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二.始まりは五月(2)

 執拗なまでに鳴らされた呼び鈴に根負けし、おれは決死の覚悟で寝床から這い出てドアのロックを解除した。


 現れたれいは半分怒った顔でおれを批判し、もう半分の慈悲で大丈夫なものかと心配してくれた。

 二日酔いという状況は察してくれたようで、玲はお粥を作ると言ってキッチンに立った。


 おれに抗う気力はなく、玲に一言断って再び布団へと潜り込んだ。

 瞼を閉じると昨晩の宏美の追求がぐるぐると脳内を支配して、眠りにつくことを強固に妨げた。


 カーテン越しに窓から差し込む陽光は力強く、惰眠を貪る小人を叱りつけるかのようにおれの半身を炙った。

 鼻孔をくすぐる卵の匂いが痛む頭に僅かながら活力を与え、空腹を知らせる信号を脳から腹へと忙しなく伝えた。


 玲は卵粥と白湯と胃薬をトレイに載せて運んで来て、おれの上半身を優しく抱えてゆっくりと起こした。


「管理人さん、起きて。今日は大工するんでしょ。ほら」


 おれはTシャツにスウェットという部屋着のままで朝食にありついた。

 玲はというと勝手知ったる体で洗濯機を回し始め、片手間でトイレ掃除まで始めてしまった。


 宏美ひろみに言われるまでもなく、この状態が異常であることはおれも十二分に認識していた。


「……玲ちゃん。そんなこと、しなくていいから」


「私が好きでやってるんだから、気にしないで」


「……そうもいかない。おれにも世間体ってものがある。赤の他人の女子高生に家事をやらせているなんて噂が広まれば、逮捕だってされかねない」


「管理人さん、大袈裟なんだから。世間には十六で結婚してる女の子だっているわけでしょう?」


「おれたちは結婚していない。それどころか、君は人妻にあたるわけで」


「まあね。書類上だけのことだけど」


「何にしろ周囲に誤解を与えることになるから、こういうのはもう止めにしよう。おれは別に、玲ちゃんを千夜せんやハイツから追い出したりはしない」


 玲が寄ってきて、おれの横にちょこんと座って言った。


麻里亜まりあさんに誤解されたくないんでしょう?」


「……特定の誰かという話じゃないよ」


「隠さなくてもいいって。白川しらかわさんや明智あけちさんから聞いて知ってるし。私、別に気にしないよ?私が管理人さんを好きなことと、管理人さんが別の女性を好きになることは個人的な問題だもんね。麻里亜さんには、何も無いって言っておくよ」


「あ、そう……」


「管理人さんの迷惑になるならもう止める。でもね、朝ご飯だけはたまに作らせて?誰かのためにご飯作るの、好きなんだ。一人ぼっちでご飯食べるのって苦手で」


 玲が上目遣いでおれの顔を覗き込んで言った。


「それは、断る理由は別にないな」


 一瞬だけ、宏美の冷たい目線が思い起こされた。


「ありがとう。じゃあ、管理人さん。洗濯物干すのと、食べ終わったらちゃんと食器を洗うんだよ」


 玲は笑顔を見せ、パタパタと軽やかな足音を立てて出て行った。

 彼女が立ち上がったときにミントのような爽やかな香りが匂って、二日酔いの頭に清涼な風を吹き込んだ。


 

 午後になり、空に雲がかかって中途半端な涼しさを導いた。

 風も出てきており、時折ごうっという豪快な音がして塵や草葉を派手に舞い上げていた。


 廊下の補修に取り掛かってはいたが、後で掃き掃除もしなければと思いやった。


「やあ、北条ほうじょう君。やってるね。ご苦労様」


 一〇二号室から陸奥むつが出てきて、おれも挨拶を返した。

 陸奥は糊のきいたシャツにジャケットを羽織り、下はきちんと折り目のついたグレーのスラックスという外出着であった。


「ところで。今日はやなぎさんがどうしているか、君分かるかい?」


「……ピアノじゃありませんか?」


「そうか。美術展のチケットが手に入ったんでね。誰か誘おうと思ったのだけれど。柳さんは電話に出ないし。そうか、ピアノか」


「……おれは行きませんよ」


「馬鹿を言っちゃいかんよ。どうして僕が君を誘って美術展に行かなくちゃならない?それじゃ、お仕事頑張ってくれ」


 人差し指と中指を立てて敬礼を寄越し、陸奥は出て行った。

 ポットを抱えた玲が二階から降りてきて、陸奥と挨拶してすれ違った。


 玲はそのままとことこと管理人室応接へ入って行った。

 共用の応接室に設置しているポットは、中身が玲の入れる紅茶に変わって以来好評だった。


「陸奥さんて、やっぱり格好いい」


 管理人室から出てきた玲が、作業を続けているおれの背中に声をかけた。


「それはそうだね」


 溶剤が少しはみ出してしまった。

 おれは慌てずにすぐさま布で拭き取った。


「でも、管理人さんもそこそこいけてると思う。学校の友達にも受けてたよ」


「……それはありがとう」


「麻里亜さんに聞いてあげようか?管理人さんと陸奥さんのこと、どう思ってるのか」


 手元が怪しくなり、刷毛を取り落とした。

 溶剤が垂れて流れた。


「必要ない。……気が散るから、当分は話しかけないでくれ」


「は~い。つまらないの」


 言って、玲は管理人室に戻って行った。

 おれは無駄に汚してしまった箇所の現状回帰に少々の時間を費やした。


 宏美も玲と同じようなことを言って麻里亜に色々と吹き込んでいるようだが、結局その回答は判然としなかった。

 おれも陸奥も、麻里亜が入居してきた当初こそ直球でアプローチを重ねたものだが、暖簾に腕押し柳に風。


 そうして少しずつ距離を縮める作戦に出てから、早一年が過ぎようとしていた。


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