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帰り道に助けた女子高生に懐かれた話

 コンビニでのバイトを終えた小鳥遊隼人は、自宅であるアパートへの道を歩いていた。


 時刻は夜の10時。繁華街であるこの場所では、様々な人がひしめき合っていた。お店の前で客引きをする者。酒を飲んで酔っ払ったのか、仲間とワイワイ騒ぎ立てている者。スーツを着て、どこか疲れたように肩を落としながら歩いている人。


 そんな人たちを横目に見ながら、隼人は近道をするべく表通りから裏道の方へとそれた。こちらは個人で経営している居酒屋が多く、表通りより客引きが少ない。去年酒を飲める年齢にはなったものの、そういう気分ではない隼人は早足で裏道を通り抜けていく。


 しかしその足は、近くから聞こえた男たちの声で止められる。それはちょうど、右手の曲がり角の先からのものだった。


「嬢ちゃん塾の帰り? ダメだよぉ、子どもがこんな時間にこんな場所に出歩いちゃ」

「いやいや、せっかくだから兄さんたちと遊んでかない? 高校生でもー酒飲める場所知ってんよー!」


 隼人は居酒屋の影からそっと様子を伺う。そこにはセーラー服を着た女の子を取り囲むように、大学生ほどの男が立っていた。女の子は二人に怯えていて、壁に背中を付けながら震えている。


「や、やめてくださ……」

「そんなこと言ってー! 実は誘われるの期待してたんじゃないのぉ? セイジュンそうに見えて、実はビッチなんてのよくあるしぃ?」


 二人は完全な酔っ払いだった。一瞬、関わり合いになりたくないという選択肢が隼人の脳裏をよぎったけれど、ここで彼女を放ってしまえば後の寝覚めが悪くなってしまう。


 周囲を伺ってみたけれど、裏通りには向こうの三人と隼人以外には誰もいなかった。店の中へ入って応援を求めるにしても、それは遅すぎるだろう。大学生ほどの男はもう、彼女の腕を握って強引に連れて行こうとしていた。


「ッチ……仕方ねーな……」


 隼人は大きく舌打ちをする。


 不本意だけれど仕方なく、彼女を助けるために男たちへ近付いた。彼女の腕を掴んでいる手首を鷲掴みにして、力を加えて強引に引き剥がす。


「いでっっ!」苦痛の声を上げた男を無視して彼女へ視線を送る。一瞬びくりと震えた後、すぐに二人から離れるように隼人の後ろへと隠れた。


 掴んでいた手首をようやく離すと、男は赤くなったそこに手を当てながら苦悶の表情を浮かべる。すっかり酔いは醒めたのか、突然の闖入者である隼人を睨みつけた。


「いってぇなぁ! 何すんだよテメェ!!」

「あぁ? おい、やんのかコラ。テメ、一応忠告しとくけど、早くどっか行かねえと警察来るぞ?」


 その脅しを間に受けた男は「おいおい、マジかよ……」と言って、顔色を真っ青にする。隣で見守っていたもう一人の男は大きく舌打ちをしてから「男いんのかよ……」と隼人へ恨みがましい視線を向けて、仲間と共に去っていった。


 裏通りには、隼人とセーラー服の女の子だけが残される。


「あ、あのっ……!」

「あぁ? なに」


 とてもめんどくさそうに頭をかきながら隼人は振り返る。自分より頭一つ分も小さい女の子は、その瞳に涙を溜めていた。


「た、助けてくれて、ありがとうございます……!」

「別に。他に人がいたらそいつに任せるつもりだったから」

「それでも、ありがとうございます……!」


 彼女は勢いよく頭を下げて、声を震わせながら感謝の言葉を口にする。人に頭を下げられることに慣れていない隼人は、まためんどくさそうに頭をかいた。


「あーあー、いいよいいよ。そんじゃあ、気をつけて帰れよ」


 それだけ言って、彼女から踵を返す。しかし歩き出してすぐに、服の袖を小さな手に掴まれた。


「あ、あの! 紺野こんのましろです!」

「あ、あぁ……そう……で、なに?」

「何かお礼をさせてください!」


 隼人が振り返るともう、ましろの瞳から涙は引いていた。代わりにその瞳には、すがるような色が浮かんでいる。


「悪りいけど俺急いでるし。そういうのも気にしなくていいから」

「私は気にしますっ!」

「じゃあ俺のために早く家に帰れ。気をつけてな」


 再び歩き出そうとするも、ましろは隼人の服の袖を掴んで離さなかった。そのまま歩いてしまうと服が伸びてしまうため、仕方なく立ち止まってもう一度彼女の方へと振り返る。


「んだよお前、俺の邪魔したいの?」

「そういうわけじゃ……」

「なら、俺に付きまとうのはやめてくれ」


 悪いとは思ったけれど、隼人は少し語気を強めた。見返りなんていうものは最初から求めていなかったし、そもそもましろを助けたのは気まぐれみたいなものなのだから。


 隼人は歩き出す。今度は服を掴まれたりしなかった。だけど裏通りには二人分の足音が響いていて、どうしたものかと頭をかく。


 とりあえず女子高生が夜にこんな場所をうろつくのはよくないから、繁華街から離れるようにして歩いて行った。


 それでもましろは隼人の後をぴったり付いてきたため、根負けしたとばかりに大きなため息をついて、わざとらしく大声で独り言を発した。


「あーあ、喉乾いたな喉。マジやべーわ。これ口内サハラ砂漠になってんじゃね?」


 歓喜の吐息が耳に聞こえてきたかと思えば、急ぎ足でコンビニへ入っていった。隼人は使われていない駐車場のパーキングブロックに腰を下ろし、ましろを待つ。


 そのまま逃げ出してもよかったのだけれど、自分を探してまた繁華街をうろつくようなことがあれば大変だと考え、ましろのお節介を焼かれることにした。


 砕けている駐車場のコンクリートを足先でいじりながら待っているも、一向にましろはコンビニの中から出てこない。


「おいおいどんだけ迷ってんだよ……んなのコーラでいいっつーの……」


 かれこれ十分ほどコンクリートをいじっていた隼人は、さすがに痺れを切らして立ち上がり、ましろのいるコンビニへ入っていった。


 ましろは飲料コーナーで散々迷っているのかと思っていたが、もうレジで会計を行なっているところだった。しかし、何やら店員ともめているらしい。


 隼人はチラリとましろの手に持っている缶の飲み物を見た。それは銀色のパッケージで、表面にアルコール分5%・お酒という表記がなされていた。


「だから、未成年の方にお酒を売ることはできませんって。あなた高校生でしょ?」

「違います! 私が飲むんじゃなくて、助けてくれたお兄さんが飲むんです!」

「じゃあ早くその人連れてきて」

「ダメです。お兄さんは今疲れて休憩してるので、お手を煩わせるわけにはいきません」

「はぁ……もう警察呼ぶからね」


 レジの店員がポケットからスマホを取り出したところで、隼人は慌てて二人の間に割って入った。


「あ、あのすんません! ほんとすんません! ツレが迷惑かけたみたいで!」

「ああ君がお兄さん? ダメだよー未成年にお酒買わせにいっちゃ」

「いやもう返す言葉もないです……すんません……」


 隼人はましろの手首を掴み、店員に再び頭を下げた。それから一瞥をしてから、「ほら、行くぞ」と言いコンビニを出る。


 すぐ近くの公園に入り、四人ほど掛けることのできる木製の椅子にどかっと腰を下ろす。わざわざ端の方に腰掛けたのに、ましろは隼人のすぐ左隣へちょこんと座った。


「あ、すいません」


 たった今思い出したかのように、ましろは謝罪の言葉を口にする。


「なんだ、悪いことしたって自覚はあったのか」

「いえ。そういえば私、財布を持ってませんでした」


 そっちかよ! と隼人はツッコミを入れそうになったが、その言葉は飲み込んで代わりにため息を吐き出した。なんとなく、ツッコミ入れるのはかっこ悪いと思ったのだ。


「あぁそう……」

「そうなんです。だから店員さんに止められてよかったです」

「あのさ、まず未成年が酒なんて買えないから。ついでに言うと俺は酒が苦手だし、コーラの方が好き」

「ええ?! お兄さんお酒飲めないんですか?」

「飲めないっていうか、酔っ払ってるの見られるのダセェじゃん。本当の大人っていうのは、人によえーとこ見せたらダメなんだよ」

「なるほどです……お兄さん、すごく大人っぽいですもんね」


 ましろは隼人へ羨望の眼差しを送っている。そういう目に慣れていない隼人は、彼女から視線を外して道路の方を見た。ちょうど赤いワゴン車がコンビニの駐車場へ入ってきて、二人の座っている駐車スペースの隣へ停車する。


 その中からスキンヘッドのいかつい男が出て来て、コンビニの中へ入って行った。それを見送った隼人は、ましろへ視線を向けずに質問を投げた。


「で、お前なんかあったの」

「何がって、何がですか?」

「いやだから、てめえがしつこいから聞いてんだよ。なんかあんだろ? 家に帰るのが気まずいとか」

「もしかして心配してくれてます?」

「ば、お前心配なんてしてねぇよ。むしろさっさとアパートに帰りたい気分」

「へぇ、お兄さんってアパートに住んでるんですね」


 どうにも彼女と話すのがやりにくいと思い、隼人は頭を乱暴にかきむしる。さっさと家へ帰って、今日の出来事は綺麗さっぱり忘れたい。


「そういえばお兄さん、名前なんていうんですか?」

「お前さぁ、俺が聞いてんだからまずてめえが答えろよ。ガキんときに母さんから習わなかったのか?」

「じゃあ、何かありました。お兄さんの名前教えてください」

「へぇ、何があったの?」

「お兄さん、先に私の質問に答えてください」


 したり顔で言われたけれど、直前で怒りを飲み込んだ。大丈夫。自分は大人なのだと、隼人は言い聞かせた。


「小鳥遊隼人」

「隼人さん」

「んだよ」

「ジュースを奢れなかったので、せめて家まで送るぐらいは私に任せてください」

「あんさー、俺の方が年上で、しかも男なんだけど。普通逆だろ」

「え、じゃあ隼人さんが家まで送ってくれるんですか?」

「無理、俺今超忙しいから」

「そうですか」

「んで、なんかあったの?」

「恋人と、別れちゃいました」


 あっけらかんと、ましろは言う。なんでもないことのようにそれを告げたから、隼人は慰めの言葉も浮かんで来ずに、ただ一言「あぁ、そう……」とだけ呟いた。


「なんだか私、重いらしいですね!」

「めんどくせーのは確かだな」

「やっぱりそう思います?」

「そりゃあそうだろ。アレだよアレ、女はおしとやかじゃねーとダメなんだよ。まあかといって、好意を突っぱねる男の方もどうかしてるけどな」


 隼人は本心を告げたつもりだった。だからましろがそれきり黙ってしまったのを見て、言い方を間違えてしまったかなと反省する。


「悪い」と一言謝ろうと、隣にいるましろを見る。その言葉は、すんでのところで引っ込んでしまった。


 ましろは、ハッとしたように目を丸めて、隼人のことを凝視していた。「え、なに」と聞くと、ましろは我に返り「あ、ごめんなさい。ちょっとびっくりしちゃいまして」と言い破顔する。


 どこか、嬉しそうな表情だった。


「なに、なんかまずいこと言った?」

「いえ、ほんとになんでもないです。でもちょっと、嬉しくてっ」

「そうか。じゃあ嬉しいうちに家に帰れ」

「家に帰りたくないです。泊めてください」

「だから無理だって。俺超忙しい」


「ですよね」と言いながら、ましろは笑う。隼人には、冗談だったのか本気だったのかが分からなかった。


 ましろはそれから、後ろへ倒れてしまうんじゃないかというほど大きく伸びをして身体を反らせる。発達途上の胸は、それでも制服越しに少しだけ盛り上がっていて、隼人はとっさに目線を外した。


「あーあ、助けてくれたのが隼人さんでよかったです。隼人さんって、結構モテるんじゃないですか?」

「モテるんなら、もっとてめえに優しくできてるだろ」

「今でも十分優しいですよ。見ず知らずの人の話を聞いてくれるなんて」

「買いかぶりすぎだっつーの。話聞いてやらないと、アパートまでついてきそうだったから仕方なくだよ」

「それでも、優しいですよ。隼人さんは自己評価が低すぎです」


 そう言うと、ましろは両足を後ろへ引いてから反動を付けて勢いよく立ち上がった。隼人の言葉はその行為によって喉の奥へ引っ込んでしまう。


「私、帰ります。隼人さん、早く帰ってほしいそうなので」

「おう。なるべく夜に繁華街の方はうろつくなよ」

「大丈夫です。私の家ここらへんなので」


 それからましろは、制服のポケットからスマホを取り出した。


「お近づきのしるしに、隼人さんのRINE教えてください」

「悪いけど、やってねーわ」

「じゃあメルアドでもいいです」


 正直メールアドレスも渡したくなかったが、隼人は仕方なくといったようにましろと連絡先の交換をした。ここで渋ってしまえば後味が悪くなると思ったし、何より早く帰ってくれなくなると考えたからだ。


 無事にメールアドレスを交換して送受信ができることを確認したましろは、満足したように微笑んだ後、隼人から離れた。


「今日は本当にありがとうございます! 帰ったらたくさんメール送りますね!」

「ん、忙しいから返せるかわかんねーけど」

「返せる時に返していただければ大丈夫です!」


 最後に大きく手を振ったましろは、元気よく夜の公園から出て行った。それを見送った隼人は立ち上がり歩き出すも、ポケットの中のスマホの震えによって立ち止まる。


 それはましろからのもので、助けてくれてありがとうございます、という旨の感謝の言葉が書かれていた。先ほど言った通り返せる時に返しておこうと考え、隼人は夜の繁華街にはあまり近付くなと忠告のメールを送る。すると10秒も経たないうちに、ましろからのメールは返ってきた。


 そのメールのやり取りはアパートに辿り着くまで途切れることなく続き、結局隼人の方から何も言わずに打ち切った。

そして翌日。


 隼人は、メールアドレスを交換したことを早くも後悔し始めた。というのも、大学へ行っている時間もバイトをしている時間も、ましろはひっきりなしにメールを送り続けてくるのだ。その内容は、『昼ごはんはオムレツを食べました』や、『電信柱にスズメが止まっていました(画像)』などなど、どうでもいいことばかりで、スマホが震えるたびに頭を抱えている。


 しかし問題は、マシンガンのように飛んでくるメールだけではなかった。


 ましろを助けてからというものの、隼人がバイトの帰りにあの裏通りを通ると、待ち構えていたように居酒屋の影から出てきては「奇遇ですね隼人さん! 一緒に帰りましょう!」と言って引っ付いてくるのだ。


 それがあの日から五日間。四日目に、危ないから夜に出歩くのはやめろと忠告しても、五日目には何食わぬ顔をして再び隼人にすり寄ってきた。


 そして六日目。


 ましろは見計らったかのように居酒屋の影から出てきて、隼人へにこりと微笑む。


 その日は雨が降っていて、傘を持っていない隼人の身体は濡れていた。


「お疲れ様です、隼人さん。こんなこともあろうかと……」

「おいてめえ、いい加減にしろよ」


 自分でもこんなに恐ろしい声を出せるのだということに、隼人は驚いていた。だけど一度頭に登ってしまった血は、雨なんかじゃ冷ましてはくれない。


 自分の興奮を、抑えることはできなかった。そのままましろへ詰め寄って、居酒屋の壁に押し付ける。その反動で、持っていた傘はアスファルトの上へゴトリと転がった。


「あんさぁ、俺今までに何度も忠告したよな? 夜にこんな場所をうろつくのはやめろって。これでもてめえのことを考えて、心配してやってんだ。それなのに、てめえは何度も何度もこんな場所に来やがって。もっと自分を大切にしろ!」


 また、いつも通りヘラヘラと笑って、いつもの冗談を言ってくると思っていた。そうしてくれたら、どれだけ安心できたか。


 やりすぎたと隼人が気付いたのは、ましろの瞳に怯えの色が浮かんだ時だった。身体を縮こませて、指先からガクガクと震えている。


「悪りぃ……」


 隼人は壁に押し付けているましろを解放した。すると唇がわずかに開いて、かすれた声でましろはつぶやく。


「ごめ、ごめんなさい……」


 震える声でそう言ったましろは、落ちた傘を拾わずに逃げるようにその場から去っていった。


 隼人は去っていったましろを引き止めることもできずに、落としていった傘を見つめる。開かれた傘の内側には、居酒屋の屋根から滴り落ちてきた雨水が溜まっていた。それは茶色く濁っていて、まるで今の自分の心を映している鏡のようだと隼人は思う。


 ましろの傘が汚れてしまうのを避けるために、汚れた水を地面へ流してから羽を閉じた。そしてあたりを一度見渡してからようやく気付く。


 ましろは自分の傘ともう一つ、別の傘を持ってきていた。その傘も先程の拍子に地面へ落としてしまい、空から降る雨に打たれてしまっている。


 隼人は、以前にましろへ言った言葉を思い出す。それを思い出して、自分こそが最低最悪な人間だったのだということを理解した。


 今すぐに会って、謝らなければいけない。だけどましろが住んでいる家の住所を隼人は知らなかった。すぐにメールを送ったというのに、あれほど早かった返信はいつまでたってもやってこない。


 結局隼人は二人分の傘を持って、アパートへの道を歩く。その日の帰路はちょっとだけ寂しさを覚えて、どうしてこんな感情を抱くのだろうと一人で考えた時に、そばにいた人が今日はいないからだということに気付いた。


 降りしきる雨は、未だ隼人のことを濡らしていく。


 自分は、傘をさせる人間になりたいと思った。


※※※※


 翌日は雨が夕方まで降り続け、夜になる頃には空に月が見えるほど天気が回復していた。この頃バイト続きだった隼人は、アパートで食器を洗いながら物思いに耽る。


 もしかすると、今日もましろは繁華街に出向いているのかもしれない。少しでもそう考えると不安になり、洗い物をしていた手が止まってしまう。水の無駄遣いだということに気付いて、すぐに蛇口を元に戻した。


 タオルで両手を拭きながら、さすがに今日は来ていないだろうと考えるけれど、それは自分への言い訳だということに気付いて、その思考を放棄した。


 だとすれば、今日も繁華街へ行くべきなのだろう。無事に会えれば昨日のことを謝ることができるし、会えなければ安心することが出来る。


 選択肢は二つだというのに、タオルで食器を拭きながらいつまでも隼人は悩んでいた。


 そうしていると、居間の方からキッチンへ歩いてくる音が聞こえてくる。しかしましろのことで思い悩んでいる隼人には、いつもと違って気配すらも感じることができなかった。


「あなた、いつまで食器洗ってんですか」

「?!」


 考え事をしている時に突然話しかけられた隼人は、身体をびくりと震わせ慌てて後ろを振り向いた。そこには妹であるみぞれが、壁に寄りかかるようにしてこちらを見ている。


 驚いた拍子に、隼人は先ほどまで夕食のハンバーグが乗っていた皿を床へ落とした。それは衝撃の加わったところから真っ二つに割れていき、細かい破片が辺りへ飛び散る。


 みぞれは目を丸め、慌てて隼人へ駆け寄った。


「え?! あの、大丈夫ですか?!」

「あ、あぁ……悪ぃ……」

「どこか怪我は?!」

「大丈夫。ほんとに悪いな、ちょっと考え事してて」


 みぞれが手伝おうとしてくれたけれど、怪我をするからと言って止めさせる。隼人は床に散らばった皿の破片を集めてゴミ箱の中へ捨てた。


 妹の気配すら気付けないなんて、今の自分はどうかしている。そう思いながら、隼人は自分の頭をかいた。


「あ、あの、妹、相談乗りますよ。いつもお世話になっていますし」

「んや、これは俺の問題だから。みぞれは気にするな」

「気にするなと言われましても……」


 みぞれは隼人から視線を外し、皿の破片が入ったゴミ箱を見る。ほぼ全ての家事をやっている隼人が些細なミスをするなんて、絶対に何かあると察したのだろう。


 何も話さない隼人を見て、みぞれはなるべく優しい言葉をかけた。


「何か人間関係で困っていて、どうしようか迷っているなら行ってみるべきだと妹は思いますよ。何もなかったら取り越し苦労で済みますけど、何かあるなら取り返しはつきませんから。だから、行ってみるべきだと思います」


 自分の悩んでいたことを見透かされて、隼人は困ったように頭をかく。


 みぞれの言うことはいつも正しい。そして自分もまさにそう考えていたのなら、行動せざるを得ないだろう。


 最初から答えはわかっていたけれど、勇気が出ないから誰かに背中を押してもらいたかったのだ。


 自分の方針が定まった隼人は、先ほどよりちょっとだけ、スッキリとした表情をしていた。


「そんじゃあ、ちょっくら行ってくる。皿洗いと洗濯もの任せられるか?」

「どんとこいですよ。妹、何歳だと思ってんですか。もう高校生ですよ高校生。誰もが羨む華の女子高生ですから」

「バーロ、まだ子どもじゃねーか。一丁前なセリフ吐くのは、一人で朝を起きられるようになってから言いやがれってんだ」

「む、妹怒りました。おこですよおこ。あなただって、大学生になってから家でぐーたらしすぎじゃないですか? ぐーたらするのが大人だっていうなら、妹は子どものままで構わないです」

「ほら、それはアレだよアレ……大学生ってのは大人になりたてだから疲れんだよ。もう若くねーんだ」

「うわ、出た。出ましたよ。大学生になったら高校生を若いって言う系の人。うーわ、あなた量産系大学生だったんですね」

「ほっとけばかやろう」

「でもまあ、妹すごい感謝してますから。ほんとに疲れてるなら、頑張って家事覚えます。もう高校生ですし」


 その少し成長したみぞれを見て、隼人はくすりと微笑んだ。近付いて頭をガシガシ撫でてあげると、くすぐったそうにしながら口元を綻ばせる。


 やっぱりまだまだ子どもなのだと、隼人は安心した。


※※※※


 右手に傘を差しながら左腕に二本の傘をぶら下げている姿は、周りから奇異の視線で見られても不思議ではない。繁華街へ近付くにつれて道行く人は多くなっていき、それに伴い刺さる視線も多くなるけれど、隼人はもう気にしてはいなかった。


 それよりも、一人で待っているかもしれないましろのことが気になってしょうがなかったのだ。


 はやる心臓と同期するように、繁華街へ向かう足も早くなっていく。店の前で呼び込みをしてきたスーツの男を無視して、ただいつも待ってくれているましろのところへと歩いた。


 やがて、いつもの繁華街の裏道へとたどり着く。ましろの姿を探して、すぐに見つけた。


 ましろは男三人に囲まれて、居酒屋の壁に背中を張り付けていた。その瞳は怯えに彩られていて、必死に首を振っている。


 考えるよりも先に、助けなければと思った。


 隼人は足を踏み出す。二歩目で大声を出そうとした時に、反対側から歩いてきた金髪の男がましろと男たちの間に入った。


 あの時の隼人と同じように、彼はましろのことを助けてあげる。男三人は毒を吐きながら、ましろのそばを離れて行く。


 それを隼人は、黙って見ていた。


 ましろは金髪の男を見上げて、すがるような視線を送っている。


 頭の中に、ふと、依存症という言葉が浮かんだ。


 ああ、そういうことかと、隼人は理解する。


 別に、助けてくれたのが誰でもよかったのだ。あの時助けたのがたまたま自分だっただけで、ましろの中に好意というものは介在していたのかは分からない。


 それならば、ぶっきらぼうで適当な自分が出て行くよりも、分かりやすい好意を見せるあの男の方がましろにふさわしいのではないか。


 隼人は再び立ち止まってしまう。


 男はましろへと距離を詰めて、小さな肩に手を乗せる。その行為に心が大きく揺さぶられた。


 そこでようやく、自分がましろに対して何らかの気持ちを抱いているのだと確信する。


『何か人間関係で困っていて、どうしようか迷っているなら行ってみるべきだと妹は思いますよ。何もなかったら取り越し苦労で済みますけど、何かあるなら取り返しはつきませんから』


 ましろの言葉を隼人は思い出す。


 散々邪険に扱った挙句に怒鳴り散らしたのに、自分から出て行くなんてかっこ悪すぎる。そんなのは全然大人じゃない。


 でも、その方法でしかましろと和解することが出来ないと言うのなら。


 自分は大人なのだと言い聞かせることで、目の前の女の子を助けることができないのなら。


 自分はまだ子どものままでもいいと、隼人はそう思った。


「おいましろ!」


 彼女の名前を呼びながら、隼人はましろへ近付く。ようやく隼人の存在に気付いたましろは、驚きで目を丸めていた。


「隼人さん……?」

「悪りぃ遅れちまった。てめえ傘忘れるからさ、マジで腕疲れんだわ。三本も傘持ち歩いてる男とかカッコ悪すぎだろ」


 そして隼人はチラと金髪の男を見た。

彼は何かを納得したようにましろと隼人から離れ、安心したような笑みを浮かべる。普通に爽やかな好青年だった。


「もうダメですよ、彼氏さんが待ち合わせに遅れちゃ。彼女、ずっと前からここに立ってたんですから」

「は……? ずっと前って、いつから」

「僕が呼び込みをし始めた頃ですから、二時間ほど前だと思いますよ。その時には彼女さんもういたので、もっと前からここにいたのかもしれないですね」


 ましろは隼人から視線を外し、怯えるように肩を震わせた。怒られると思ったのだろう。昨日隼人が言ったことを、次の日には破ったのだから。


 そんな怯えるましろを見て、隼人は痛く心が締め付けられた。こんなにも誰かを傷つけてしまったのは、隼人にとって初めての出来事だった。


 そんな怯えるましろに、隼人は自分の傘の半分を差し出す。少しだけ自分の肩が濡れてしまうけれど、そんなことは構わなかった。


「行こう。話したいことがいっぱいあんだ」


 ましろはコクリと頷いた。


※※※※


 ゆっくり話を出来る場所はどこかと考えて自分の家が思い浮かんだけれど、みぞれがいると込み入った話ができないと考えて、近くのカラオケ店へと入った。


 店員に二階の部屋へと通された後、ましろのコップを持って一回のドリンクサーバーへ戻る。二人分のコーンスープを注いでから部屋へ戻ると、ましろは両腕を抱きながら寒さをしのいでいた。


 暖房を入れてから、隼人は持ってきたコーンスープを手渡す。


「……ありがとうございます」と言ったましろは、舌を火傷しないように気をつけながらコーンスープへ口をつけた。


 隼人はましろの対面へと腰を落ち着ける。


「悪いな。こんな場所で話すことになって」

「……いえ。私なんか、部屋に上げたくないですよね……」

「ちげーよ。妹と二人暮らししてるからであって、ましろを部屋に上げたくないわけじゃない」

「え、二人暮らししてるんですか?」

「あぁ、ちょっと色々あってな」


 少し迷ったけれど、隼人は間を空けた後に付け加えた。


「家庭の事情と、妹の事情だ」

「家庭の事情、ですか」

「これに関しては話したくないんじゃなくて、話せないんだ。妹の事情もあるから、軽々しく誰かに話したり出来ない」

「そうですか……」


 ましろはカップを包み込むように手のひらで持ち、コーンスープを冷ますために息を吐いた。カップの中から湯気が立ち、ましろの鼻のあたりへ登って消えて行く。


「今日の隼人さん、何だか優しいですね」

「ちょっと言いすぎたなって、これでも少しは反省してんだ」

「私の方こそ、隼人さんの言いつけを全く守らなかったんですから」

「それでも、待ってくれてたなら一言お礼を言うべきだった」


 そう言うと、隼人は頭を下げた。


「ちょ、何で頭下げるんですか?!」

「だから、悪かったって」

「そんな隼人さんが謝ることなんて……」

「今日だって、ずっと俺のことを待っててくれたんだろ」

「あれは……でも私、隼人さんの言ったことを守らなかったのに……」

「たしかに、言ったことを守らなかったのは怒ってる。でもだからって、こっちが謝らない理由にはならないし、感謝を言わない理由にはならないだろ」


 隼人は顔を上げる。そこで初めて、ましろという女の子と真正面から向き合えたような気がした。自分は大人だと言い聞かせて、ずっと向き合うことと逃げ続けていたのだと、ようやく理解した。


「俺の言いたいことは一つだけだ。もっと自分を大切にしてくれ。ましろに何があったのか、もちろん俺は知らない。知らないけどな、ましろはましろだ。誰かに依存するんじゃなくて、もっと自分のために生きて欲しい。俺は、そういうましろともっと話したい」

「自分のために、ですか……?」

「ああ」

「でも私、自信ないです……」

「てめえみたいに賑やかなやつだったら、普通にやってても周りの奴らが近寄ってきてくれるだろ。それでいいんだよ。俺みたいな適当なやつに言われても響かねえかもしんねぇけどさ、誰かに依存する人間になるんじゃなくて、誰かに頼られる人間になれ。そういう風に生きてれば、次第に一人じゃなくなってくんじゃねえの」


 全く自分らしくない言葉だとわかっていたから、隼人はおかしくなって小さく笑った。


 それからコーンスープを口に含むと、まだまだそれは熱を持っていて、喉の奥をヒリヒリと焼いていきながら胃の中へ入っていった。


「隼人さんは、やっぱり優しいですね……見かけによらず」

「最後のは余計だっつーの」

「だって、怖そうな顔してますもん。でも、初めから分かってました。この人は、不器用な人なんだなって」


 反論したい気持ちはあったけれど、ましろの今の言葉をみぞれに言われたかのような錯覚をして、隼人は言い返すことができなかった。つまり、図星を突かれてしまったのかもしれない。


「私、昔から誰かに頼らないと生きていけない人だったんです。一人で生きていくのは辛いことだから、誰かのために生きてたらそういうのって紛れちゃうんです。だから初めて出来た恋人に尽くしたのに、結局こっぴどく振られちゃって……ウザいって言われたんですよ。きっと隼人さんも私のこと、ウザいって思ってたんじゃないですか……?」

「ああたしかにな。マジでうざかったわ。着信フォルダ今もてめえの名前で埋まりすぎだっつーの」

「ほら、そうですよね。隼人さんでもそう言うんですもん。だから、私なんて……」

「でも、そういうところもましろの良いところなんじゃねぇの」


 その隼人の言葉に、ましろはハッとしたようにうつむかせていた顔を上げた。


「よく考えたら、俺も結構救われてたんだ」

「救われてたって……?」

「家とバイト先を往復すんのってさ、何もねぇから退屈なんだよ。だからてめえがバカみたいにメール送ってくれて、結構気が紛れてた。そういうのに気付いたのが、てめえがメールを送らなくなった時だ。あんなにうぜーうぜーって思ってたのに、途端に手元無沙汰になった。だから俺にとってのあの賑やかさは、ましろの良いところだ」

「う、嘘ですよ……隼人さんは、私を元気付けるために言ってるんですよね……?」

「あんさー、なんでわざわざ俺がてめえに嘘を言いに来なきゃいけないんだよ。それに、俺は嘘が嫌いなんだ。てめえにだって嘘ついたことないだろ」

「あっ……」


 ましろは今までの出来事を思い返しているのだろう。今まで、隼人はましろに対して嘘をついたことなんて一度もなかった。


「隼人さんって、やっぱりすごく不器用な人なんですね。妹さんのことで忙しいって言ってくれれば、私だってもうちょっと気を使ったのに……」

「アレだよアレ、個人情報ってやつだ」

「じゃあその個人情報ってやつを教えていただけたから、これからも隼人さんとお話ししていいんですか?」

「別にいいけどよ。でも自分のことを大切にしないと、今度こそぶちぎれるからな」


 その言葉をましろは冗談として受け取ったのか、目に涙を溜めながらおかしそうに笑った。その涙を見て、隼人は恥ずかしそうに頬をかく。


「私、あそこにいれば誰かが助けてくれると思ったんです。だけど怖い人に話しかけられて、やっぱり逃げ出したくなって……そんな時に隼人さんが現れてくれたんです。隼人さんに出会えて、本当によかったです。私、頑張ります。今日まで休んでいたけど、学校も行きます。だからこれからは、生まれ変わった紺野ましろとして見てあげてください」


 そう言って、ましろは屈託のない笑みを浮かべた。


 恥ずかしさで口を付けたコーンスープは未だ熱を持ったままで、心の底を何かがほんのり温めてくれた。

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