が陽光でキラキラと輝く川が、流れている。
蝶がふわり、ふわりと飛び、色とりどりの美しい花が、川の周囲の野原に咲いていた。
「シャーリー。君が来るのをずっと待っていましたよ。どこで道草をしていたのですか?」
うん……? 私は……タマラのはず。なぜシャーリーと呼ぶのかしら?
世界が明るくなるような笑顔の皇太子は、私に手を差し出している。
この心地よい気候の中で、複雑な思考は維持できない。目の前で起きる出来事を、受け入れることしかできなさそうだ。
そんな状況の中、皇太子は私を……そうか。エスコートしてくれるのね。
そう思い、手を差し出すと、違っていた。
手をつなぎ、彼は歩き出す。
皇太子の手の平は、剣術の訓練の証で硬く感じた。それが今こうやって手をつないでいると、その硬さが頼もしく感じる。この手なら、何があっても守ってくれるわ、と。そしてこの大きさ。しっかり私の手が包み込まれている。指は細くて長い。爪は桜貝のように綺麗。
「そうだ、シャーリー。花冠を作りませんか。君は髪飾りをつけていないので」
「いいですわ。でもエリス皇太子殿下は、花冠なんて作れるのかしら?」
「それはシャーリーに教えてもらいます」
笑顔が眩しい。
皇太子は自身のマントはずし、ふわりと野原に広げる。
「さあ、シャーリー、座ってください」
促されるまま、二人で並んで腰を下ろし、周囲に咲いている花を集める。なんでもできる皇太子は、私が教えると、あっという間に花冠の作り方をマスターした。おしゃべりをしながら、時に少し離れた場所の花を摘みながら、花冠を作り続ける。
「初めてにしては、うまくできたでしょうか、シャーリー?」
完成した花冠を、皇太子は私の頭にのせてくれる。「ありがとうございます。上手にできたと思いますわ」と伝えると、皇太子は小川で手を洗おうと提案する。
小川に二人で駆け寄り、水に触れると……。
冷たすぎず、丁度いい。
「このまま水遊びをしましょうか」「はい!」
私は履いていたパンプスを脱ぎ、皇太子はズボンをまくりあげ、二人で小川に入った。
濡れないようにしていたのは最初だけ。
その後はもう、水のかけあいだ。
さんざんはしゃいで、水からあがると、マントの上で二人、大の字になって日光浴をした。
降り注ぐ穏やかな陽射しと、優しく吹く風で、あっという間に服は乾く。
その後は、森の中を散歩しながら、ベリーやラズベリーの実を食べ、湖のほとりへやってきた。そこにあったボードに乗り込む。
皇太子がボードを漕ぎ、湖の中央まで向かう。
風もなく、とても気持ちのいい気候だった。
皇太子と二人で過ごした時間は、まさにおとぎ話のよう。
幸福に心が満たされている。
オールを置いた皇太子が、あらたまった様子で私を見た。






















































