二.始まりは五月
二.始まりは五月
都内でも有数の進学校と聞いていたので気負って校舎に足を踏み入れると、想定していたものとは違ったプレッシャーを感じざるを得なかった。
淡い緑色の壁紙や乳白色の床は、共学だったおれの母校とさして変わらず適度に薄汚れていた。
掲示板に貼られた学内行事のポスターには落書きこそされていないものの、画鋲が落ちかけて風でパタパタと揺れて忙しなかった。
トイレに男性用を示すサインは見当たらず、辺りに漂う化学薬品に似た臭気が意味もなくおれをどぎまぎさせた。
生徒たちから刺さる視線は妙に粘っこく感じられ、すれ違う度にまるで観察でもされているかのような錯覚を覚えた。これこそが自意識の為せる業かと己の弱気に恐れ入った。
事務室で教室の場所と行き方を尋ね、たった数分校内を闊歩しただけですでに背中に嫌な汗が滲んでいた。
もう五月だからと自分に言い聞かせ、必死に三年五組の教室を目指した。
「どうしたの、管理人さん?汗がすごいよ」
教室前の廊下で玲が待っており、おれを見るなりハンカチを差し出して首筋の汗を拭い始めた。
「いいよ、玲ちゃん。ハンカチならおれも持ってるから」
「ダメよ。格好良くしてなきゃ。折角スーツにネクタイで来てくれたんだし。みんな見てるんだから」
「……みんな?」
「うちの管理人さんが来るって言ったら、みんな見たいって。ここに来るまで、注目されなかった?」
「……そういうのは、陸奥さんの役どころだろう」
陸奥遼一は自他共に認める好青年で、やることなすこと全てが気障ったらしい。
しかし、その爽やかな容貌で堂々とされると、同性からしても否定のできない華があった。
女子高校生に値踏みされて挙動不審になるような無様さとは、彼であれば無縁のはずだ。
「さ、行きましょ」
玲に促され、おれはネクタイの結び目をきつく締めて教室へと入った。
三十代半ばの女教師はおれの素性を不審に思ったのか、はじめこそ値踏みするようにじっと覗き込んできたものだが、話しているうちに自然と打ち解けてきた。
「……そういうわけで、当校としましては、一宮さんには是非とも上位国立大学の受験をお勧めします」
女教師こと乾女史はそう言って、銀フレームの眼鏡を中指で押し上げた。
焦茶色のスーツにタイトスカート、インナーは白いシャツという準フォーマルな装いが、乾女史から知性や品性を窺わせた。
「玲、希望はどうなんだい?」
明智と宏美の脅迫に対する妥協の末、普段は「玲ちゃん」と呼ぶようになっていたのだが、今日は保護者代わりで来校しているため呼び捨てにしていた。
これは昨晩、玲と事前に協議して決めたことだ。
「私、管理人さんと同じ大学に行く。アパートから近いし、麻里亜さんや明智さんもいるし」
玲は学部学科に関してもその場で具体的に提示した。
興味がある順に環境分野、社会学、文学と続くらしい。
「一宮さん、そうは言っても……。あそこもいい大学ではあるけれど、あなたの実力ならもっとずっと上を目指せるのよ?」
「私、管理人さんの側にいたいんです」
乾女史の目が険しくなって、おれに極寒の視線が注がれた。
「北条さん、あなたまさか……」
「玲、誤解を招くような物言いは止めなさい。保護者として、おれは玲がどこの大学に行ってもちゃんと見守るから」
言って、おれは乾女史の目を見て笑みを返した。乾女史は「……そうですわよね」と口元を手で抑えて笑った。
「私管理人さんのことが好き」
「玲!」
とっさに咎めたが、廊下から嬌声のようなものが上がった。
乾女史が「何です?」と立ち上がって、速やかに教室の扉を開いた。
そこには聞き耳を立てていたであろう女子生徒たちがわんさかおり、黄色い悲鳴を上げながらあっと言う間に散らばっていった。
「全くもう。何ですか、これは。玲さん、これはあなたが仕組んだおふざけなの?」
乾女史は憤り、つかつかとヒールの音を立てて詰め寄った。
「玲、先生に謝るんだ。おれだって怒るときは怒るぞ」
「……先生、ごめんなさい」
「どういう了見かしら、全く……」
「乾先生、申し訳ありません。この子には私からも、きつく言い含めておきますので」
「いえね、女子高ってこういうものなのですが……。殿方が見たらさぞかし幻滅することでしょうねえ。本当に姦しいんだから」
「先生も大変ですね。うちのアパートにも教師をされている女性の住人がいらっしゃいまして。ご苦労は伺っています」
「そうなんですよ。なかなか分かってもらえなくて。こどもの相手をしているだけだから楽だろうなんて偏見が多いんです。テストがあれば採点で残業だし、PTA対応で土日が潰れることもしばしばで。年末年始にかけては進路や受験の山場でしょう?はっきり言って、夏休みがあることを除けば毎日こんなに気苦労の絶えない職場はないと思います」
結局、残り時間の殆どを乾女史との雑談に費やした。
玲の発言はあれ以降槍玉に上がらず、疲れこそしたがおれは正直ほっとしていた。
高校からの帰路、日用雑貨の専門店に立ち寄って、メンテナンス用品を購入することにした。
玲は先に帰すつもりだったが、「ついていく」と言い張ってきかなかったので、仕方なしに連れ立っていた。
棚に並んだ研磨材を吟味し、携帯電話の電卓機能を使って予算と比較検討した。
ペンキは必須で刷毛は新調する予定であったが、防虫防腐剤が思ったより高値で頭を悩ませた。
玲はつまらなそうに買い物かごをぶらぶらさせ、時折横から「それ何に使うの?」と口を出してきた。
やたらと距離が近く、先ほどの「好きです」という言葉が思い返され、過剰に意識してしまった。
明日は土曜日のため大学へ行く予定がなく、取り立てて用事もなかったので「千夜ハイツ」の修繕に取り掛かる所存だ。
管理人である以上自発的に物件の価値向上に取り組むべきだと、叔父から散々に諭され続けてきた身である。
まして玲の一件で叔父には無理を押し通しており、やる気を出すのも恩返しの一環と割り切っていた。
「明日、大学を案内して欲しいな」
「明日は一日大工仕事。……麻里亜さんに頼んでみたら?」
「麻里亜さんは習い事があるもん」
「ピアノ?」
「そう。土曜の午前中は講義って言ってたし」
麻里亜は頑張り屋だ。
今時珍しく真面目に大学へと通っているし、家庭教師のアルバイトやピアノのレッスンにも精を出していた。
まだ二十歳だというのに、何事にも一所懸命な姿勢には頭が下がった。
対して玲は家事全般が得意で、加えて乾女史が絶賛するように学力も抜きん出ていた。
見たところ行動力もあるようで、それは頼るべき人間が少なかったことから養われたのかもしれなかった。
なんにせよ麻里亜に玲の面倒を見てもらいつつ、あわよくば便乗して一緒に過ごそうという邪な期待は外れた。
こうなっては、言った通りに仕事へ没頭する他にない。
「明日大学に行きたい」
なおも言い続ける玲に生返事だけして、おれは棚巡りに集中した。
そうしていると、宏美から「直帰出来そうだから駅前まで出て来い」という主旨のメールを受信した。
空かさず玲が手元をのぞき込んできた。
「なんで矢崎さんからメールが来るの?」
「……別に行かないけど」
「それはダメよ。女の子の誘いを断るなんて、絶対ダメ」
「あいつは飲む相手が欲しいだけなんだ。おれだけを誘ったわけじゃない。ほら、宛先に千夜ハイツの皆のアドレスが入ってるだろ?きっと、陸奥さんか律子さんが付き合ってくれるさ」
「……私にはメールが来ない」
「アドレスは交換したの?いくら何でも未成年を飲みに誘うほど、宏美は常識はずれじゃないと思うけど」
レジで精算している内にも立て続けにメールを受信した。
宏美のメールへの返信で、陸奥さんからは「もし残業を切り上げられたら参加。でも望み薄」とあり、律子さんは「今日は数学科の懇親会があるからパス」と書いていた。
明智の回答は簡潔で「バイト」という三文字だけ。
その内容を伝えると、玲がいきり立って詰め寄ってきた。
「管理人さん、私のことは気にしなくていいから、行くって返事してあげて。お願い」
おれは渋っていたのだが、玲の深刻そうな表情と、「誰もいなかったら、悲しいもの……」という呟きが気になり、結局は承諾した。
聞いている範囲では、玲は物心がついたときから独りだったようで、「女性が独りきり」でいる状況を嫌悪している節はあった。
毎朝おれの部屋に押し掛けて朝食を作るのも、そのことに起因しているのかもしれなかった。
軽くお茶だけして玲と別れ、駅前の公園で噴水を眺めながら時間を過ごした。
宏美と合流してからは近くの安居酒屋に飛び込みで入った。
宏美は瓶ビールを空けながらひとしきり会社の愚痴を述べた後、今日の三者面談の様子を聞きたがった。
おれは焼酎のお湯割りを舐めつつ、あったままを話して聞かせた。
「なにそれ。あんたのモテ自慢?」
「聞きたいと言ったから、話したんだ」
「で、どうすんのよ。玲ちゃん、千尋が結婚して面倒見てあげるの?」
「どうしてそうなる?」
「だって、毎朝一緒にご飯食べてるって言うじゃない。そんなのおかしいでしょう?管理人といち住人のやることではないわ」
「そんなことは分かってるさ。そもそも何かと炊きつけたのは、宏美と明智の二人じゃないか。おれは事務的に応対してもよかったんだ」
「じゃあ何?あんたはただ周りに流されて、あの子を置いてあげてるって言うの?どういう了見よ、それ。人情の欠片もない台詞だわ。何が事務的に応対してもよかったんだ、よ。一宮さんと比べて、あんたどれだけ器が小さいの?」
「器が小さいのは認めるが、嘘偽りは言っていない。それと、経緯は兎も角、今はおれの意思で彼女を見守っているつもりだよ」
「だからと言って、距離感は弁えなさい。じゃないと、玲ちゃんが不憫だわ」
「……どうすればいい?」
「あんたが玲ちゃん連れ込むのを控えればいいだけの話だわ」
反論しようとした矢先、テーブルの上に置いた携帯電話が振動した。
おれのものだけではなく、宏美の端末も同時に震えた。
麻里亜からのメールで、「返信遅れてごめんなさい。今から向かいますので、場所を教えてください」とあった。
おれはすかさず今いる場所を返信した。
「千尋、顔に出てる。麻里亜が来るとわかったら、俄然目の色が変わった。……これじゃ玲ちゃんが可哀想過ぎる」
宏美は言って、ビールの追加を注文した。
そんなことを言われても現におれは麻里亜のことが好きなわけで、それを否定されては立つ瀬がない。
麻里亜のメールを見て、おそらく陸奥も本気で残業を切り上げようと気合いを入れるはずだ。
おれに油断している余裕など微塵もなかった。
「麻里亜のどこが好きなのよ?」
「絡むなよ。男女の色恋に理由なんているのか?」
「それ、玲ちゃんに同じことを言えるの?はっきりしてあげなさい。あの子、あんたが考えている以上に脆いわよ」
「わかってる。別に下心があるわけじゃなし、そんなことは言われるまでもないさ」
「どうだか」
おれはおしぼりを手にとって額の汗を拭き、鳥わさの小鉢に箸をつけた。
宏美は淡々とグラスを干し続け、おれは義務であるかのようにビールを注いでやった。
二人がかりで飲んだ量は相当のもので、やがて麻里亜と陸奥が到着した時分には自分でも限界と分かるほどに酩酊しており、禄に会話に加われなかった。