寒空の冬、向かうは春の兆し、陽を照らすは桃源郷にて
Twitterのフォロワー様100人突破記念作品!!
その日は、本当に寒い日でした────
路面は凍り、薄暗く曇る夜空から雪が舞い、一面銀世界へと包まれていた。
雪を踏み付ける音を朧気に捉えながら、僕は街灯が照らす雪道に置き去りにされた。
天井が開いた段ボールの箱に、僕は単身震え、必死に寒さと格闘を続けた。
だが、冬の夜に押し寄せる極寒に体力は奪われ、段ボールの底に身を伏せるも殆ど効果はなかった。
意識も朦朧とし、瞼は次第に重みを増した。
そして、遂に体力はピークを迎え、必死に瞼を持ち上げようと抵抗してきた体力さえも無気力と化し、瞼は自然と閉じられ視界は暗闇に包まれた。
◆◆◆ NEXT ◆◆◆
短い人生だった────
まだ、母の温もりに甘え足りない年頃。
思い返せば思い返す程恋しくなるあの温もりを、もう感じることができないまま、僕は死んだのだと諦めていた。
幼いなりにも本能的にそう感じた。
そして、勝手に自己完結を迎えようとしていると、唐突に僕が求めていた温もりを超越する温度の熱湯を全身で浴びる結末を迎えた。
──熱い、熱い、熱い、熱い!!!!
その一瞬の出来事に戸惑う気持ちを抱きながらも、何より全身で受けた熱湯の熱さに悶え、ビショビショに濡れた体を乾かそうと全身を震わせた。
「あわわわわわ、ごめんなさい、ごめんなさい。直ぐにタオルを持ってきます!」
一種のパニック状態に陥っていると、不意に背後から少女と思われる者の声が聞こえた。
だが、遠ざかる足音と共にその声はどこかに行ってしまった。
しばらくして体の熱も冷めたというよりは、この熱に慣れたという表現が正しいだろう。
この頃には、段々と自分に冷静さが戻って来ていた。
そして、ゆっくりと周囲の風景を改めて見渡した。
すると、今自分が立っている場所は、先程の銀世界ではなく、春の陽気に包まれた穏やかな場所にすり替わっていた。
四方を囲む段ボールの要塞もその場にはなかった。
周りを見渡す過程で目に留まったのは、横長に広がる平屋の屋敷に、桜の木を始めとした花々が活けられた敷地だった。
冬の季節から一気に春の季節にタイムスリップ────
まるで冬眠から目覚める生態を持った生き物になった気分だった。
だが、僕は冬眠なんてしない────
それでも、僕はこの秘境の風景に只唖然とするばかりだった。
「あ、あのーお待たせしました。タオルをお持ちしました」
今度は近づく足音と共に先程聞こえた少女と同じ声がした。
まだ幼げに感じる声色────
その声に反応して僕も声がする方に視線を送ると、屋敷の廊下で少し呼吸を乱し、タオルと濡れた桶を手に持った着物姿の少女が立っていたのだった。
彼女は外に出るために草履を履き、敷地内で立ち尽くす僕の元へと駆け寄って来た。
彼女が着こなす着物は、黄色と黄緑色の配色が施され、甘茶色の髪をポニーテールに縛ると、それは腰の帯辺りまで伸び、頭部では髪色と揃いの狐耳が顔を覗かせていた。
視線を少し下にすれば、着物の布面積を通り抜け毛並みの揃った狐の尾の存在も確認できた。
大人達から見れば彼女は背も低く、まだまだ子供扱いを受けるような年齢の少女だが、まだ幼かった僕からすれば、彼女は年上の先輩だった。
「本当にごめんなさい。お呼びしても返事がありませんでしたので、偶々湯船にお湯を張っている最中でしたので、つい……でもよかったです、意識が戻られて」
彼女は、持って来たタオルで僕の頭部から背中にかけて丁寧に体を拭いてくれた。
その一方で、彼女が一つ余計なものとして手に持っていた濡れた桶が、その事実を物語っていた。
少し荒療治にも感じたが、結果僕が目を覚ますことができたため、文句一つ言うことなく僕は静かに彼女の話しを聴いていた。
体も幾らか乾くと、僕はお召し物として自分には少し大きめの浴衣を拝借し、屋敷の廊下に腰を下ろすと、そこから庭に咲く花々を見渡した。
「すみません、私が昔着ていた着物しかなくて……流石に旦那様の物を持ち出すわけにもいきませんので」
僕と出会ってから彼女は遜るような一文を添えて会話を進める。
とても丁寧な言葉遣いだった。
「……お姉さんは、この屋敷の人?」
「確かにこのお屋敷では暮らしてはいますが、私は元々仕事を探して山を越え、今はこのお屋敷で雇われている身です」
彼女はまだ半人前であると頬をかき照れ臭そうに語った。
「そうです!?どうしてこの屋敷の庭で倒れていらしたんですか?何か用事でも、それとも迷子ですか?」
彼女は唐突に手を叩くと僕と同じ目線になって語り掛けてきた。
彼女の問いかけに僕は上手く話す内容がまとまらず、口を閉ざしたままだった。
ただ、沈黙を続けるのも気分が悪かった僕は、仕方なく内容がまとまらないまま口を開くことにした。
「……分からない。気が付いたら僕はここにいて、その前までは確か凍えるような雪道にいたと思う…」
今、口にした記憶さえ朧気なものになっていた。
ただ、それでも鮮明に刻まれた事実は、母親と離れ離れになってしまった悲しみと冬空に吹雪く冷徹な空気だった。
「雪原?ということは、貴方様は現世にお住まいの方ですか?」
「現世?」
聞きなれない言葉に僕はふと疑問形で呟いた。
「現世とはですね、生を持った方々が暮らす世界のことを呼び、その反対である生を失った方々が暮らす世界を黄泉の国と呼んでいます。そして、この場所はその二つの世界の間に位置する桃源郷と呼ばれる世界でございます」
「桃源郷?」
又しても聞きなれない言葉に首を傾げた。
「はい。この世界は、元々神様が人間との娯楽を楽しむために作り出した世界で、現世の日本と呼ばれる地域において、昔から人々は桜の木の下で美酒を嗜む風習から、この世界では四季という概念がなく、桜の花が永遠に咲き誇っています。この世界に住んでいる方々は皆、神霊の方や神様の使い、或いはその眷属に当たる方々が暮らしており、かく言う私も、ウカノミタマ様の眷属に当たる者でございます。私を見てお分かりのように、ここは人間を神様が持て成す場であるため、この世界に暮らす方、或いは人の身成らずして生を持つ者皆、人の姿を依り代としております。ですので、貴方様のように現世からここ、桃源郷に迷い込まれる方もいらっしゃいます。先程雪原とおっしゃっていましたので、おそらくそうではないのかと思ったのですが……」
彼女は丁寧な言葉遣いで説明してくれたのだが、僕はその内容の半分すら理解し得なかった。
自分がいた世界のこともろくに知らない僕が、他所の世界での事情を聴き、それをあっさり理解できる筈もなかった。
「難しいことはよく分からないけど、要するに僕はもといた世界からこの世界に迷い込んだってことなのかな?」
「おそらくは……」
「そうか……」
彼女の方も曖昧な返し方ではあったが、的外れではないと思った。
そして、特に理由もなく、僕は少しバタつかせる自分の足へと視線を落とした。
「ど、どうかされましたか!?まさか、私が掛けたお湯で火傷を……」
僕の暗い表情を覗いてか、突然彼女は慌てふためき出し、少しパニックに陥っていた。
お陰で少し沈んでいた自分が逆に冷静になった。
「うんうん、そうじゃなくて、何かずっとこの世界にいたなって……」
「……」
「ここは暖かいし、それに僕はもう……」
その後に続く言葉を口にしようとした時、僕はその単語を口にすることを躊躇った。
それを口にしてしまうと、僕はまた悲しくなってしまう。
一人ぼっちになってしまったことを認識してしまう。
またあの寒い夜を思い出してしまう。
自分の中で葛藤を続けていると、自分の心がそれに耐え切れず、自然と涙腺から涙が零れた。
そのことに気が付くと、僕は隣に座る彼女に見られたくない一心で膝を抱え込み顔を覆った。
だが、完全に隠すことはできず見られたくない羞恥心に駆られ、頬と耳が熱を持ち真っ赤に染まっていくのが分かった。
だが、そんな僕を見かねても彼女は何を聞くこともしなかった。
そして、彼女は何も言わないまま僕の胴体と抱え込んだ膝の間に手を通し、もう片方の腕を背中に回して優しく僕を抱き抱えた。
「えっ!」
突然の行為に僕は言葉を失った。
「居たいのであればここにいてもいいんですよ。ここは生きとし生きた者達が集う秘境の地。辛いことがあったらまたここに来て下さい。私、ずっと姉のような存在に憧れていました。貴方様を見ている自分に弟ができたようで私とても嬉しいです」
抱き合う僕達の頬は僅かに擦れ、一瞬の微動だにすら憚られた。
彼女から伝わる温もりは空気に伝わる陽気と合わさり、ついうっとりしてしまう程だった。
仄かに香る優しくも甘い香りは僕の心を誘惑し、肌に伝わる温もりは母のそれと錯覚させる程の安心感を抱かせた。
生まれたての赤子のように安心を覚えた僕の心は次第に睡魔に襲われ、瞼がまた重くなってきた。
この出会いがひと時の幻であってほしくないと強く願った────
◆◆◆ NEXT ◆◆◆
強い風の音が鼓膜に伝わる。
それはとても冷たく凍えそうな息吹だった。
ただ、その中で自然と温かみを感じてはいた。
「ああ、姉ちゃんこいつまだ生きてたよ」
「ホント!!じゃあ早く家に帰るわよ。こんなところで晒しにされてたらこの子死んじゃうわ」
「うん」
かじかんだ瞼を開けることはできなかったが、僕の耳では強い風の音の中で確かに二人の人間の会話を聞いた。
そして、体には温かい毛布のようなものが巻かれ、急激に低下する僕の体温を維持する手助けをしてくれた。
「よし、寒いから俺の服の中に入ってろ、おお!!腹が冷てぇ──」
「陸、帰るわよ」
「ラジャー!!」
その掛け声を聞いた後は、激しい振動と頭上から聞こえる荒れた吐息だけだった。
──こうして僕は、凍てつく吹雪の夜に捨てられ孤独だった身から、後に新しい家族になる彼らに救助されたのである。
◆◆◆ NEXT ◆◆◆
一年中春の陽気に包まれる温かさに僕はまた引き寄せられてしまったのだろう────
これは僕の夢の中。
滅多に夢を見ない僕が夢を見ると、この場所に僕は行き着いてしまうらしい。
原理としてはとても曖昧な話だ。
そして、僕はまたあの屋敷の庭にいた。
正確には敷地の周囲を囲む茂みの近くにいた。
今度は意識がはっきりしたままだった。
屋敷の敷地からほうきで砂利を履く音が聞こえ、僕は茂みの影からそっと中の様子を伺った。
茂みの影から周囲を伺うと、以前出会った狐耳の少女が鼻歌を歌いながら庭の掃除をしていた。
本来であれば堂々と彼女の前に出るべきなのだろうが、彼女が自分のことを覚えているかも不確かで意気地のない僕はこうして茂みの影に隠れて彼女の様子を伺うことしかできなかった。
茂みの中から少女の姿がよく見える穴を探していると自分の体が茂みに触れ、不意に物音を立ててしまった。
「ん?」
その異変に少彼女も気が付いた。
仕方なく僕はとても恥ずかしい気持ちになりながら彼女の前に姿を現すことにした。
茂みの中からゆっくり顔だけを覗かせ、頬は恐らく恥ずかしさで赤く染まっていたことだろう。
「ああ、貴方様は!!」
「……どうも」
僕の顔を見ると少女は嬉しそうな笑みを浮かべ、それとは反対に僕は黒髪を整え、顔を少し隠すようにして気が引けたような弱気の返事で返した。
だが、この反応から彼女は自分のことを覚えてくれていたのだと安堵することができた。
「またいらっしゃったんですね」
「うん……」
こうして、僕達は再会を果たした────
彼女も休憩の時間に入ると、僕達はまた屋敷の廊下に腰を下ろした。
「そう言えば僕、あれから新しい家族が出来たんだ」
「本当ですか!?おめでとうございます!!」
彼女は軽く手を叩いて拍手を送ってくれた。
まるで自分のことのように微笑むその笑顔と頭部に生える狐耳をピクピクさせ、短い尻尾を元気よく振るその愛らしい仕草に僕の心は自然と癒された。
「宜しければ聞かせて貰えませんか、貴方様の新しい家族の話を……」
「うん!」
僕も優しく微笑みながら語ることにした。
あの日、僕を助けてくれた古味里陸と、その姉である美海。
この二人の姉弟は、凍え死にそうな僕を介護し、そこの両親も身寄りのない僕が居座ることを許可してくれた。
それからと言うもの、一番歳が近い陸とはここ最近よく遊ぶ。
近くの公園に赴き、そこでボールを使って駆け回った。
ボールを追いかけている時が、僕が一番夢中でいられる時間だった。
そんな他愛もない話を僕は無我夢中で彼女に語っていた。
ただ、途中から僕も冷静になり、今まで語ってきた内容に華の欠片もないものだったと気付いてしまった。
だが、彼女はいつも真っ直ぐな笑顔で僕の話しを聴いてくれていた。
「…ッ!?」
一度冷静に立ち直った僕の予想とは裏腹の反応に言葉を詰まらせた。
「ん?どうかなさいましたか?」
「な、何でもない…」
その時の僕は、自分の話に笑顔を浮かべてくれる彼女の容姿に見惚れていた。
佇んだ言葉遣いのなかに少女らしい無邪気さを含んだ笑顔。
その笑顔はまるで太陽のようだった────
そんな硬直したまま彼女を眺めていた僕は、真意を探られぬように誤魔化しを利かせ、彼女から視線を逸らした。
その時の僕は見るに堪えぬ程に頬や耳を赤く染めていたという自覚はあった。
しばらくの間、僕は彼女の方に向き直ることができなかった。
だが、そんな最中頭の中で僕を呼ぶ声が聞こえた。
「あっ、もうすぐ朝だ。陸君が呼んでる」
確かにそれは紛れもなく陸のものだった。
僕はその声に呼ばれるに従って、腰を下ろしていた廊下から勢いよく立ち上がった。
「また、お話聞かせて下さいね。私、この世界のことしか知らなので、今日はお話が聴けてとても楽しかったです」
僕の背中に語り掛ける彼女にもう一度振り返ることができた。
振り返り様に見据えた彼女の顔には、まだ眩しい程の笑顔があった。
「うん、分かった」
そう言って、僕は確証もなく彼女と約束ごとを交わした。
「あっ、宜しければ貴方様のお名前を聞かせて貰えませんか」
彼女は優しく微笑みながら告げた。
廊下から立ち上がった後の僕は、顔だけを後ろに振り向かせているだけだったが、彼女が放った言葉を聞くと、僕は彼女の正面へと向き直った。
「僕の名前は、アテル。陸君が付けてくれたんだ」
「アテル君ですか……私はミツハと言います」
僕の後に続いて彼女も自分の名前を告げた。
ミツハ────
その響きに反響するようには春風が屋敷へと吹き、桜の花弁を舞い上がらせた。
とても安心する名であるというのが第一感想だった。
根拠はなく、完全に野生の感というものだった。
「陸さんという方、大切にして下さいね」
最後にミツハは僕にそう助言した。
「うん」
久々に出会った時とは別人なまでに、僕は覇気よくそう言い残し、敷地内を駆け抜けた。
そして、ここ桃源郷と現世を繋ぐ門の前に立つと、再び屋敷の方を振り返った。
振り返ると、見送りとしてミツハはずっとこちらに視線を向けたまま手を振っていた。
この距離であれば届くと思い、僕は腹の底に力を溜めた。
「ミツハお姉ちゃん、またね」
「……えっ、お姉ちゃん?」
姉という響きにミツハはきょとんとした表情を浮かべ、左右に振っていた手も止まってしまった。
次はまたいつ会えるか分からない────
だから、この景色を瞳に焼き付けるように僕は、無邪気なリにも全力で振り返した。
◆◆◆ NEXT ◆◆◆
いつ訪れることができるかも分からない不確かな世界────
僕が再び桃源郷を訪れた時は、僕が住む現世とよく似て、大粒の雨がこの地に潤いを来していた。
「大変、旦那様の着物が……!!」
どうやら振り出したのはつい今しがたのようで、その証拠として、着物の袖を捲り仕事に差し支えぬよう髪止めで縛った長いポニーテールを激しく揺らしながら、廊下を駆け抜ける狐耳の少女が、急いで外に干したままの主人の着物を取り込む様子が伺えた。
干し竿はやや彼女の背丈には合わず、踵を上げ手を伸ばし、やっとのことで着物の袖口に触れていた。
その様子を見かねた僕はそっと手を貸すことにし、まだ竿に吊るされているもう一着の着物を僕は取り込んだ。
「えっ……もしかして、アテル君ですか?」
「…しばらくぶりだね、ミツハお姉ちゃん」
現世の時の流れにして、実に3年ほどの空白────
久々さに再開した僕達だったが、僕の方が彼女より顔一個分抜けるという身体的変化が見られた。
「はい、お久しぶりですアテル君。だいぶ背が伸びましたね……あっ、いけない!?ひとまず中に……」
僕は、手に持つ着物をなるべく濡らさぬように抱え、彼女に誘導されるがままに、屋敷の廊下まで走った。
久々に見た彼女の笑顔に僕は少し安堵を覚えた。
ただ、今の僕の心は一向に晴れなかった────
まるで、今降り続くこの雨が自分の心象のように思えた。
「……何か、困ったことでもありましたか?」
畳の敷かれた居間で一人、乾いた洗濯物を畳む彼女が、時折僕に視線を送る中でそんな言葉を呟いた。
「……分かるの?」
「私達、神の眷属に当たるものは、物の抱く感情をオーラとして敏感に感じ取ることができます」
その説明を受け、まだ彼女について知らないことがたくさんあるのだと感じた。
とても他愛もないことだった。
狼狽しきった僕の思考は完全に鈍っていた。
「……」
「一先ず、湯に浸かられてはいかがですか?髪や体も雨で濡れていることですし……」
黙秘を貫く僕に彼女は一つの提案をした。
僕は彼女の提案を呑み、お言葉に甘えて湯に浸かることにした。
天井には日本の家屋ならではの木材が天井を彩り、湯船は角ばった石材を積み上げた簡易的なものだったが、底はしっかりと平らに整えられ、湯加減も文句はなかった。
こうして、湯舟に浸かったのは、何年ぶりだったか────
日々走り回って溜まった垢が湯舟に染み出る。
濁った湯舟では水面に映る自分の顔が霧がかった。
ここ桃源郷においては、生きとし生きた万物が人の姿を得る。
かく言う僕も、この世界では人の姿を得ているが、水面に映る自分の素顔がどんなに歪んでも、その顔が人の素顔を持つことはなった。
恐らく、今自分が抱えている悩みは、自分が人であれば体験することはなかったと自分の生い立ちを攻めた。
「アテル君。着物ですが、旦那様から許可が下りましたので旦那様のをお使い下さい。戸を開けてすぐの場所に置いておきますので」
「……うん」
僕は乾いた返事を返した。
湯舟には約5~10分程浸かっていた。
彼女の言う通り戸を開けた先にやや大きめの着物が用意されていた。
袖口を通した感想として、これだけの領地を治める主人なだけあり、滑らかな素材が肌をくすぐる質のいい召し物だと感じた。
浴室から続く長い廊下を歩き、彼女が待つ居間を目指した。
廊下の曲がり角を曲がると、明かりのついた一部屋が視界に入り、その部屋に面する廊下から外に向かって足を伸ばす彼女の姿があった。
「どうぞ、隣に座ってください」
僕が近づくと、彼女はそう言って自分の左隣に座るようにと左手で床を叩いた。
僕は無言のままそっと彼女の左隣に座った。
「悩み事。私でよろしければ、相談に乗りますよ」
そう僕に語り掛ける彼女を僕は横目で目視した。
僕は少し体勢を前のめりに変えた。
「……家族と、また離れ離れになったんだ」
「……」
彼女は少し驚くように息を呑むが何も口を挟まなかった。
僕はそのまま話の歩を進めた。
「ある日、黒っぽい制服に身を包んだ数人が家に押し寄せて来て、僕は家族を守ろうと必死に叫んだ。だけど、連中の目的は当初から僕だったらしく、ちょっとした隙に眠らされて、気が付いたら、僕は暗い牢獄の中にいたんだ」
恐怖という鎖に繋がれた戒めの過去を掘り返し、僕はほんの少しの出来事で暴走してしまいそうな程、荒ぶる感情を今は押し殺して語り聞かせた。
「姉ちゃん、僕怖いんだ。周りにいる奴はみんな怖いし、何より今の状況を呑み込めていないことが怖いんだ!!」
俺は必死に歯を食いしばり涙が零れるのを抑えた。
年月の数だけ成長できたと思っていたが、根本的なところはまだまだ子供であったと我ながら呆れた。
泣き言を履き捨てるためだけに夢に世界を訪れたのかと、自分が惨めに感じた。
今も隣に座る彼女には呆れた表情をされていると自分を嗜めた。
どんなに自分を蔑み律そうとしても、心底に積もる本音を吐き捨てる場所はどこにもなかった。
どこにもないからこそ僕は夢に縋った。
誰もが楽しく暮らすこの世界に、こんな穢れた土産話を持ち出した自分は罪人だと感じた。
僕は額を上げることができなかった────
語り始めると自分の体は迫り来る恐怖で震えていた。
瞼を強く瞑り必死に堪えた。
だが、そんな必死になって強がりを演じる僕を彼女の片手はそれを本懐させた。
頭部に伝わるのはか細く華奢な手の温もり。
その手は僕の頭部を擦り全身の毛が逆立った。
同時に自然と安心感が溢れて来る。
不格好な黒毛から頭部に生える獣耳を優しくなでられ、僕の体を縛り付けていた緊張や重圧は解けていった。
「この世の万物にはそれぞれ感情が存在します。それは、同種でなければ伝われないものもありますが、それでも皆、恐怖と呼べる感情は少なからず抱くものです。怖がることは恥ずかしいことではありません。私もこの家を初めて訪れた際には、怖くて一人でお花を摘みに行くこともできませんでした。ですから、私の前では思い切り泣いて下さい。楽しい話も辛い話も全部お聞かせ下さい。私は貴方様とこうして会話ができることが何より嬉しいのですから」
彼女の優しさに触れ僕は自然と頬を伝う滴の感触を得た。
それは止め処なく流れた。
僕は彼女の目を憚らうことなく泣き叫んだ────
外の雨脚は強まり、僕の泣き声は雨脚に掛け消される程弱いものだった。
それを知った途端、自分のちっぽけさを実感した。
しばらくして雨が止むと、敷地には散った桜の花弁が無残にも地に落ちた様子に心を痛めた。
だが、雲間から差し込む日差しが作り出す巨大な虹の光景を見た途端、自分の気持ちはどこかすっきりしていた。
「またしても、私の感になっていまいますが、恐らく今はアテル君にとって試練の時なんだと思います」
「試練の時?」
「はい。神とはとても気まぐれで、時に万物に対して試練を与えます。そして、その試練を乗り越えた者には現世を旅立たれる際に、この地へ招く習わしがあります。その試練が今なのだと思います。ですから、この試練を乗り越えられなかった時は、今後二度とこの世界に辿り着くことはありません」
「……ッ!?」
その言葉に僕は息が詰まった。
今こうして彼女と会話ができていることが、全て幻となってしまうことが僕にはたまらず息苦しかった。
そして、僕は今ここに決意を固めた。
「分かった……その試練、必ず超えてみせるよ」
目の前に掛かる虹に希望を託すようにして僕はそう強気な誓いをここに立てた。
僕は自然立ち上がりゆっくりと歩を進めた。
「そろそろ行くね」
もうすぐ夜明けを迎える────
「また、お会いできる日を気長に待っています」
彼女はそう言って僕にいつもと変わらない笑顔と勇気を与えてくれた。
視界は輝きに包まれ、僕はひと時の幻想から目を覚ます時を迎えた。
◆◆◆ NEXT ◆◆◆
時の流れとは長いようで短い────
幻想の地、桃源郷ではどのように時の流れを感じ人々は生きているのかと興味を誘われた。
そんな、愉快感に誘われて来れるほど、ここは容易な場所ではない。
それでも、今こうして目の前に広がる花弁の開花が咲き乱れる風勢は、実に2年の時が経とうとも忘れることはなかった。
僕は高鳴る好奇心に身を任せ、視界に微かに映り込む屋敷を目指した。
敷地の中からはいつかの日を思い出させるかのようにほうきで砂利を履く音が聞こえた。
敷地の境界線に立ち見つめると、そこには全くもって変化がなく、だがそこに安心感を覚える程の異才を放った狐耳の少女の姿があった。
いつものように鼻歌を歌い、仕事の邪魔にならぬように長い髪を一つに縛り、袖もきつく縛りたくし上げていた。
「ミツハお姉ちゃん!!」
僕は高らかに彼女の名を叫んだ。
普段聞きなれない自分の名前の呼び方に彼女は肩をぴくりとさせ、ゆっくりと焦点を僕の方に合わせた。
「……アテル君!!」
彼女も僕の名前を高らかに叫んでくれた。
僕は彼女のもとに走って駆け寄った。
駆け寄ったことで改めて再認識したのが、さらに身長差が生まれたことだった。
「姉ちゃん、また縮んだ?」
「縮んでません!!アテル君が大きくなりすぎです」
僕は小さく感じた彼女をつい持ち上げしまった。
そして、少しばかり皮肉を口にすると、子供のように頬を膨らませ、僕の手で高く宙に舞っている最中、手を上下に振り駄々をこえるように暴れた。
僕は駄々をこねる彼女をそっと地面に着地させた。
「また、会えましたね」
「うん、会えたね」
僕自身自然と笑みを溢しているのが分かった。
夢の中とは言え、こうしてまた彼女とひと時の時間を過ごすことができたことが何よりも嬉しかった。
彼女の仕事を少しばかり手伝い予定より早い休憩に入った。
「実はね、ちょっと嬉しいことがあって」
「嬉しいことですか?」
「うん。実は、また陸君と出会えたんだ」
「本当ですか!?」
僕の命を救ってくれた恩人とも言えるべき人に僕はまた再会を果たしていた。
これが、試練を乗り越えた者の先に待つ幸福なのだと再認識した。
思い返せば────
僕がまだ子犬であった頃に、彼とその姉は僕を保護してくれたことから、僕の人生はスタートしたとも言える。
幼い時に彼と遊んだ日々は僕にとっての宝物だった。
だが、そんな日々を崩壊させるかのように人間達の都合により、僕は家族と分離された。
僕がこの地で覚悟を決めた後、まずは自分における状況の整理から行った。
その結果、僕は警察犬と呼ばれる特殊部隊の候補生として、家族と袂を別ったのだと理解した。
怖い先輩や過酷な訓練は毎日続き、これが自分に与えられた試練であると再認識させらた。
一度の成功と無数の失敗を重ね、僕は晴れて警察犬の一員として認められた。
そして、その先に待ち受けていたものこそ、僕を追いかけ警察としての道を志し、成し遂げた陸との再会だった。
これは、神が住まう世界に赴いたことがある僕だからこそ言えたことだが、本当に神は万物の運命さえも握っているのだと頬を緩ませた。
「まだ、仕事でドジ踏むこともあるけれど、それでも何とかやっていけてるよ」
「アテル君変わりましたね。なんだか、一皮むけたような気がします」
「そうかなあ?」
自分ではあまり自覚がなかった────
けれど、今の自分がこうしてあるのは、今僕の目の前で微笑む彼女の存在があってこそだった。
だから、今日僕はこの言葉を彼女に送りに来た。
──ありがとう、ミツハお姉ちゃん
こんな一言では足りない程のものを僕は彼女から貰い受けている。
それこそ、一生言い続けても足りな程に────
僕は、彼女のことを愛していた。
そして、いくつ歳を重ねてもずっと彼女を姉といて呼んでいたいと思った。
そんな些細な夢物語を今は糧にして僕は現世を生きている。
僕の一言に、彼女は今までと変わらず、ただ優しく微笑んだ。
たったそれだけのことではあるが、それが何よりも僕には救いだった。
今日もこの世界では敷地内に桜が咲き誇り、そして咲き乱れている。
万物の一生が、その花弁が木の枝から地に落ちるまでの僅かなものであったとしても、ミツハという少女は、その花弁一つ一つに手を差し伸べ拾い上げる。
僕もその花弁であったことを嬉しく思い、彼女の優しさに敬意と敬服を捧げる────
春の穏やかな陽気が僕の瞼を重くさせる。
そして、瞳の奥から聞こえるのは、僕に生きる救いの一手を差し伸べてくれた青年の声だった。
「ごめん、もう行かなきゃ。また、来るよ」
隣に座る彼女に僕はそう告げた。
「はい、またお話聞かせて下さいね」
「うん」
いつ消えてもおかしくない幻想の世界。
二人で交わした“また”とは、一体いつ迎えることになるのか朧げな話だ。
それでも、僕達はまたこうして会えることを信じて、お互いの現実へと戻っていくのだった。
それこそが、今の自分を自分たら占めるものであると分かっているから────
◆◆◆ NEXT ◆◆◆
光は終局し、視界は白紙となった。
その先にある光景は、慣れ親しんだ友の匂い。
「おはよう、アテル。今日も仕事がんばるぞ」
彼が少し瞼を擦りながらそう告げる。
僕はその顔を舌で舐め、彼の眠気を覚まさせると共に、今目の前にいるものが形のある現実であると認識するためでもあった。
「おい、こら止めろよ」
彼の頬を舐めて甘える。
これも僕が安らぎを覚える、ひと時の時間だった────
そして、僕は昇る朝に向かって吠えたのだった────
初めて短編小説を書いて見ました。
今後もこう言った形で短編小説の方を手掛けていけたらなと思っています。




