これを言われたら、ダメだ。
思わずテーブルに両手をつき、立ち上がっていた。
ヒロインは……皇太子が二十歳の時に出会う。つまり後二年待てば、ヒロインに会えるのだ。そこで呪いは、必ず解かれる。
早まる必要はない!
それにヒロインが結ばれるのは、皇太子なのだ。公爵家を得て、臣下となった騎士団長や外交官のエリスではない。
ここで皇太子が小説のストーリーに反する行動をとれば、何かが起きる気がした。モブである私が、イレギュラーで何かするのと違い、ヒロインのお相手のあり得ない行動。この世界を正しいストーリーに導こうとする抑止力・強制力が、皇太子のこの行動を、許すわけがない。そんなことをしたら、この世界が崩壊するのでは!?
それは困る。
モブキャラに転生し、母親を失うことになったが、今は父親と二人、穏やかに暮らしていた。この世界が壊れ、死亡するのは……回避したい!
皇太子には、思い留まって欲しい。
でもそれをどう説得すればいいの……?
「ここは私が読んだことがある恋愛小説の世界です。皇太子殿下はヒロインと二年後に会い、呪いを彼女により解いてもらえます。ですから焦る必要はありません。大丈夫です!」と言うわけにはいかない。
食事中に突然立ち上がったことを詫び、まずは椅子に座りなおす。新しいナプキンを従者から受け取り、ここは一般人らしい反応に、とどめることにした。
「お気持ちはよく分かります。ですが解呪師は入れ替わりも激しいですし、新たに解呪師を目指す人もいます。その中で特殊なタイプの解呪師もいますから。既に皇太子殿下ならご存知と思いますが、呪いを吸収できるタイプ。このタイプの解呪師であれば、殿下の呪いも解くことができるかと」
「それは……わたしも知っています。ですが呪いを吸収する場合、死につながる呪いは吸収できないと、聞いています」
皇太子はそう言ってちぎったパンを、上品に口へと運ぶ。
その姿に見惚れながら「あれ……?」と思う。
私みたいなタイプの解呪師のこと、皇太子は知らないのかしら?
十八年間、解呪について研究してきたのよね、彼は。
そう思い、本人に確認した結果。
「呪いを吸収した上で、その吸収した呪いを自身の夢の中で疑似体験し、それを持ってしてその呪いを解呪する……そんなことをできる解呪師がいるのですか? 初めて聞きました」
そう答える皇太子の顔は、いたって真剣であり、嘘をついているように思えない。
それに私に嘘をつく必要もないだろう。
「……そうでしたか。皇太子殿下は、ご存知なかったのですね」
「でも、もしそのような解呪師がいるなら、助けていただきたいと思います……」
「では皇太子であることをあきらめず、特殊なタイプの解呪師を、探し続けるのですよね?」
すると皇太子は、首を振った。「そのつもりはないです」と言い「いるかどうか分からないタイプの解呪師を求め、これ以上、時間を浪費するつもりはありません」と言うのだ。
これにはもう、大ピンチ。
何より今のこの状況が、非常にまずい。
まず、返報性の原理が思いっきり私の心に作用していた。
前世覚醒のきっかけは、他ではない皇太子だった。それでも突然気絶し、眠り始めた私をカウチに運び、見守ってくれたのだ。その上で、大変美味な昼食を用意し、食べさせてくれた。勿論、昼食を食べさせた御礼をしろ、とは言われていない。しかもまだ「呪いを解いて欲しい」と彼からは頼まれていなかった。呪いの説明を受けただけだ。
こうなると、自然と御礼をしたくなっている。まさに好意の返報性だ! いろいろしてもらったのだ。その親切に報いたいという気持ちになっている。
さらにこんな決意を打ち明けられたことで、意図せずして、皇太子との間にラポール(信頼関係)ができてしまったと感じていた。信頼しているからこそ、皇太子の地位を退くという話を、一介の解呪師に過ぎない私にしているのだと思う。誰彼構わず話していることではないはずだ。そう思うと、ますます皇太子に対する私の中の信頼度も、増していく……。
加えて皇太子から先に、自己開示されたことで、私自身も自分の秘密……自分がその特殊なタイプの解呪師であることを、打ち明けたい気持ちになっていた。
『ジョハリの窓』という心理学におけるフレームワークでは、私が死を伴う呪いでも吸収できることは、『秘密の窓』に含まれること。父親と私だけの秘密であり、他の人は知らないことだ。でも『自己開示』をしたい気持ちになっている今、この秘密を『解放の窓』へ移したい状態になっている……。つまり、皇太子に話したくなっていた。
心理学を学ぶことで、自分の心理状態が分かっているなら、ストップをかければいいと思うものの……。心とは大変難しいもので。そうは簡単にいかないのです。
話したい気持ちをグッと我慢して、皇太子の説得を試みた。十八年間、頑張って来たのだから。ここで諦めたら、その十八年が無駄になると。つまりは投資ではお馴染みの心理、コンコルド効果で説得を試みた。
これだけの時間と労力とお金をつぎこんだのだから、ここで止めるわけには行きませんよね……という手法だ。
すると皇太子は、食後の紅茶を飲みながら、こう明かしたのだ。
「……疲れてしまいました。十八年ぐらいで疲れるのは甘い――と言われてしまうかもしれません。でも物心ついた時から、わたしの頭は呪いと、それを解く方法で占められていました。それを払拭しようと、皇太子教育に打ち込み、武術の腕を磨きましたが……。頑張れば頑張るほど、不安になってしまったのです。呪いが解けなかった時に、この努力が報われないのではと」
あ……。
これを言われたら、ダメだ。
呪いという他者から付与されたマイナス以外は、完全無欠の王太子様から、弱点を見せられてしまった。しかもこちらは腹黒いコンコルド効果まで使い、なんとか思い留まらせようとしたというのに。
私が真の悪人であれば、弱点をさらした皇太子に対し、しめしめと悪巧みをするかもしれない。でも善良……とは言い切れないかもしれないが、お天道様に顔向けできないことはせずに、前世も今生も私は生きている。その結果、私はこう切り出していた。
「皇太子殿下にだけ、打ち明けます。実は私の母親は……」
気づけば自分の生い立ち、そして特殊なタイプの解呪師であること、そして皇太子の呪いを解けることを……話していた。
「つまり自分が特殊なタイプの解呪師であることを伏せていた理由。それはご自身の母親のように、利用され、命を失うことを恐れていたからなのですね」
すべてを打ち明けた私は、気持ちがかなり楽になっている。
一方、私からすべて話を聞いた皇太子は、大変真面目な表情で私を見た。そして利用され、命を失うことを恐れていたのかと問うたのだ。
「そうですね。加えて、母国では戦争も起きていたので、父親と二人、バーリントン帝国に逃げてきたのです」
「……なぜ、わたしに話したのですか、その秘密を。わたしがあなたの母国の国王のように、呪いの中継者として悪用することを、考えなかったのですか?」
クッキーとティーカップだけになったテーブルに手を置き、皇太子は真摯な瞳を私に向ける。対する私は「それは……」と彼の目を見た。
悪用される可能性。それは考えていない……わけではなかった。母国での出来事、母親のことは当然、思い出していた。ただ、そうはしないと思ったのだ。皇太子なら私に対し、そんなことはしないと思った。
「皇太子殿下は十八年間。呪いに苦しみました。もう呪いはかけられないよう、万全な対策をとられていると思います。それでも万一を常に考え、これからも生きられると思うのです。そうなった場合。私のような特殊なタイプは、呪いの中継者として利用するより、自身の切り札として温存すると思ったのです」
「なるほど。……でもそれは理に適っていますね」
「でも一番は、皇太子殿下のお人柄です。ただの解呪師に過ぎない私なのに。何の疑いもなく、信頼し、自身の秘密を打ち明けてくれましたよね。そんな風に自己開示されては、こちらも心を開くしかありません」
私としては、ため息をつく事態なのに。そう仕向けた当の皇太子は無自覚に「そうだったのですね」とピュアな照れ笑いを浮かべているのだから……。
「しかも気絶した私をカウチに寝かせ、様子を見守り、こんなご馳走まで食べさせてくださったのです。私も何かお返しをしたい……そういう気持ちにさせられてしまいました。『皇太子殿下が苦しむ呪い、私なら解ける。ならば助けたい』と思ってしまったのです」
皇太子に、心理学の知識などないと思う。ないのだが、皇太子という立場で生きることで、自然と彼は良い意味での人たらしのスキル……それは人心掌握術であり、人の心理を巧みについたテクニックを、手に入れたのだろう。
深い洞察力と観察力、相手の表情を見逃さないこと。それをすべての人間に対して行えば、当然、疲弊してしまう。だがこの人と決めた相手に発揮すれば、それはもう効果てきめん。そこには彼の身分や容姿も付加され、心理学を学んだ私でさえ、丸め込まれてしまった。
だが不思議なことに「やり込められた」と感じないのは、こんな一言を口にするからだろう。
「呪いに苦しむわたしを助けたいと思い、自身の命の危険を顧みず、打ち明けてくださったと理解しました。シャーリー……あなたのその優しさに、わたしは心を強く打たれています。決してあなたが特殊なタイプの解呪師であること、誰にも話しません。あなたにより呪いが解けても、すぐに呪いが解けたと公表しないようにします」
やはり善性の強い人なのだろう。決して私のことを切り札なんて思わない。
さらに心を打たれたと、素直に言えるなんて。皇太子は神だ!と思ってしまう。
「あなたがわたしの呪いを解ける……ということが分かりました。それだけでも大きな収穫です。明日、また来ます。そこでわたしの呪いを解いていただけますか」
「あ、はい……」
そこは拍子抜けし、不思議な気持ちになっていた。
十八年苦しんだ呪い。解くことができる解呪師を見つけた。今すぐにでも呪いを解いてください……にならないのは、なぜ、なのかしら? だが皇太子は落ち着いた様子で、呪いを解いた際の対価について、私に話している。金額としては、これぐらいでどうかと。
まだ呪いも解いていないのに、報酬の話をするのは……。