その10 どの面あげて
「今度はホントに写真撮らせてよ。……どう?」
屈託の無い笑顔というのは、今の先輩の表情を言うのだろう。なんていい顔で笑うんだろう。なんて見る人を和ます笑顔なんだろう。
でも……。
どうして……。
どうしてこの人は、こうなの?
どうして、こうも的確にわたしの急所を直撃してくるの?
「試験が終わったら……」
言おうか言うまいか悩んでいたこと。結局言うのはヤメにした、「あの人」のこととか聞く元気をなくした原因。
試験が終わったら……。
「……ですか」
多分聞き取れないだろう声を出して、ふたたび俯くわたし。昨日の家での出来事が脳裏をめぐる。
「うん、どうかな?」
もう耳に入っていなかった。頭の奥のほうが痛み出す。
「試験が終わったら……」
話しておきたかった。でも話せなかった。こんなことホントに話したら引かれちゃう。だから関先生にだけ言って、伝えてもらおうと思っていたのに。
一瞬にして落下した。先輩の笑顔があまりによかった分だけ、それについて行けずに、
……堕ちた。
広げた指の間で、先輩の姿が見る見るうちに小さくなっていくような、そんな感覚。海面に打ちつけられても、なお落下は止まらず、
……沈んだ。
怒りや悔しさ、悲しさといった負の感情がないまぜとなった、暗く深い海の底へと。
(来られないんです。試験終わったら、わたし学校に来れないんです)
言えない。言いたかったけど、言えない。こんなこと、どうやって話せばいいの?どうやったら理解してもらえるというの?
全身の毛穴から、じわりと何かが侵食するかのように染み込んできた。そしてそれは、一気に目元に集まり、熱を帯びて視界を歪ませる。
(ダメ! こんなところで)
人前で泣くことを、弱さのように感じていた。泣かないことが強さの証明であるかのように思ってきた。
それは大きな勘違いでしかなかったのだけれど。
そしてわたしは強くもなんともなかったのだ。痛いほどに強くつむった目から涙が零れ落ちた。手の甲で少しはねる。こらえきることができずに走り出した感情は、もう止まらない。
「うっ……くぅ……」
どうしようもなくなっていた。ついには嗚咽をもらす。先輩は肩をふるわせいきなり泣き出したわたしを見て、あわてふためく。
「ね、ねえ。どうしたん? なんか悪いこと言った? ねえ」
わたしはかぶりを振ることしかできず、不器用な泣き方を先輩に披露するという失態を演じるだけだった。
目の奥が痛い。しゃくりあげながら鼻水を手の甲でぬぐう。ハンカチを出すことにさえ気が回らなかった。あとから考えればあまりに恥ずかしいことだけど。
「……」
先輩もかなりパニクっているようだ。
「ねえ」
と、続きが思い浮かばないのか、同じ言葉で繰り返しわたしに話しかけるのだった。
「ねえ……」
四度目の続かない問いかけをしたあと、先輩は大きくため息をつく。図書室はわたしの可愛くもないうめき声で充満するかも知れない。窓の外、一羽の鴉がけたたましい鳴き声をあげ、屋上から何処かへと飛び立った。
と、そのときだった。
「ジン!」
泣きじゃくるわたしとおろおろする先輩の間に、突然の雷鳴のように、どこか聞き覚えのある声が響いた。
「なに女の子泣かせてんのよ!」
「えっ、いや……俺はなんにも……」
一瞬、肩がびくっと震えたけれど、わたしはそのまま自己憐憫と自己陶酔の世界から動けずにいた。先輩を弁護するべきだったのに。「違うんです。」と言うべきだったのに。
わたしはなんて自分勝手なのだろう。なんて自己中心的なんだろう。いつもいつも、他人をこれで振り回す、嫌なヤツ。
声の主は先輩を突き飛ばすようにして、わたしの傍らに近付いてしゃがみこんだ。わたしの肩に手を置き、覗き込むように聞いてくる。
「どうしたの?こいつになんかされた?」
わたしは何処か遠くでその言葉を聞きながら、その人を見ることもできず、なんとか首を振ることでそれに答えた。
「なんかひどいことでも言われた?」
またかぶりを振るわたし。内側に折れ曲がってしまうのではないかというくらい、肘に力が入っている。少し痛い。
「ちょっ、ちょっと待ってくれよ。俺、何にもしてないってば!」
声の主が先輩をにらんだのだろう。さらに先輩があわてふためいている。
「なに言ってんのよ!泣いてんのよ。あんたがなにかしたに決まってるでしょ」
その人は、ことのいきさつを無視して、先輩の弁解を一蹴する。
「大丈夫?立てる?ここじゃなんだから、あっちへ行こう」
腕をとられ、わたしは抵抗することもなくそれに従った。
「どうしたの?」
さすがに騒がしかったらしい。関先生が司書室のドアを開け出てくる。
「いえ、なんでもないです。すみません。ちょっと、この子が気分悪くなったみたいで」
「えっ、大丈夫なの?」
「ええ、大分落ち着いてきたみたいなんで。すみません。うるさくしちゃって」
「タカハシさん?大丈夫?保健室に行かなくてもいい?なんなら連絡とっておこうか?」
小刻みに首を振ることで、わたしはその必要はないことを訴える。これ以上ことが大きくなったら、恥ずかしさを通り越し、自己嫌悪が自己憎悪に変わってしまうかもしれない。
「すみません、先生。ちょっとテーブル席、お借りしますね」
「わたしもいたほうがいいかしら?」
「いえ、大丈夫です。ほんと、すみません。お騒がせしました」
「そう。なんかあったらすぐ呼んでね。それと、あまりおそくならないようにね」
「ありがとうございます」
わたしの肩を抱くようにしたその人は、半ば強引ながらも、先生に不干渉を認めさせることに成功し、テーブル席を三者協議の場として確保した。
そして関先生が司書室に戻るのを確認すると、
「ほら、あんたもこっち、座んなさいよ。なにしてんの!」
と先程とはうってかわって、先輩に向かって有無を言わさぬ口調で言い放ったのだった。
先輩が渋々といった感を全身で表しているのが、その気配でわかる。
「ごめんね。おせっかいしちゃって」
とその人は耳元で優しく囁いて、わたしを先輩の正面に座らせてくれた。この間、わたしはこみ上げてきた吐き気を我慢するので精一杯で、なにがどうなっているのかなんて判断することも、ましてや、今自分に優しくしてくれているこの人が一体誰なのかさえ、考えることもできなかった。
何分たったのだろうか? 吐き気もかなり治まり、眉間とこめかみあたりの痛みもひいてきた。鼻の奥のほうはまだ少し痛いけど、もう十分楽になってきた。
ようやく、しばたかせながら開いた目に映ったのは、膝の上で握った自分の手の甲に、まだ乾いていない涙と鼻水。
(うわっ! ……あれ?)
いつのまにか、見知らぬハンカチを握り締めていた。
(誰の?)
そして、柄を見ようとしたときだった。
「どう? 少し落ち着いた?」
先ほどの優しい人だろう。このハンカチもこの人が持たせてくれたのか。
わたしは、その声にピクっと肩を少し震わせてしまうという、なんとも失礼な反応を見せてしまったことを恥ずかしく思いながら、まずはお礼をと、今の自分の顔がどうなっているかも忘れて顔をあげた。いや、あげかけた。そして完全にあげる前。
(えっ?)
多分はれぼったくなっているであろう、そのみっともない目が、先輩の横に座る人物を捉えた瞬間、わたしは慌てて、顔を下に向き直してしまったのだった。
(ええっ? なんでえ?)
顔を上げる機会を自ら放棄してしまい、わたしはしばらく、怒られている子供さながら、俯くしかできなくなってしまったのだった。
「もうちょっと、落ち着いてからでもいいからね」
おだやかな声で小峰先輩が話しかけてくる。
(優しい人だったんだなぁ、やっぱり)
そんなことを感じながらも、お礼を言うことにすら頭が回らない。それどころか、ほぼ全体のいきさつを思い出してしまったわたしは、せっかくおさまってきた顔の充血が、今度はあまりの恥ずかしさのあまり、もう一度ぶり返してきたことに気を取られるばかりだった。
(サイテーだぞ、わたし!)
それにしても、「どの面下げて」とは言うけれど、今のわたしはまさにそれ。
ちょっと向きが違うだけ。
(どの面あげればいいのぉ~?)




