渓谷の夜を越えて
「……さて、大分痛めつけられたかしらね」
ロクサーヌに踏みにじられながらボロ雑巾のように倒れ伏す黒魔術師の姿があった。
暴力の度に何度も回復を強要され、魔力も底をつく。
体中に刻まれた傷と痣は回復されることなく放置されたままだ。
なんとか意識を保っている黒魔術師にとって人間に踏みにじられるというのは最大級の屈辱だ。
地面に顔をこすりつけ、滲み出る血で濡らしながら歯を食いしばる。
「ぐう……貴様、こんなことをしてタダで済むと……ッ!」
「恨むならカルラータを恨みなさい。……もっとも、もうそんなことすら出来なくなるでしょうが」
「どういうことだ?」
鈍いわね、とロクサーヌは鼻で笑い踵を返す。
そしてベルジュラックに最後の指示を与えるような動作で手を振った。
「じゃあクイズをしてあげるわ。……ベルジュラックの左手がないのはなぜでしょう?」
ベルジュラックの方に目を向けると、今まで止めどない暴力のせいで気づかなかったがベルジュラックの左手……手首から上がまるで斬り落とされたかのようになくなっている。
黒魔術師はまだ機能するその頭脳を働かせる。
奴は左手がない?
切り離したのか?
なぜそんなことをする必要がある?
思考を巡らせていく内に"あること"に気付く。
それは常人では決して辿り着けない恐ろしい結論。
彼女が唐突に振り向き答えた。
心底当たってほしくなかった正解。
「……――――ベルジュラックの左手は今アナタの脳を掴んでいる」
一気に冷や汗が噴き出て体中の体温が急激に低下していくようだった。
殴られた痕で痛みはあるが、掴まれているなどという感覚はない。
体内。
それは光が差すことがない生命脈動の聖地。
頭蓋骨に堅牢に守られた自分の脳は今、目の前の化け物の左手が体内の暗闇に紛れ忍び込み……。
「ま、待て……脳を、我が至高の頭脳を破壊しようというのか!?」
「わる~いことを考えるイケナイ脳みそなんてない方がいいでしょ? 大丈夫、アナタのような人は殺すより生かしておく方がずっと拷問になるから死なない程度にするわ」
右手の親指と人差し指を立てて、人差し指の先端をロクサーヌは自身のこめかみに当てる。
やや悲しさを含んだ憎悪の微笑みは何千年と生きた女型の魔物のように美しかった。
カルラータの野望から産み落とされた憎悪の結晶、裏切られた愛に対する激しい感情。
今のロクサーヌの心に満ち満ちているのはまさに化け物染みたドス黒さだ。
「やめろ……ッ! 儂の頭脳を奪うなど……待て、早まるな!」
黒魔術師は乞食のようにロクサーヌに許しを請うが、彼女は悍ましい表情を保ったままこめかみに当てた人差し指を彼の頭の方に向ける。
「フフフ……」
「ひぃッ!! やめろぉ! やめてくれッ!! 嫌だ! 壊れた脳みそで生きるのは嫌だぁああああッ!!」
しまいには子供のように泣きだしてしまう。
だがそれを面白がるように彼女はついに――――。
「BANG!」
彼女の声と共にグチャグチャという音が黒魔術師の頭蓋の中で響く。
あれほどやかましく叫んでいた黒魔術師は時間が停まったように硬直したかと思えば、そのまま虚ろな表情で倒れこんでしまった。
「あー……ぅぁー……、ぅー」
最早呪文はおろかまともに喋ることも立って歩くことすらもままならない姿になる。
かつての威容は消え果て、復讐によって脳を破壊された元魔王配下は、黒魔術師としての生涯に幕を閉じた。
コイツはこのまま放置する、死ぬまでずっとわけのわからない世界にいるのがお似合いだ。
「まずは1人ッ! ……次は誰にしようかしら」
薄ら笑いの中で鋭く光る眼光が未来を見据える。
残るはゼーマン、そしてカルラータ。
自分が味わった苦痛と屈辱を与えなければ気が済まない。
この復讐こそがロクサーヌの生きる輝き。
「フフフ、さぁ行きましょうベルジュラック。もうこんな場所に用はないわ」
左手を元に戻したベルジュラックは再び彼女の左腕の断面へと戻る。
高笑いをしながら隠れ家を後にするロクサーヌは次の復讐を考えた。
どちらも憎い、思い出すだけで腸が焼け落ちそうなくらいに。
カルラータは祝宴の日に殺すと決めている、ではゼーマンをどうするか。
祝宴の日の前か、それとも後か。
どちらにしても楽しみでならない。
渓谷を覆う暗闇は一夜の蛮行を更に悍ましいものに変えてしまった。
復讐と憎悪は暗闇に紛れて王都へと引き返す。
渓谷で起こったこの惨状を知る者は、この世の終わりまで誰にも知られなかった。




