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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

本当に間違えただけ

作者: 坂本 九

ウーと冷蔵庫の排気音が、部屋中に鳴り響いている。

目の前には頭から血を流して倒れている彼女がいて、俺の手には、ハンマーが握られていた。

「違う…違う。」

どうしてこうなった。

俺は『うぅ。』と呻く彼女の息を確かめてから、もう一度悲しい気持ちで彼女の頭にハンマーを叩きつけた。

だってそうだろう?




----------------




大学2年になりたての頃、彼と電車の中で出会った。

「すみません。」

と、彼は俺に声をかけてきた。

「…。」

俺はその馴れ馴れしい笑顔が嫌で無視をしていた。

「…あ、ごめんなさい。あの…。」

多分この人は、反応しなければ、このまま俺に声をかけ続けるだろうと、うんざりしながらイヤフォンを取った。

「…なんすか?」

「あ、あの…。」

彼は一層声を潜める。

「…あの向かいの女性の方は…お知り合いですか?」

「は?」

彼の目線の先を追うと、1人の若い女性と目が合った。

「あぁ…知りませんね。」

「…勘違いならすみません。ただ、あの子、すごくあなたのことを見ていてですね。この電車に乗るのも、あなたが乗ったから乗ったように見えて…。」

「…だからなんですか?」

「いえ、問題なければ、それでいいんです。」

俺は彼の発言に首を傾げるしかなかった。その女性とはその後、確かに頻繁に目が合ったが、それは、俺も彼女のことを見ていたからだと思っていた。


それからと言うもの、その電車で彼女と一緒になることが多くなってきた。ただ、彼女は、大学の最寄駅で立ち止まり、ただ俺を見送っていくだけだった。


そして、奇妙なことに、その電車にいつも乗り合わせる、先日声をかけてきた彼が、その子のことを睨むようにじっと見ていた。


俺はたまらなく気になり出して、その声をかけてきた男性に、こちらから近寄り話を聞こうと思った。

「あの。」

「…。」

彼は俺に気づかないまま、黙って彼女を睨んでいる。

「あの!」

「え?あ、はい?」

と、まるで初対面のように彼は返事を返す。

「…お久しぶりです。」

「…あぁ、お久しぶりです。」

その間や弁当に少し疑問を感じたが、それよりも気になることを聞いた。

「失礼かもしれませんが…なぜ、あなたは彼女の事をそんなに睨むんですか?」

「え?いや、誰をですか?」

「いやいや…。」

惚けて返す男に少し苛立ちを感じた。

「あなた、彼女の事、ずっと見てますよね?」

「あ、あなた。彼女にずっと見られてる方?」

「…まぁ、そうですけど。」

「いやぁ、いつも助かってます。」

「な、何がですか?」

俺は男の返答が少し不気味に感じていた。

「彼女ね。この時間、朝日に差された横顔がとても綺麗なんです。」

「え?」

「それを見ながら出社するのが、私の楽しみなんですよ。」

「…駅員さん呼びますよ?」

「な、何を言っているんですか?!あなた、この前『知り合い』ではないと否定されていたじゃありませんか?」

男は少し興奮しながら言う。

「知り合いではなくても、そういう人がいたら、通報するのが義務でしょ。」

「ん?」

男は『ぷ、ははは。』と笑い出した。

「私何もしていませんよ。ただ、窓をじっと見つめているだけです。」

「いや、あんたさっきあの子のこと…。」

「あの。」

俺の言葉はなかったかのように彼は続ける。

「絵、ってご覧になったりしませんか?」

「…俺、こう見えても美大生なんです。」

「なんと。では、あなたは芸術眼がない方なのですね?」

「…なに?」

「おっと。失礼。」

男はふふっと嘲笑しながら続ける。

「まぁ?観客と描き手は、観点が違いますからね。」

「…。」

俺は自然と拳に力が入った。

「ただ、私、あなたのこととても尊敬しています。」

男は自分の目の前で手を合わせ、こちらを潤んだ目で見てくる。

「あなたが完成させてくれているのですよ。あの作品をね。」

全身の鳥肌がブツブツと突起し、首筋にヒヤリと冷や汗が滲むのを感じた。

「…。」

俺は何も言い返せない。目の前では嬉しそうな男が、ニコニコしている。

「さぁ、あちらのいつもの席に。」

手を丁寧に俺の座るいつもの席を指していたが、それに有無を言わせない圧力を感じた。そして、また、俺の心に嫉妬の火を灯させたのだ。

俺は差された手の先ではなく、彼女へ歩みを進ませた。その時すでに目は合っていたが、彼女はすっと目を伏せる。

だが、もう俺のこの歩みを止めるものは、後ろで『ち、ちょっと…!』と小声で言う、気色の悪い男の声以外になかった。




----------------




「私、本当に嬉しいの。」

彼女はカフェのテーブルを挟んで向かい側にいた。その表情は本当に嬉しそうだった。

「はぁ。」

俺はと言うと、バンクシーかと言うほど、あの作品を奪われた男の悲壮な表情が脳裏から離れなかった。

「…私ね、いつも君を見てて。多分…歳も近いと思うし…。それでね…。」

と、要領の得ない言葉を稚拙に紡ぐ彼女は俺の興味を惹こうと一生懸命だった。それには俺も好感をすぐ抱くこととなる。

「…俺の方こそすみません。なんだか、無理に付き合わせた感じになっちゃって。」

「ううん。君のその少し強引な所は、とても魅力的だったよ。」


彼女は会社員で、俺の3つ上の女性だった。

働き始めて例の電車に乗るようになり、そして、俺を見つけたらしいのだ。

彼女曰く、俺は絵のようだったと。


「美大生だなんて。やっぱり、なんて言うか…センスが良いね。」

どこがだ、とツッコミたくなるが、

「そう?ありがとう。」

と、紳士的に返した。

「ふふ、ありがとうだなんて…。」

彼女はとにかく照れ臭そうだ。

釣られてこちらも照れ臭くなりそうだった。


話をしていく内に、お互いに気を置けなくなっていた。

「でも、やばいって。だって、俺のことずっと見てたし、駅だってもう一個先なんでしょ?」

「う、うん。たまたま間違えて一本早い電車に乗ったことがあったの。その時…君があの席に。」

「ふーん…。」

俺もその時には満更ではなかった。

男が言うように、彼女は魅力的な容姿をしていた。

鼻立ちも良く、また、堀も良い加減に深く、可愛らしい瞳をしていた。

「あの。」

と、声を発したのは俺の方だった。

「もし、よかったら…今度遊びにでも行きませんか?」

「え?」

「あ、って言っても俺、普段あんまり出かけないから…。」

「うそ…。もちろん良いよ!コースは私に任せて!」

「いいの?」

「いいよ!もちろんお姉さん、奢っちゃうから。」

ふふふっと彼女は嬉しそうに笑っている。

俺も釣られて笑顔になって、

「じ、じゃあ…これ、俺の連絡先です。」

と、スマートフォンを見せる。彼女はいそいそとカバンの中からスマートフォンを出して、俺の連絡先を登録している。

「じ、じゃあ…日程決めて今日は解散にしよ!」

俺はふと時計を見ると、1限目の授業が始まりそうだった。

「やべ!」

と、俺は立ち上がったが、ふと気になって彼女に問うた。

「あの、仕事…大丈夫ですか?」

「あぁ、私?うん。だって始業より全然早い電車に乗ってるんだもん。」

「あぁ…。よかった。なら、えっと、今週の土曜日は?」

「うん。もちろんいいよ。」

彼女は予定を確認する素振りすらなく即答した。

「おっけ。…じゃあ。」

と、手を挙げて俺は離席した。

彼女は微笑みながら俺に手を振り返していた。

なんだか、今日はいい日だったと、その頃は思っていた。




----------------




彼女とのデートは幾度かと重ねていた。

その頃には、俺はふらっと彼女の部屋に入り浸ることが多くなった。

毎朝同じ電車に乗って、それぞれの目的地に向かうのだった。

その頃と同時期に、あの男を見かけることはなくなった。


「ねぇ。絵が好きなの?」

「…うーん。」

お互い裸のベッドの上で、彼女は唐突に尋ねてきた。

「…好き、っていうより…依存?」

「…え?」

「好きってなんか、ワクワクするじゃん。でも、なんか俺は、芸術ってないと辛いって言うか…。」

「ふふ。かっこいいこと言うじゃん。」

「いや、そんなんじゃなくて…。」

「…明日休みでしょ?出かけない?」

「うん。いいよ。」

「じゃあコースは任せてね。」

「ふふ。うん。」

そして2人はキスをして、そのまま瞳を閉じたのだった。


この道のりは…と胸騒ぎがしながら着いていく。

「ねぇ。」

「ん?」

「これってもしかしてさ…。」

「あ、やっぱ気づく?」

あぁ…と、今日が途端に憂鬱になる。

「私の好きな画家の展示会があるの。それに行きたくって。」

向かう先は、この街でも随一の大きさを誇る美術館だ。俺も美大生の端くれ。ここで、その画家が展示会をする事を知っていた。

「ねぇ、その人知ってる?」

「いや…実は俺、他人の絵はあんまり見ないんだ。」

「え?美大生なのに?」

「は?」

俺はなんだかその一言にイラついた。別に俺は表現者であれればいいと思っていたからだ。

「え、ごめん。」

「…ううん。大丈夫。」

その会話の後は、少し重たい空気のまま、その会場に着いた。

2人で絵を見て回る内に、次第に俺も、この画家の絵が好きになってきた。

すると、だんだんと会話も弾み、とても楽しい時間を過ごせていた。


「おや?」

と、男性に声をかけられた。

なんだろうと振り向くと、そこにはあの電車の男がいた。

「え?」

「これはこれは。デートですか?」

と、何食わぬ顔で俺たちに尋ねてきた。

「あ、はい。」

「え?だれ?知り合い?」

彼女は隣で困惑している。

「うん、まぁ。」

「ん?なんだかよそよそしいじゃないですか。」

「いやいや…。」

「同じ―画家同士じゃないですか。」

「…え?」

「え?!」

俺よりも驚いたのは彼女の方だった。

「も、もしかして…こちらの絵を描かれた…。」

「えぇ。私ですよ。」

「あ、あの!私!先生の大ファンなんです!」

「おっと。嬉しいですね。」

男と彼女は握手を交わしている。

そこに俺はモヤモヤとした何かを感じていた。

「…あの、おれ絵画専攻じゃないんです。」

「そうだったんですか?あんなに綺麗な絵を描かれていたのに。」

「…。」

まただ。俺の拳は硬く握られている。今にも殴ってしまいそうだ。

「あ、あの。すみません。今日は楽しく見させてもらってます。あ、あと、彼も、先生の絵が好きみたいで…。」

「好きじゃあありません。」

「…。」

全員が一気に言葉を失った。

男も気まずそうにしているし、彼女は俺を心配するような目で見ている。

「…では、最後に奥の絵だけ見て帰られませんか?」

男はいつもの物腰の柔らかい手先で奥へと進むよう指示してきた。

「…。」

俺はもう帰りたかった。

「ねぇ、最後だから…。それだけ見て帰ろう?」

彼女もやはり、その絵だけは見たいと俺の機嫌を無視して奥へと進もうとする。

ここで行かなければ、何かが終わると思った。

俺は無言のまま彼女に手を引かれ、その最後の絵へと向かった。

そこに掲げられていたのは、抽象的だが、風景画のようだった。

彼女は『素敵』と、胸の前で両手を結んでいたが、俺はその絵を睨むように見ていた。

どこかで見た気がする。

ただ、やはりその絵は評価に値するだけあって、傑作として、ここに掲げられているようだった。


「ありがとうございました。」

と、男は俺たちに頭を下げ、それを背後に帰路へと着いた。

「素敵だったね、あの絵。」

「うん…。」

ただずっと引っかかっている。

あの絵はなんだか見覚えがある。

帰りの電車の中、彼女は男の画集を見ていたが、俺は下を向いて、このモヤモヤの正体を探していた。


彼女の家の最寄駅で2人で降りた瞬間に思い出した。

あの時の絵だと。




----------------




「今日はなんだか…良い日だったね!」

彼女はご機嫌だった。

それに対して俺は不機嫌な顔を隠せないでいた。

「…あの人、すごく有名な画家さんだから。君もきっとあんな風になれるよ。」

その言葉はさらに俺の心に刺さった針を、根深く刺していった。

「…なれるかな。」

「なれるよ。君、とても素敵だもの。」

彼女は俺に微笑んではいるが、あの絵のことはきっと忘れられないだろう。

「ありがとう。」

ここにもない事を俺は言った。


部屋につき、ひと段落した頃、俺も彼の絵を反芻しだした。とても良い絵だった。生涯をかけても追いつけない不安に襲われていた。

「コーヒー飲む?」

彼女はそんな俺を元気付けようと気丈に振舞ってくれた。

「…ビールが飲みたいかな。」

「あれ?君ってお酒飲まなかったんじゃ。」

「うん。だからこれが初めてかも。」

すると彼女はなんだか嬉しそうに、

「わかった!」

と、冷蔵庫へ向かった。


「どうぞ。」

と、差し出された缶ビールには、彼女の愛情が沢山詰まっていたに違いない。

「ありがとう。」

プルタブを開けた俺は、一気にそれを飲み干した。

「え、めっちゃ飲むね。」

「ふー…うん。なんか、美味しい。」

「じゃあ、もう一本行っちゃお!あ、私も飲もう。」

と、再度彼女は冷蔵庫へ向かう。

缶ビールを飲み干した俺は、次第と頭に登っていた血が、スッと下に降りてくる感覚があった。それは、今まで俺を熱らせていた体を、冷やしていくような感覚だった。

その時に、ふとあの男に、また一泡吹かせられるアイディアが浮かんだ。

俺は彫刻科専攻。もちろん大学に行くための道具はここにある。

彼女はキッチンで鼻歌を歌いながら、どうやらツマミの用意でもしてくれているようだった。

もう2度とあの絵が描けなくなれば…。

俺の手には工具箱から取り出した、ハンマーが握りしめられていた。

「ねぇ!」

と、彼女から声をかけられる。

「ん?なに?」

「え?もう酔ってるの?なんだか、言葉が柔らかくなったね。」

彼女はそれが嬉しそうだった。

一方で俺は、そのハンマーを持ったまま、キッチンへと向かった。

「あのさ。辛いのとか好き?お酒に合うの作ろうと思って。」

キッチンでは背後に目もくれない彼女が、何かを作っている。

「あのさ、俺が一番君を綺麗にできるよ。」

「えぇ?ふふ、どういうこと?」

と、振り返った彼女の眉間にハンマーを思いっきり叩きつけた。


冷蔵庫の音がうるさいが、彼女はどうやらこの1発では逝けなかったらしい。

「違う…違う…。」

苦しめたかったわけではなかった。

「うぅ。」

と唸る彼女が生きているのがわかったので、俺はもう一度頭にハンマーを叩きつけた。

それから俺は、彼女の遺体を警察署の前にある公園に、美しくレイアウトして飾った。

すると、警察がその途中で走ってきて、大声を出している。

「やめろ!」

俺の体を拘束しようとする警察に俺は必死に抵抗した。もう少しであの絵を超える作品が出来るのだから。

「あと、少しだけ!頼む!」

ただ、2,3人に体を押さえ込まれた俺は、何もできなかった。


数ヶ月が経ち、俺は刑務所にいた。

判決は20年。弁護士は有能だったようだ。

ただ、俺の中では、ギリギリまで作り上げた作品がメディアに出ないことが不満で仕方がなかった。


ある時、刑務所の短い自由時間にテレビを見ていた。

すると、とある有名な画家が作品を発表したと知らせるニュースが流れた。

それはとても抽象的な絵で、構図もなかなかにこだわっていて、すごく良い絵だった。

ただ、俺にはその絵が何を描いているのか分かり、その絵は俺を絶望に落とした。

タイトルは『悲しい男と幸せな女』。


俺はその場でフォークを首に何度も刺し、死んだ。




----------------




「あの。」

と、急に声をかけられた。

私はその男性が怖く、返事もできず、下を向いたままだった。なぜなら、彼は人相が全く分からないほど、目深く被った帽子にマスクをしていたからだ。

「あ…すみません。怖がらせましたか?」

「…。」

「顔色が…悪そうだったので。」

「…だ…大丈夫です。」


私は29歳の社会人7年目。

仕事は辛く、今日はもう辞職しようと退職願をカバンの中に潜ませていた。

これ以上あそこにいたら壊れる。


「あちらの方が、風当たりが良くて、電車が辛くないと思うので…。」

男性は紳士的に物腰の柔らかい様子で、席に座るよう促してきた。私は、それがとても嬉しく、

「じゃあ…。」

と、その席まで案内をしてもらった。

ストンと座った後も、正直気分はあまり良くなかったが、久しぶりの人の優しさに触れれて嬉しかった。

「ありがとうございます。」

「いえいえ。とんでもない。」

男性は表情は見えないものの、とても、優しく声を返してくれた。

「では私はあちらに座りますから。」

「あ、はい。」

と、彼は少し迂回するような動きで、言っていた席に座った。

私はそれを目で追っていた。

すると、斜向かい側にいる男の子に目が行った。

その子は繊細そうで、何より美しかった。

ただ、目には力があり、何かを成したいと思っている強い意志を感じた。

私には無い魅力だったから、彼の目から目が離せなくなった。


そらから私は仕事を辞め、幸い退職金もなぜか多めにもらえたため、彼を見るためだけにその通勤電車に乗った。

一向に目は合わなかったが、それでも彼を見れてとても幸せだった。

彼が降りる駅で降り、彼の後ろ姿を目で追った後、家に戻る電車に乗るのが日課となった。


ある日、その男の子が誰かと話しているなと思っていると、急に目が合った。私の中に電気が流れる。

これは恋だと体が教えてくれた。

それから数日経って彼から声をかけられた。とても嬉しかった。

そして、最終的には恋人のような関係になった。


私は全力で彼を支えたいし、彼のために何かしたいと思っていた。

だから、彼は難しい性格だったが、咎めず、共にいた。


ある日、デートで私が好きな画家が出展している美術館に2人で行った。行きがけ、私の言葉に彼を傷つけてしまった。私はそれをとても後悔している。

また、その画家が私たちの前に現れた時、彼の気持ちを無視して、喜んでしまった。

彼は帰り際までも、とても機嫌が悪そうにしていた。

私は彼のためならなんでもできると言うのに。


家に着くと、彼は『ビールが飲みたい』と言いだした。

その『初めて』が私のものになるなんて、と、年甲斐もなくはしゃいでしまった。

缶ビールを一気に飲み干した彼を見て、なんだか空気が和らいだように感じ、もう一本と勧めた。

そうなると、ツマミも必要かなと、キッチンに立った。


「ねぇ!」

と、彼に声をかける。

「ん?なに?」

温和な返事が来た。

「え?もう酔ってるの?なんだか、言葉が柔らかくなったね。」

私はそれが嬉しくて気持ち悪いほど笑顔だった。

「あのさ。辛いのとか好き?お酒に合うの作ろうと思って。」

と聞くと、

「あのさ、俺が一番君を綺麗にできるよ。」

と、なんだかプロポーズみたいな言葉が返ってきた。

「えぇ?ふふ、どういうこと?」

と振り向いた先にハンマーを振りかぶる彼を見た。


頭が痛かった。それこそ割れるほど。

その私の顔を真剣に覗き見ている彼が、私をどうしたいのか理解した。

彼は『違う…違う…』と呟いていたが、何も間違っていない。これが私にできる、最後のことなのだ。

「うぅ。」

と、呻き声が漏れた事を恥じた。


だから彼がもう一度ハンマーを振り下ろそうとしている時、最後まで笑顔でいようと、一生懸命笑っていたのだった。

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