第86話『母と娘(前編)』
「お母さんが?」
「ああ、夕方に来てくれって」
驚きで目を見開く澄乃に、雄一は大きく頷いてみせた。
病院から帰った後、同じく墓参りから帰宅した澄乃と共に昼食を摂る。その最中、雄一は午前中に霞と交わした約束を伝えた。コンビニで購入したサンドイッチを食べていた澄乃はその手を止め、どこか複雑な表情を覗かせる。
「悪い、勝手に一人で会いに行って……」
当事者である澄乃を抜きにして会いに行くなど、本来なら取るべき行動ではない。今回はプラスの結果を生み出すことになったものの、場合によっては余計に話をこじれさせる恐れだってあった。
澄乃がいないからこそ聞ける本音があるのではと思ったし、ほぼ門前払いだった彼女よりは自分の方が何か糸口を掴めるかもと考えた上での行動だったが、どちらにしても出過ぎた真似ではあったろう。そこに関しては、澄乃に非難されても仕方がない。
食事の手を止めて頭を下げる雄一に、澄乃は少し慌てた様子で両手を横に振る。
「あ、謝らなくていいよっ。私のためにっていうのは分かってるし、結果的にはそれが正解だったわけだから……。ありがとう、雄くん」
澄乃が柔らかく微笑んでくれたところで、雄一も強張っていた肩から力を抜いた。
その後、食事を終えてリビングのソファでゆっくりと休み、遠くの空に微かな茜色が差し始めたあたりで病院へ向かう。病院の近くまで行けるバスに揺られる中、澄乃は目を閉じてじっとしていた。もちろん寝ているわけではなく、これから到来する霞との対話に向けて気持ちを落ち着かせているといったところだろう。
しばらくして最寄りのバス停に到着し、そのままで徒歩で病院へ。受付で所定の手続きを済ませて病棟へ入り、五階へ上がるエレベーターを目指す。その矢先、澄乃は決意のこもった眼差しで雄一を見た。
「雄くん……ここから先は私一人でいい?」
「え……?」
「ごめん。雄くんにたくさん助けてもらっておいて、今さら虫のいい話だってことは分かってるけど……やっぱり最後は、私自身でどうにかしたいって思うの」
「澄乃……」
静かな決意を語る澄乃を前に、雄一は少しばかり押し黙る。
……本音を言えば、最後の最後まで澄乃のそばにはいてやりたい。もし彼女が折れそうになったら、誰よりも早く、強く、その心を支えてあげたい想いだった。
けれど“今”の澄乃はそれを望んでいない。望んでいるものはきっと、花火の下で約束を交わしたあの日と同じ――信頼。
澄乃なら大丈夫、きっとやり遂げることができる。確たる根拠が無くとも、希望的観測であるとしても、信じることが彼女の力になるのなら……もはや迷いなどしない。
「分かった。そこの待合スペースで待ってる」
雄一はそれだけを告げ、先を促すようにエレベーターのボタンを押した。まるで迎え入れるかのように扉が開き、「ありがとう」と微笑んだ澄乃は迷いの無い足取りでエレベーターに乗り込む。
その背に、雄一は声をかける。
あの花火の日をなぞるように、けれどここから先は違う結末に辿り着くことを信じて。
「いってらっしゃい、澄乃」
「いってきます、雄くん」
澄乃にとって二度目の訪問。510号室のスライドドアが今日は閉じられていて、ただの偶然であるだろうに、何か作為的なものを感じてしまう。
――自らの手で開く勇気はあるか。
そう訴えてくるかのような白い扉を前に、たっぷり時間をかけて深呼吸をした澄乃はドアをノックした。すぐに「どうぞ」という声が返ってきて、一拍置いてからドアを開いて病室の中に足を踏み入れる。
夕暮れの差し込む室内には、昨日と同じようにベッドの上で半身を起こした霞がいた。彼女は無言で来客用の丸椅子に目配せをする。そこに座れ、ということらしい。雄一から伝えられた約束通り、話をしてくれる気があるということだ。
話し合いの場が設けられていることに一抹の安堵を覚えるが、澄乃は気を引き締め直して丸椅子に腰を下ろす。まだスタートラインに立っただけ。本当に大事なのはここからだ。
「……話というのは何かしら?」
自分と同じ藍色の瞳がまるで鏡合わせのように澄乃へ向けられる。そう、これは霞との対話であると同時に、過去に逃げ出した自分との対決でもある。
なればこそ、澄乃は目を逸らさずに霞を見返した。
「ごめんなさい」
まず最初に口にしたのは謝罪。同時に澄乃は軽く頭を下げ、言葉を続けていく。
「去年のお墓参りの日にお母さんにひどいことを言ったことも、その後にお母さんから逃げたことも……ずっと謝りたかったの。本当にごめんなさい」
二人の間の溝を作り出すきっかけとなった一言。それまで霞に立ち直って欲しい一心で支えていたのに、肝心なところで余計な傷を増やしたのは澄乃自身だ。それこそ是が非でもその傷を癒さなければならなかったのに、霞を支えることに疲れ切った澄乃は一人暮らしという逃げを選択した。
弱くて無責任な自分が犯した過ち。それがどれだけ霞を悲しませただろうか。
「それで、そうして謝った上で……あなたはどうしたいの?」
「……私は……私はお母さんと……また普通の親子の関係に戻りたい……っ」
失った時間はもう返らないけれど、これから先ならまだ間に合うはずだから。もう一度また、ありふれた母と娘として笑い合えるようになりたい。
そんな願いを込めて、澄乃は深々と頭を下げた。
「…………」
霞は黙ったまま、短いようで長い膠着状態が続く。そして答えが決まったのか、ゆっくりと口を開いた霞は――嘲笑うかのように口許を歪めた。
「そんな殊勝な態度をとらなくても、あなたの言いたいことはちゃんと伝わっているわ」
「……え?」
まさか、自分の想いを受け入れてくれた……?
そう思って頭を上げる澄乃だが、目の前にいる霞はひどく冷めたようにこちらを見ている。
自分の想いは伝わったと言ってくれたのに、どうしてそんな軽蔑するよう目を向けてくる……? 言葉と乖離した視線が澄乃に突き刺さり、凍りつくように身体が硬直していく。
「急に話がしたいなんて連絡された時は驚いたけど、午前中に彼と話せたおかげで合点がいったわ。英河くん……だったかしら。優しくて良い人じゃない」
英河くん――雄一? なぜこのタイミングで雄一の名前が出てくる?
「好きなんでしょ? 彼のことが」
霞はなおも棘のある視線で澄乃を見ている。
霞の指摘こそ間違っていないが、やはり発言の意図が全く掴めない。霞は何を言っている? 一体、何が言いたい?
「そんなお優しい彼と一緒にいるためなら、私に一度や二度頭を下げるぐらいどうってことないわけね」
「何……を……?」
「家賃や生活費――あなたの今の暮らしを支えているのは私ですもの。何かの拍子に私の気が変わったら、今の暮らしが保てなくなってしまうかもしれない。好きな彼と離れ離れになってしまうかもしれない。あなたにとって、それが一番嫌なことなのでしょう?」
「…………」
……つまり、霞はこう言っているのか?
澄乃がここに来たのは霞と仲直りするため。だが、そんなものは全部建前の真っ赤な嘘。澄乃の生活の実権を握っているのは霞だから、霞の意向次第でそれを維持できなくなるかもしれない。想い人である雄一とも引き離されることになってしまうかもしれない。
だからそうならないように、霞の機嫌を損ねないように、媚びへつらっているだけだと。そんな自分本位の打算的な考えでここまで来たのだと、そう言っているのか?
「最低限の親の務めは果たすわ。お金の心配ならしなくていいし、あなたの生活に今さら口を出す気も無い。……それで満足でしょ?」
吐き捨てるようなその言葉を皮切りに、澄乃の心に影が差していく。
こうして顔を向かい合わせ、目と目と合わせても、霞は自分の想いを理解してくれない。それどころか、あまりにも見当違いな憶測で澄乃のことを嘲る。
想いが届かない絶望。
的外れな考えで非難される怒り。
決定的な隔たりを思い知らされる悲しみ。
それらが混ざり合って、闇よりも濃い影となって澄乃の心を覆っていく。
――だが、澄乃の心がその影に呑まれることはなかった。何故なら――
「どうして、そんな顔してるの?」
呟くように発した澄乃の言葉が、ぐしゃぐしゃに顔を歪めた霞の動きを静止させた。




