その1 静まれ心臓
「あれっ?」
図書室に入るなり、先輩が頓狂な声をあげる。この人はいつもそうだ。
「疲れた疲れた」とか「あー、だりい」とか、かならず「今日の一言」とともに入ってくる。
そして司書室で本を読んだり、司書の先生と話をしながら時間をつぶす図書委員の先輩。写真部所属。部活がないときや、写真のテーマに行き詰ったときに、司書室に入り浸っている。
「こんちは」
わたしは無愛想とも受け取られかねない調子で挨拶をする。
「あれっ?」
いつもなら「どもー」とか言いながら司書室に一直線なのに、今日は入り口で立ち止まって、今日の一言をリフレインする。
「はい?」
カウンターの中にいるわたしを見ながら、先輩がわたしの前までやってくる。
「かみ……」
「はぃ?」
なんなの?
「あ、いや……、あの……」
先輩は周りをきょろきょろと見回しながら、頭をかきだす。他に誰もいない。
「ちょっと見で、珍しく他の子がいる、と思っちゃってさ。……髪型変えた?」
カウンターにひじをついて、小声で言う。
ああ、そのことか。
今日、わたしは髪を二つ結びにしている。寝癖が気になったので、結んでごまかしているのだ。ただそれだけのことなのに。正直に言うのもなんか悔しいような気がしたので、
「ちょっと気分を変えてみただけです」
とだけ答えた。
「ふーん……」
「なにか?」
頭をかく手をとめない。
「うーん、なんて言ったら、怒られないですむか考えているんだけどね」
この人にとってわたしは、すぐ怒る、気の短い生意気な下級生だった。それもわからないでもない。わたしが当番になって、初めてカウンターに入ったとき、
「いいねえ、やっぱり図書室のカウンターにはメガネっ娘だよね。うん、最強の組み合わせだ。」
と、いきなりからかってきた。
「そういうのははっきり言って嫌いです」
それに対して、その日の不機嫌さをこめて八つ当たりまがいにそう返してしまったのが最初。
冗談の通じない生意気一年生、というのがわたしに対する第一印象だろう。それがいまだに尾を引いている。それからというもの、この人の軽口に不機嫌口調で応じるというのが二人の間柄。
ただ、この人は楽しんでいる節がある。わたしはといえば、口調は不機嫌そうに、そして仏頂面を保ってはいるけれど、やはりどこかでこのやりとりを楽しんでいる。
わたしに積極的に話しかけてくれるのは、この人だけだったから。だから努めてにこやかに言葉を返す。
「わたしだって、いつも怒るわけじゃないですよ」
当たり前のことだが、とりあえずは言ってみる。
「いや、なんか目が怒っているもの。なんかあった?」
なにもない。しいてあげれば、期末テストが近付いていることぐらい。でもここは先輩の希望に合わせたほうがいいだろう。
「先輩に会ってしまいました」
「おぉっとー、やっぱり俺って嫌われてる?」
「はい。わかってくれているなら話が早いです」
「はいはい。わかりました、わかりました。嫌われ者は司書室に消えますかね」
お互い目が笑っているのがわかる。こういう会話ができる人は他にはいない。
「それにしても、俺の魅力に気付かないなんて、やっぱり君はまだまだだねぇ」
右手の人差し指を左右に振りながら、「チッチッチッ」と舌を鳴らす。
それに対しわたしは
「存在しないものを感じ取れと言われてもですねぇ」
と右手を振って「シッシッ」とする。
「それは堪えるからやめてくれ~」
笑いながら司書室のドアに手をかけ、半分ほど開けたところで、もうー度わたしに顏を向ける。
「あぁ、さっきのだけど……」
「?」
「実は俺さぁ、そういう髪型好みなんだよね。明日からもそれにしてくれる?」
「!」
なんで先輩の趣味に合わせなくちゃいけないんですか!
言おうとしたけれど、とっさに言葉がでてきてくれなかった。
「それと今度さぁ、写真撮らせてくれないかな。絶対、きれいに撮ってあげるから」
一度見せてもらったとても綺麗な風景写真。
不意打ち。やられた。不覚にも反応が素に戻ってしまう。
「えっ」
たぶん、顔にもでてしまったに違いない。熱くなってくるのがわかる。
「あ、あの」
静まれ、心臓。早まる鼓動。いつもの冗談に決まっている。ほら、うまく切り返さなきゃ。
「考えといてねぇ」
そのまま、司書室に滑り込む先輩。カウンターで一人、赤くなった顔を両手ではさむわたし。このときに、わたしは負けていたんだろう。いや、もっと前から負けていた。認めたくなかっただけ。
こうして、図書室で先輩を待つ日々が始まった。