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 「こちら、ジントニックです」


 薄いタンブラーを増川は勢いに任せてごくり、喉を鳴らして身体を潤した。


 バーである。店の入り口には太い桃の木が、そのトカゲみたいな幹に似合わぬ花を咲かせていた。しかし彼を捉えたのは天高く陽光を取り合う八重咲きの花々より、踏みにじられ、体液を土に溶かす、散った一枚の花びらだった。


 彼は生命であった。それは深くに根差した血管から、堂々と、晴れやかに地球の息遣いを取り込む奴らと比べる事が憚られるほどだった。ある者は「死があるから生が輝く」と言った。またある者は「生と死は隣り合わせ」だと。しかしそのような言葉は彼と、そして自分に対する侮辱であると、増川は感じた。崩れた花びらに教えられたのである。彼らにとって死は生よりも格段に魅力的だった。死ぬことへの憧れなどではなく、死ぬことが目的だった。つまり、生きるという行為は増川を引き付けなかったし、それが必然のような周囲に辟易していた。意味など持たず、生きることが意味だった。空襲を人一倍恐れているくせに、同時に何か甘い期待で死を待ちかねてもいた。増川は惰性で生きているのである。


 「ジン、お好きなんですか」


 店主だろうか、数人が動くカウンターで飛び抜けて年を重ねているように見える紳士が増川に声をかけた。たくわえた髭には白髪が混じっていた。外見に似つかわしくない、少年のような高い声をしていた。


 「ええ好きです。大地の香りがしませんか?草むらや若い根のような。ともすれば小鳥のさえずりが聞こえて来そうな。地球に少し寄り添えた気分になるんです」


 「分かりますよ。私も――妻に叱られそうですが――明け方、空が次第に明るくなって、世界が鼓動を始めた時間にゆっくり飲むジンが一番旨いと思いますよ。私、ジンが一番好きなお酒なんです」


 外は雨が降り出したのか、水滴が打ち付けられる音が微かに耳をくすぐった。色の付いた四角いガラス窓の向こうをちらと横目に、さらに店主らしきその人は話を続けた。


 「好きだからこそ、まだうちのジントニックに満足していないんです。銘柄や組み合わせ、分量は申し分ないと思うのですが。我々の腕前も。しかし氷の、その冷たさが邪魔をしているように感じるんです。氷に触れた上唇が痺れをもたらされる、あの感覚が。お客様はそのように感じませんでしたか?」


 増川は何を質問されたのか、多少の時間を持って考えなければ理解出来なかった。氷のサイズや形に工夫を凝らしたジントニックはあれど、氷の入らないジントニックなど見たこともなかったからだ。ジントニックを作ると聞けば、手始めに氷を用意する光景が想像されるのは自明である。それを不必要なのではないかと、それも生業としている者に尋ねられて即答できるほど彼は大胆な質では無かった。


 そして彼は言葉の理解を試み、沈黙の空を揺蕩い、傷んだ脳の先に何をも見て取る事無く、いつもの悪い習慣が顕現しつつあることに気が付いた。これは気まぐれに増川にへばりついて、彼の目に網をかけ所々に発光する点を投げかける。増川が眉間にしわを寄せこれを耐え忍んでも、頭に濃い霧を生む。情報と思考とを奪われる、悪い習慣である。店主の声、振る舞い、表情、深い茶色の棚、半量ほど残る酒瓶の数々、壁に掛けられた楽器、迫る青みがかった白い蛍光灯、離れ行く手、夢か現か?


 カラン、離れた席にて小声で語らう男達の一人が手首を傾け、ウイスキーロックの丸氷とグラスの擦れた涼やかで華奢な音色が増川を白い草むらから連れ出した。店主の問いに対して沈黙を続けた時間が如何程か彼には知る由もなかったが、針に糸を通すように記憶を吊り上げながらやっと返答した。ジントニックに氷は使わない方が旨くなるということですか、と。


 「いえね、氷は間違いなく欠かせない要素です。だからこそ悩みなんです。お客様は大地の香りと表現されましたが、私は遅い春の香り、特に4月から5月半ばくらいの山を感じます。時に、春はお好きですか?私は嫌いです。とても曖昧で優柔不断だからです。気温や湿度もそうですし、出会いと別れの季節などと呼ばれるようなところもです。心地好く、激情の季節かもしれません。しかし生き易さは、無力感と表裏一体ではありませんか。骨格だけの体を若い風が吹き抜ける、そんな忌まわしさを氷はジントニックから引き出してしまうんです。ところがトニックウォーターとジンだけではそれぞれの性質が開ききりません。これ無くしての私はあり得ないのです。氷はより魅力の増した完成品へ向かうために必要です。そして同時に、完璧からは遠ざけてしまうのです」


 店主は大粒の涙を流していた。両目から峠を越え、髭の彼方へ消えていった。この時増川は、彼もまた桃の花びらと同じ類であることを知ったのだ。互いにそれと理解し得ると感じたために思いを吐露してくれたのだと、直感的に増川は思った。


 「代替の効かない構成要因でありながら、その上で絶対的に邪魔なのです。」


 声は至って冷静に、淡々と事実をなぞった。


 ジントニックを飲み干して増川は店を背にした。冷えた唇に、月夜が触れた。脳の皺がまたひとつほどけた気がした。

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