宙を舞う左腕と地下空間の魔女
「待って!! ……やだッ、やめてぇ!!」
「うおぉおああああッ!!」
ゼーマンの容赦ない一振りが逃げようと背を向けたロクサーヌの右肩を掠める。
衝撃と痛みで水浸しの石畳を転び、尻餅をついた状態で後退った。
そんな彼女に殺意を剥き出しにしたゼーマンが追い打ちをかける。
何度も何度も彼女に向けて斧を振るい、その内の一撃が脇腹を抉った。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!! ……誰、か。誰かぁッ!!」
「死ねぇ! ロクサーヌゥ!!」
四つん這いになりながらも必死で逃げる。
突然の状況で追い詰められたロクサーヌは、今となっては地面を這いずる虫のように命乞いと断末魔を上げることしかない。
「助けて……誰かぁッ!」
傷の痛みと流れ出ていく血液、そして雨によって起こる低体温。
死を孕んだ絶望がロクサーヌを徐々に追い込んでいった。
(いけない……意識が、朦朧と……)
フラフラになりながらもなんとか橋の真ん中あたりまで来た。
ゼーマンは扱い慣れない斧と雨で滑ることに悪戦苦闘し、何度か転びながらも迫ってきているが明らかにペースは落ちている。
このままこの王都の守りを司る衛兵の元まで行こうとした。
だが、そこで観たくもない汚らわしい存在が立ちふさがる。
「……カルラータ……まさか、アナタが」
「アンタがいけないのよ? ……アンタが私と同じ時代に生まれてきたからいけないの、よぉッ!!」
カルラータが両手に持っていた棍棒を振り上げ、そのままロクサーヌの頭部を力強く叩く。
「がっ!?」
頭から血が噴き出て一気に身体から力が抜けていく。
まるで輪舞のようにフラフラと後ろによろめいた。
世界がグルグル回っている。
視界が度々ぼやけ、今自分が立っているのか倒れているのかすらもわからない。
そして、自分の後ろから声が聞こえる。
愛してやまないあの人の声。
だがそれは憎悪と殺意に満ちた雄叫びで向かってくる。
視線を後ろに向けると、今まさに自分の首目掛けてゼーマンが斧を振ろうとしていた。
「うぉおおおおッ!!」
「……や、め……て」
ロクサーヌは斧を防ごうと咄嗟に左手を差し出した。
それに驚いたゼーマンが足を止めそのまま斧を振り抜いた。
――――バキィッ!!
狙いを外した斧はロクサーヌの左腕をまるで木こりのように刈り取ってしまった。
血飛沫をあげながら左腕は宙を舞う。
叫び声はあげなかった、否、あげられなかった。
突然自分の腕が消えた。
この受け止めがたい現実に意識と理解がついてかず、そのまま横へ倒れそうになる。
だがこの瞬間をカルラータは見逃さず、トドメの一撃たる横薙ぎをロクサーヌの脇腹へと見舞った。
「死ねぇえええッ!!」
「ぐはッ!?」
メリメリと音をたて勢いよく橋の欄干までよろめく。
そして……――――。
「……ぁ」
勢いで身体が欄干を乗り越え、そのまま激しい流れの川の中へと転落していく。
打ち付けるような水飛沫の音は大雨と川の流れの音に紛れ、小さく響いた。
「……やったか?」
「えぇやったわ! 私達魔女を倒したのよ!」
愛の力だ!
ふたりはそう言って抱きしめ合った。
雨の中の抱き合うふたりは互いに甘美な時間を味わう。
最早この土砂降りでさえもふたりの中を祝福するファンファーレに聞こえた。
ゼーマンとカルラータは手を取り合い自分達の愛の巣へと戻っていった。
最早この王国の大半を掌握した彼女なら情報操作もお手の物。
悲劇の女優としてロクサーヌは歴史の影へと沈みゆくのだ。
そうほくそ笑んでやった。
あの橋から大分離れたとある地下水道。
汚染した水質とドブネズミのたまり場。
薄汚い臭気を漂わせる石造りの空間。
流されてこの場所に辿り着いたロクサーヌ。
最後の力を振り絞り、なんとか陸に上がれたがそこは地獄へと通ずる地下の道。
半ば死人の足取りでこの空間を彷徨う。
暴力と川の流れで着崩れた衣服からは痛めつけられた痕がくっきりと残る肌を露わにし、顔からはあの輝きに満ちた表情は見られない。
――――なぜこうなったのだろう?
――――私は彼を信じていた、裏切ってなどいなかったのに。
――――ずっと彼の為に尽くしてきたのに。
――――なぜ魔女と罵られこんな仕打ちを受けなければならなかったのだろう。
ぼんやりとする意識の中、ふとそんなことを考える。
だが考えても考えても納得のいく答えは出ない。
地下の温度は寒く、雨や川で濡れたこの身体にはかなり響く。
なにより左腕を失い、そこからまだ血が出ていた。
こんな衛生もクソもない場所にいたら確実に病にかかって死ぬ。
いや、それよりも腹をすかせたドブネズミ達に喰われて……。
「もう、いや……もういやぁあ……ッ!」
壁にもたれかかるように座り込み、泣き始める。
一気に地獄へと堕とされた彼女に待ち受ける病原菌とドブネズミ達。
彼奴等は精神的にも肉体的にも弱り切ったロクサーヌを見て舌なめずりしながら寄ってくる。
ロクサーヌは死を間近に感じながら先ほどの出来事を思い出す。
「許せない……私を、裏切って……ッ! 呪ってやる、お前等諸共私が地獄へ引きずり込んでやる……道連れにしてやる……ッ!」
獣のような唸り声をあげ、地上に向かって呪詛を吐く。
そして息を止めギュッと目を瞑った。
覚悟を決め死を受け入れようとした、――――そのとき。
「ハァイ、調子いい? ……――――ワケないか」
声が聞こえた。
女の声だ。
この地下空間の通路の向こう側。
そこから確かな足音を響かせこちらに近づいてくる。
「Oh……、今まで出会ってきた中で一番グロテスクだなオイ。……こんなとこに座ってたらドブネズミの餌になるか破傷風やらで死ぬぞ?」
薄暗い空間が少し明るくなった。
視覚的にも空気的にも。
ロクサーヌは混乱しつつある意識でしっかりと女の方を見る。
褐色の肌に銀色の髪、銀色の踊り子衣装の若い女だ。
艶美な曲線、抜群のプロポーションからなるエキゾチックな雰囲気は男女問わず見る者を魅了する。
だが、外見的美しさ以上にこの女から感じられるのはもっとなにか悍ましいものだった。
ロクサーヌの本能が告げる、この女は……ッ!!
「ひぃいッ! 化け物ッ!!」
「待てやッ!!」
女が叫ぶやズカズカと歩み寄り、ロクサーヌと目線を合わせるようにしゃがむ。
「そう邪険にするもんじゃねぇぞ? ……このまま死んでいいのか? このままオレを追っ払ってドブネズミ共の餌になって死んでいいのか? ん?」
「な、なにが……言いたいの?」
女が嗤う。
まるで初めからこれを言うのが目的であったかのように。
「カルラータとゼーマンに復讐したい。……それが今のアンタの望みだろ? ……叶うぜそれ。このオレちゃんが来ちまったからなぁ?」
この奇妙な出会いにロクサーヌは恐怖を感じたが、それ以上に抱いた"期待"が彼女の胸の内を膨らませる。
即ち、生きる希望が湧いてきたのだ。
なぜこの女を信用しようと思ったかはわからない。
ただ彼女の瞳を見ていると自然とそう思えたのだ。
「話を……聞かせて? ……えーっと」
――――全てはここから始まった。
「オレの名は"アルマンド"、報復と慟哭を司る魔女だ」