第77話『最低最悪の言葉』
父の殉職を知らされた日のことを、澄乃は今でもはっきり覚えている。
泣き疲れた澄乃は二階の自室に引きこもっていて、少しずつ落ち着き始めた心で父のことを考えていた。
――大っ嫌い。
思わずそう口走ってしまったけれど、さすがにひどい物言いだったろう。父だって約束を破りたくて破ったわけじゃない。優秀な消防士だからこそ困難な現場に駆り出されたわけで、澄乃にとってもそんな父は一番の自慢だった。
お仕事なんだから、しょうがない。
父が帰ってきたらちゃんと謝ろうと決めた。もちろん旅行が台無しになったことは不服だから、その分ワガママを言えば少しは聞いてくれるかもしれない。何かおねだりでもしてみようか。
そんな意地の悪いことを考えていた時だった。
一階の方で電話の鳴る音が聞こえた。すぐにその音も止み、母が電話に出たのだと思った。しばらくしてから、自室の扉をノックされた。そして扉を開けた先にいた母から……父の殉職を伝えられた。
初めは何を言っているのか分からなかった。だって今朝は、あんなに元気そうだったのに。泣きわめいてばかりの澄乃に、それでも『今度埋め合わせはするから』と優しく声をかけてくれたのに。
なのに、もう帰ってこない?
意味が、分からなかった。
そしてそれは母も同じだったようで、焦点の定まらない目で同じ言葉を呟いてばかりだった。まるで壊れかけのボイスレコーダーのように、電話口で伝えられたであろう内容を途切れ途切れに繰り返すだけ。
澄乃は悟った。頭では否定していても、心が理解してしまった。
母の言葉は、父の殉職は、紛れもない真実であることを。
――父の葬儀や諸々を終えると、今度は母が倒れた。父の死に相当のショックを受けてしまい、母は精神病院への長期入院を余儀なくされ、澄乃は隣の夫婦の家にご厄介になった。ちょうど子供が一人暮らしで巣立ったらしく、親切にも夫婦の方から申し出てくれたのだ。
今までとは違った環境に身を置く日々。そんな中、澄乃の立ち直りは自分でも思った以上に早かった。
母と同じようにショックは受けたし、涙で枕を濡らす夜もあったけれど、それでも前を向こうと足掻いた。
きっと心のどこかで思っていたのだろう。最期の最期で父を傷付けた自分に……その死を悼むことなど許されないと。
悲しむ資格も暇も無いのなら、澄乃のなすべきことは一つ。
今は亡き父に代わって自分が母を支えてあげなければならないと、澄乃はそう心に決めた。
とはいえ、専門のカウンセリング知識も無い少女が何かできるわけもない。だから澄乃は、せめてこれ以上母に心配をかけないようにと振舞った。
日々の暮らし、学校生活、とにかく目の前のことに真面目に取り組む。定期的な墓参りも欠かさず、せめてもの罪滅ぼしとして、父の墓前を綺麗に保ち続けた。入院中の母は墓参りに来れるほど精神が安定していなかったから、母の分も含めて手を合わせた。今にして思えば、『優等生の白取澄乃』という人間の原型はこの時に出来上がったのだろう。
そんな暮らしが一年、二年、三年と過ぎて――澄乃は無事に受験を終え、高校への進学を決めた。ちょうどその少し前には母も退院していて、ゆっくりではあるが、徐々に昔と同じような生活を取り戻しつつあった。もちろん、父の死という壁は依然として立ち塞がったままだけれど、いつかその壁を乗り越えて、母と二人もう一度前を向いて歩けるように。そんな希望を胸に秘め、澄乃はより献身的に母を支えた。
そして、ようやく転機が訪れた。
父が死んでから三年目の命日。母は澄乃と一緒に墓参りに行くと決心してくれたのだ。
気持ちの整理がついたのだろう。自分の努力が実を結んだような気がして、これでようやく母と一緒に前に進めると思うと、澄乃は嬉しかった。
――そのはずだったのに。
いざ墓地に入ろとした時……母は立ち止まってしまった。父の死と向かい合うことに怖気づいてしまったのか、そこから先に進もうとしてくれない。澄乃が大丈夫だと、一緒に行こうと懸命に促しても、やっぱり一歩を踏み出そうとしてくれなかった。
次第に母の拒絶は激しさを増し、気付けば嫌だ嫌だと、まるで幼い子供のように駄々をこねた。
そんな母の姿が、父との別れ際の自分と重なり、澄乃の心に段々と苛立ちが募っていった。
どうしてここまで来て。あとほんの少し、一歩でも踏み出してくれればいいのに、何でその一歩を踏み出してくれないんだ。何でそうまでして受け入れようとしてくれないんだ。
それなら、あの時。
「――れば良かったのに」
父が行こうとしたあの時。
「――お母さんが止めてくれれば良かったのに」
そして澄乃は、とうとう口にしてしまった。
「お母さんがあの時止めてくれれば、お父さんは死ななかったかもしれないのに――ッ!」
最低最悪の、その言葉を。




