第48話『気持ちの在り方』
夜の帳も完全に下りた午後十一時頃。風呂上りの澄乃は自室のベッドに腰掛けて人心地ついた。ドライヤーで乾かした髪をブラシで丹念に整える。入浴後のヘアケアには余念が無い。年頃の少女にとって、身嗜みというのは手を抜くことのできない要素なのだ。
ベッドのサイドテーブルに置かれた卓上鏡を見ながら、風呂上りのやや火照った手が丁寧に銀髪を整えていく。満足のいったところでブラシを置くと、鏡を手に取って最終チェック。サイドの仕上がりも問題ないのを確認したところで、澄乃は「よしっ」と緩やかな笑みを浮かべだ。
――今までは、これといった目的があるわけではなかった。
単純に年頃の嗜みとして手間をかけていただけ。もちろんサラサラと流れる綺麗な髪には憧れていたし、人から褒められると嬉しくて、いつも以上に時間をかけた手入れをしてしまう日もあった。
けれど、特別誰かに褒めて欲しかったわけでもない。ただ自分の納得のいくようにしたかっただけだ。
でも、これからは。
「ふふっ」
一人の少年の姿が思い浮かんだところで、澄乃は恥ずかしそうに笑みを零した。鏡に映る自分の頬に赤みが差しているのは、たぶん風呂上りが理由なだけではないはずだ。
お気に入りのシュシュで簡単に髪を纏めて、澄乃はベッドに身を傾ける。低反発のマットレスがぼふっと身体を受け止めくれるのが心地良い。
しばらくその心地良さを堪能した後、澄乃はゆるりと手を伸ばして鏡の横に置いてあった青のベレー帽を掴み取る。
部屋の照明にかざすように持ち上げたベレー帽には、傷も汚れも見当たらない。それを嬉しそうに眺めて、そのまま胸の方に引き寄せてぎゅっと抱いた。もちろん型崩れしないように。せっかく大事にしてくれた意味が無くなってしまう。
(楽しかったなぁ……)
振り返るのは今日のお出かけ。
色々と失態を犯したり恥ずかしい思いをしたけれど、総じて楽しい……本当に楽しい一日だったと思う。
テーマ―パーク自体が楽しかったというのもあるが、それでも他の誰と行っても、こんなに満ち足りた気持ちにはならなかっただろう。他でもない――相手が雄一だったから。
「お礼のつもりだったんだけどなぁ……」
今さらのように澄乃はごちる。
日頃の感謝を含めて雄一に楽しんでもらいたい。そんな考えで彼を誘ったはずだったのに、気付けばそんなことも忘れて澄乃の方が楽しんでいた。もちろん雄一だって楽しんでくれたとは思うけれど、度合いでいったら自分は負けていない。胸を張ってそう言える。
全く……これでお礼だなんて、我ながら聞いて呆れてしまう。
お礼どころか、最後の最後で最高の思い出まで頂いてしまったのに。
自嘲気味の、けど満足したように笑って、澄乃はスマホを手に取った。画像アプリを起動して一枚の写真を画面上に表示させる。
写真に写っているのは、夕焼けに彩られた一組の男女。
片方は顔を赤くして、分かりやすいぐらいに戸惑った様子が見て取れる。たぶん頑張って浮かべようとしてくれたぎこちない笑顔がとても可愛らしくて、見ているだけで口許が緩んできてしまう。
……可愛いなんて言ったら拗ねるだろうか? それはそれで見てみたい、なんて。
想像の中の表情に軽く笑って、身体をぴったりとくっつけたもう片方へ視線を移す。
自分が記憶している中でも最大級に頬を染め、そして最大級の笑顔の花を咲かせた一人の少女。溢れんばかりの幸せな気持ちがそこにはあった。
まぁ、それも当たり前だ。
“そういう”相手が隣にいて、幸せにならないわけがない。
……幸せ過ぎて、さすがにちょっと大胆な行動に出てしまったと思わなくはないけど。
ほんのちょっぴりの反省を終えたところで、澄乃はふと思う。
――雄一は大丈夫だろうか?
なにせ身体丸ごと湖に落ちてしまったのだ。ある程度タオルで拭くなり着替えるなりしたとはいえ、当然完全というわけではない。自宅に着く頃には暗くなっていたはずだし、体調を崩してなければいいのだが……。
一度気になり出したら止まらなくて、手早くメッセージアプリを起動した澄乃は文字を打ち込んでいく。
夜も遅いからできるだけ内容は簡潔に。でも素っ気なくはならないように。いや、その前に一言お礼を述べるべきでは? 別れ際にお互い何度も言い合ったから逆にしつこいか……? かと言っていきなり体調について訊くのも急すぎる……? もし寝てたりしたら逆に起こしてしまうかも……? でも心配だから聞かずにいられないしあああ迷っている間に時間が――。
結局、たかが五十文字程度の文章を作るのにたっぷり十分ほどの時間をかけてメッセージを送った。
『今日は本当に楽しかった、ありがとう! 体調は大丈夫? 夏だけど気を付けて、しっかり暖かくして眠って下さい』
ついでに、笹の葉の影から心配そうに顔を覗かせるパンダのスタンプも添えておく。
思いの外早く既読マークが付いた。その割にそれ以降の反応が無いから「やっぱり夜遅くに迷惑だったかな……?」とやきもきしていると、十分ほど経ってから返事が来た。
『俺も楽しかった。体調は大丈夫。色々と用意してくれたり心配してくれたりしてありがとな。そっちも気を付けて』
そんなメッセージのすぐ後に、腰を九十度に曲げてとても丁寧な礼をするヒーローのスタンプが送られた。ナイトキャップを被ったパンダの『おやすみ』スタンプで返事をすると、すぐに雄一の方からもヒーローが布団に潜り込んだスタンプが返ってくる。
お互いにおやすみを伝え合ったから、そこでやり取りは終わり。けれど澄乃はしばらく、雄一とのトーク画面を眺め続けた。不意に手が動くと、相手からの『ありがとな』や『気を付けて』といった文面を指先でなぞる。
――ああ、ダメだ。こんな何気ない言葉でも嬉しくなってしまうなんて。
何よりダメなのは……そんな自分を受け入れてしまっていること。一人暮らしで誰にも見られないのをいいことに、だらしなく緩む頬を隠そうともしない。
ありがとうと言ってくれたことが、嬉しい。
気を付けてと心配してくれたことが、嬉しい。
可愛いと褒めてくれたことが、嬉しい。
彼の言葉が、嬉しい。
大きく息を吸って、吐いて、そして澄乃は目を瞑る。
どこか収まりのつかなかった自分の気持ちが、ようやく今日、すとんと落ち着いた気がする。
今まで経験したことのない気持ち。でも今は、この感情が“そう”だとはっきり言える。
熱くて、ドキドキして、切なくて、なのにそれがどこか心地良い。
ゆっくりと目を開いた澄乃は、スマホの画面にもう一度写真を表示させる。
「英河……雄一くん……」
自分の隣にいる、彼の顔を真正面から見つめて。
「――――好き」
そっと……想いの丈を呟いた。




