駅に着く。この世界に憑く。
練習用に書いた短編です。本来はもっと長い内容を想定して起草しましたが、練習用ということでその一話目のようなものだけを書きました。それゆえ、なぜ運転上手であるはずのタクシーに轢かれるのか…などなど、ストーリーや辻褄が述べられていませんが、それゆえ特有の不思議な感覚を、楽しんでもらえれば幸いです。
あの日はやけに雨が降っていた。
電車のつり革に体を支えながら、どんよりした香りをすする。
涙のように流れ落ちる雨。ピーマンの種のようにびっしりとついた水滴が窓を覆う中、私はその奥に流れる景色に目をやっていた。
すいすいと移ろう家々。どれも最近建てられたものなのか、ひどく無表情な顔を並べていた。
ぼこんと泡が鳴ったような錯覚に陥って、ふとスマホを取り出す。日付は6月15日金曜日。仕事の予定が永遠と書かれたカレンダーを、小さい文字を見るかのように眺めて一気に、真っ白にした。
***
そう。この日が私の命日だった。
目元に大きな影を浮かべて、バケツをひっくり返したような雨の中を、必死に傘で身を守っていた。
猛烈な雨の匂いが私を睨み、逃げるように目を車道に移していた。
ビニール傘の骨組みの間に見えた男の子――
気が付けば私は彼を追いかけるように道路に飛び出していた。
気が付けば傘は風に手を繋がれたように運ばれていた。
後ろに結った髪が、雨で濡れてざわざわと揺れていた。
体が熱い。
雨で濡れてるのに…なんで?
あぁ。
そっか、私、轢かれちゃったんだ。
高性能のヘッドフォンをつけたように鮮明な雨音が、ただ聞こえていた。お腹からにじみ出た赤い色素が、絵の具のように周りの水たまりに溶けていった。点滅して私を無慈悲に照らしていた信号は青から赤に変わって、そこに居座り続けた。私を轢いた車は、真っ黒なタクシーで、タクシーの顔には大きなへこみができていた。
ナメクジほどにも動かない体。
これは、私、死んじゃったかもなぁ。
私が突き飛ばした男の子は、雨でびしょびしょになった顔で、なんだか右往左往しているようだった。その体に怪我はなさそうだった。
その姿を見てしまったからなのかもしれない。花瓶を落としてしまった時のようにあっけなく、体は生と死の敷居を超えてしまった。
***
なのに。
「ねぇ。雨漓はあれ行くの?」
釣竿に魚がかかった時のような、一瞬の間を持って現実に引き戻される、そんな心地がした。
「え?何?」
声をかけた彼女はまるでカーテンの隙間から覗くみたいにじっとこちらを覗いていた。
「ほら、そろそろ6月15日の世界線が来るでしょ?私はもちろん行くけど、あんたらどうすんの?」
「あー、俺は止めとこうかなぁ」
乾いた声が聞こえた。
「え!?嘘でしょ、あんたは絶対行くと思ってたわ」
その男はあぐらをかいて後ろに手をつき、伸びた服を風に漂せながら、星を見るかのように上を向いた。
「だってさぁ、死ぬことが分かってんだぜ?もう一回あの痛みを味わいたいほど俺はどエムじゃねぇって」
「あれ?あんたって何で死んだんだっけ?」
彼女が蛇のような目でその男を見ていた。
「……スケボーで失敗して道路に飛び出たらそのままトラックだよ」
「ぶははっ、いやーなんど聞いてもうけるわ。なんでそんな交通量多いとこでスケボーなんかしてんの?」
「は?お前、俺の同士がいくらいると思ってんだ。そいつら全員の前で同じこと言えるんか?」
風が永遠に葉をゆするような、そんなからかいが繰り広げられる。
「てか、そういうお前は何で死んだだよ?」
「ん?それは秘密」
綿飴みたいな、にやっとした笑顔に、綺麗なえくぼが咲いていた。
誰もがその愛嬌のあるえくぼに目が行く中、私は彼女の目に一瞬影が宿ったのを見逃さなかった。
なんだよそれ、俺だけ損してんじゃねぇか、そう呟いたその男に一目もくれず、彼女は私に目をやった。
「まぁ、一日だけだけど、悪いもんじゃないって、絶対。こんなつまんないところに埋もれてくよりかは、多少痛くても家族に会うなり友達とはっちゃけるなり、思い残したことしたほうがいいって」
彼女の肩まで伸びた髪が、頬ではさんで片足だけ立てた膝に乗っていた。顔を斜めに、私を見る目にドキッとして、不意に視線をずらすと、空いた谷間に目がいって、さらにドキッとした。
「玲奈さんはこれで3回目なんだよね?」
思わず声を投げかける。
「そだよ」
「……そっか。やっぱり、楽しい?」
「そりゃもちろん。一周目は電車遅延させてみたりとかさ、もう~一度やってみたかったんだよね」
彼女の人差し指がピンと上を指す。
「遅延ってお前、そんなんで良く審査通ったな」
その男は、顔に呆れを灯して、オーバーなニュース番組を見るみたいな目で彼女を眺めていた。
***
私は相変わらず電車にゆられている。
湿きった空気を吸いながら、真っ白にしたスマホのカレンダーを眺めていた。頭の中で、真っ白のそのカレンダーをスクリーンにして、映ったそんな記憶をかいくぐりながら、画面に何度も指を滑らせていた。
午後2時13分。この世界線の私の「寿命」まで後4時間を切っていた。
新築の家が立ち並ぶ光景が、畑や木造家屋にすり替わった。席はまばらに空き始めたけれど、私は足を休めることはしなかった。
アナウンスが流れる。機械音声が駅の到着を告げる。
電話の着信音をミュートにして……思い切って電源を切った。ぶちりと携帯が悲鳴した。
ぷしゅーと扉から漏れる音がすると同時に、私は一人、雨で床が濡れたこの駅に足を踏み入れた。車内よりももっと湿った生暖かい風が鼻を睨み、私は逃れるように、私から離れていく電車の後ろ姿に目を縫い付けていた。
改札を抜け、傘を差す。雨が傘に当たって音を立てる中、私は一直線に歩き始めた。その歩みに迷いはなかった。
駅に着いた。この世界に憑いた。
もし、もう一度最後の日をやり直せるなら、ずっと行きたかった場所があった。これは、私があの日をやり直す物語――