まどろみの中で
王都から一日足らずほど離れたその砂漠の中で、シャバラは意識を手放しつつあった。
昼間は灼熱の太陽に焼かれながらも気を失うまいとなんとか耐え忍んだ。
喉の渇きが気力を奪うが、動けない体では、太陽への抵抗もままならない。
その中でも、必死に目を開け、自分を縛る縄から逃れようともがいた。
ハゲタカたちが、近くの木に止まり、罪人が弱まるのを待っていた。隙を見せたら最後、肉をついばみに来るだろう。
しかし、夜になると、その静けさの中で体は徐々に弱まり、遂に彼の意識を奪った。
――砂漠の夜は、彼に故郷の夢を見させた。
夕陽が地平線に沈んでいく。
シャバラは羊の群れを追っていた。
午後の放牧を終え、家に帰すところだった。
毎日変わらずに行う、自分の仕事だ。
まだ若く、明日への希望に満ちている。
やがて、家の白いテントが見えてくる。思わず顔がほころんだ。
「マオ!」
「シャバラ、お帰りなさい」
そう柔らかな笑顔で出迎えるのは妻のマオだった。
シャバラと同じく浅黒い肌をしていて、夫の帰還を優しく迎え入れる。
マオは決して美人ではないが、その丸い顔には愛嬌があり、細い目は三日月のように優しくて好きだった。マオは働き者で底抜けに明るく、遊牧民の妻としての役目をよく果たした。
シャバラがマオと結婚したのは十六歳の時で、彼女はその二つ年上だった。砂漠に住む遊牧民にとっては特別早くもない結婚だ。
夫婦となる前には会ったこともない妻だったが、暮らしは順調で、平和に日々は流れていった。
マオはよく笑い、シャバラもまた、よく笑った。二人の間には確かな愛情があった。
(ああ、これは夢だ)
マオの笑顔を見つめながらそう思った。
なぜなら、この世ではもう二度と会うことのできない人だったからだ。
――マオは身重だから、結婚して、二年が経った頃の夢だ。
もうすぐ子供が生まれるはずだった。
男か、女か、どちらでも愛情をたくさん注ごうとシャバラは思っていた。
男であれば、剣を教えてやろうと、ひそかに楽しみにしていた。
(マオ、どんなに俺が会いたいと思っているか、お前は知らないんだろうな)
夢の中でさえ久しぶりに会う愛おしい妻の顔に、そっと手を伸ばし優しく触れようとする。
しかし、マオの顔は途端にその輪郭がぼやけ形を失っていく。
妻は消えようとしていた。
(マオ! 行くな!)
叫ぼうとするが、声にならない。
消える寸前で妻は、タタ族の少女に姿を変えた。意思を秘めた瞳で、真っすぐに見つめてくる。
――ユールル。
*
シャバラは、うっすらと目を開ける。
すでに夜だが、月がやけに明るい晩だった。
砂と岩が照らし出される。
昼間シャバラを見張っていたハゲタカたちは姿を消したようだ。彼らも家に帰ったのかもしれない。
思いは、先ほど見た夢を巡る。
「……マオ、俺に何を伝えようとしたんだ」
傭兵として雇われるようになってから、記憶の奥に封じ込め、夢ですら思い出すことはなかったのに、なぜ今になってマオの姿を見たのだろうか。何か意味があるような気がしてならなかった。
マオとの日々は懐かしく愛おしいもので、それが美しければ美しいほど、彼女の死に顔が辛く思い起こされた。
彼女の死からすでに何年も経っていたが、その傷は決して癒えることはなく、まだ血を流している。
シャバラは意識的に、故郷の思い出を閉じ込めていた。
(ユールルに故郷の話をしたから、マオの夢を見たのだろうか)
幸せだった結婚生活は、わずか二年で突然奪われた。
身重のマオが、別の遊牧民に惨殺されたのだ。
羊を盗んだといういわれのない罪によって。
マオの死に、シャバラは間に合わなかった。
家に戻った時、すでに彼女の遺体は腹を割かれ、子供の代わりに羊の頭が詰め込まれていた。
取り出された胎児は息絶え、床に転がっていた。
殺害した犯人はすぐに分かった。畑から作物を盗もうとしていたのを、シャバラが以前注意した別の遊牧民のまだ若い少年だった。逆恨みしたという、身勝手な理由だった。
愛する人と、生まれてくるはずだった子供を同時に失ったシャバラの怒りは凄まじかった。
親族が止めようとしたが、シャバラはあふれ出る憎しみを押さえることができなかった。
マオの遺体を丁重に葬った後で、犯人の少年を見つけ出し縛り上げ、指をひとつずつ丁寧に切り落とし、顔を削いでった。
少年が何かをわめいていたが、覚えていない。
気がつくとその少年は静かになり、見ると死んでいたので、砂の上に捨てた。
――以来、故郷には帰っていない。
シャバラは体に固く食い込む縄を解こうと、再び身をよじる。
バルバロ族が去ってから、ここで死んでなるものかと、ずっと縄と格闘していた。
祈りが天に届いたのか、あるいは執念が勝ったのか、次第に縄は緩まった。わずかに空いた隙間に服の下に隠していた小さな刃を入れ込み、綱を切り始める。
縄は鉄でできているのではないかと疑うほど頑丈だったが、諦めずに刃を動かし続けると、時間をかけてやっと切ることができた。
残りの縄も切り落とし、ようやく拘束から逃れることができたシャバラはほっとため息をつく。
(……このまま、逃げてやろうか)
当然、その思いが浮かぶ。
シャバラは外国人であり、アルニア帝国に命をかけてまで仕える意味はない。腕っ節には自信があったし他の国でも仕事はあるだろう。
シャバラはイムリから二つの命令を受けていた。
一つはユールルを襲撃から無事に逃がし、帝都に待つイムリに届けるというものだ。しかし、もう一つは、一つ目の命令と矛盾するような内容のものであった。
イムリがユールルにこだわるのは、フィムのことがあるからに違いない。
二人が恋仲だったのは、シャバラにも分かっていた。
すでに前金は大量に貰っていた。
少なくともあと一年は暮らせるだろう。
いつもの自分であれば、遠くへ向かいこの国には二度と戻らない。
しかし、シャバラはそうはしないという確信にも近い思いがあった。
自分でも驚くほど、ユールルのことが気がかりだったのだ。
(なぜ、親子のふりをしようなどと俺は提案したんだろうな)
いやに感傷的になっている自分に対して舌打ちをする。普段ならそんなまどろっこしいことはしない。
――夢の中でマオと重なったユールルの顔を思い浮かべる。
タタ族の小さな少女は、その体を憎しみで満たしていた。
ガラシャ族から逃れ、悲痛に胸を痛めながらも復讐に捕らわれているその姿を見た時、かつての自分のようだとシャバラは思った。
しかし、家族を殺した少年への復讐を遂げた後で、自分に残ったのは途方もない虚しさだけだった。
(もし復讐を成したとしても、俺と同じ運命をあの子は負うことになるのだろうか)
ユールルといると、マオとの日々を思い起こさせた。
ユールルにいろいろと教えながら、生まれてこれなかった自分の子供のことも想像した。
そして何より、少女の憎しみは、過去の自分と重なった。
あの少女はいつも強く、決意を秘めた表情をしていた。しかし時に、子供らしい好奇心を見せて笑った。
このままではアブルスは容赦なくユールルを殺すだろう。勇敢なタタ族の少女の無駄死にを見たくはなかった。
それに、と言い訳のようにシャバラは思う。
(この金払いの良い国を去ったら、これだけの仕事はもう二度とできない。ユールルのためばかりじゃねえ。自分のためでもあるのさ)
そう言い聞かせ、ふらふらとした足取りのまま、帝都へ向けて歩き始める。
歩きながら、両手を見つめる。
シャバラの剣はバルバロ族に奪われた。
だから今、我が身を守るのは、この腕しかない。彼はいつも手にはめている革の手袋をそっと外した。
指先は、黒く変色していた。少し前から、シャバラは砂の病を患っていたのだ。近く、病は体を染めるだろう。
「もう少しだ、マオ。もう少しで、俺はお前の所に行ける」
シャバラは星空の妻にそっと語りかけた。
「だが、その前にやらなくてはならないことがあるんだ。病がこの体を満たすまで、もう少しだけ、待っていてくれ」




