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八.忘れられない十二月(4) 完

 クリスマスイブに雪が降ることはなかった。

 人生そうそう甘くはないものだと、出掛けにすれ違った明智あけちは自身の失恋になぞらえて言った。


 冷え込みが厳しく、おれはトレンチコートの前をしっかりと閉じてマフラーに鼻から下を埋めていた。

 れいにプレゼントするつもりであったテディベアを調達するべく、寒空の下それらしき店を渡り歩いていたのだ。


 この半月、電話にもメールにも玲からの返事は全くなかった。

 それでも回線契約は切られていないようだったので、GPSで居所を探れないか警察にも当たってはみたのだが、見つかったという連絡は受けていない。


 しつこくメールだけは送り続けており、今朝もクリスマスプレゼントとケーキを準備しておく旨は送信してあった。

 暇だという白川しらかわ氏に留守番を頼んであったので、玲がひょっこり帰ってきても「千夜せんやハイツ」に独りになることはなかった。


 明智は気分転換にと仕事に出ていて、宏美ひろみ律子りつこさんも何だかんだで予定があるのだという。

 それはそれで喜ばしいことだった。


 陸奥むつは昨夜遅くに洗車に励んでいたようなので、今日の活躍の機会がないということはないだろう。

 彼に限って、その点抜かりはないはずである。


 おれは予めインターネットで調べておいた池袋の輸入雑貨屋で目当ての一品を見つけ、梱包をお願いして小脇に抱えた。

 サンシャイン通りに移動して、カップルで賑わうカフェに、ソファと椅子という組み合わせのテーブル席を一つだけ見つけて、腰を落ち着けた。


 おれは熱めの紅茶を味わいながら、一向に着信を告げない携帯端末を何度も覗き見た。

 それでもメールの返信はなかった。


 玲が何を企んでいたとしてもよかった。

 せめて、高校の卒業までは面倒を見てやりたかった。

 たった四ヶ月足らずの辛抱だったのだ。


 欲を言えば、玲を大学まで出してやりたかった。

 そうすれば、あの子の器量と才覚であれば、どこでも上手くやっていくことができたはずだ。


 そんな私見は宏美や明智に鼻で笑われたものだが、二人ほどにおれは学歴を軽く見てはいなかった。

 人間が社会的動物である以上、客観的に己が物差しとなる指標は持っているに越したことはない。


 玲は社会から断絶されかけており、尚更それを必要とするはずだ。

 まして玲の学力は全国でもトップクラスだったわけで、その才幹は多くの人間が望んでも得られない天性のものなのだ。


「椅子、空いてます?」


 透き通った声音がおれの鼓膜を優しく震わせた。

 茶髪を内向きにカールさせ、長い睫毛と通った鼻筋が魅力的な可愛らしい女子だった。

 三人組での来店らしく、おれは「どうぞ」と向かいの椅子を譲った。


 ケーキの受け取りまでもうしばらく時間を潰そうと、おれはコートのポケットから読み差しの文庫本を取り出した。


 ふとした拍子に窓外の人混みに目をやると、往来を行き交う男女の内に、玲の爛漫な笑顔が見え隠れしたような気がした。

 慌てて立ち上がったが、すでに通りは新たな人の波でごった返しており、玲と思われた影も形も失われてしまった。

 有りもしない幻像を知覚したのだと半ば理解していたので、おれは肺に溜まった空気を重々しく吐き出して座り直した。


 玲はもういないのだ。


 あれから色々と思い返していた。

 九か月に満たない短い間でしかなかったが、玲とは色々なことを話した。


 家事が好きだと言って、掃除や洗濯を率先してやってくれた。

 独りで食事をするのは味気ないと言っていたし、誰かのためにご飯を作ることをとても楽しんでいた。


 玲が作るご飯はどれも美味しかった。

 住人たちのために進んで紅茶を入れていた。

 玲の入れた紅茶がないと、管理人室応接は何か物足りなかった。


 その想いは共通していたのか、最近白川氏が見よう見まねで紅茶を振る舞っていた。

 かつておれが麻里亜に贈って受け取って貰えなかった薔薇の花束は、宏美や律子さん立ち会いの下二〇三号室を検分した際に、玲の部屋で押し花として額に飾られているのを発見した。


 それから、一宮いちのみや氏が亡くなったと知らされ、苦悩を打ち明けてきた玲の悲壮な表情がいまだに忘れられなかった。

 思えば、あの時玲は自らの罪の一端を告白していたのだ。


 目の前にいるおれだけにではなく、自分自身や一宮氏、ひいては生を受けたこの世界に対して懺悔をしていたのではなかったか。

 普通に進学して、普通に就職して、普通に結婚して。

 そして普通の家庭を持つことに憧れを抱いていたあの玲は、決して虚構などではなかった。


 今のおれには自信をもってそう断言できた。


「あの、席……」


 呼びかけに顔を上げると、先ほどとは打って変わって、流麗な黒髪を背まで垂らした瞳の大きな美女が、おれの目の前に所在なく立っていた。

 麻里亜まりあだった。


「ケーキ屋に来る前に、この辺りにいるんじゃないかと思いまして。やっと見つけたかと思ったら、私の席は無いわけですけど」


「あ……さっき、お隣さんに貸してしまった」


「そんなところかと思いました」


 微笑を浮かべて、麻里亜がソファ席に掛けるおれの隣にぐいと割り込んできた。

 不自然なほどに体が密着し、さすがに周囲の目が気になった。


「あの、近いよ」


「近付きましたから」


「椅子を返してもらいたいところだけど。満席なままだね」


「別にいいじゃないですか。今日はクリスマスイブです。これくらいは普通です」


「待ち合わせには、だいぶ時間があるよ?」


「待ちきれなかったんです」


 言って、麻里亜がさらに肩を寄せてきた。

 最近になってわかってきたのだが、麻里亜は意外と勝ち気で積極的だ。


 今日は、玲がひょっこり帰ってくるのを待ちながらクリスマスパーティーを開こうと、二人でケーキを予約していた。

 それ以外に予定はないのだが、麻里亜が落ち込むおれを励まそうと頑張っている姿勢がわかり、一層愛おしく感じられた。


 麻里亜がコートを脱いで膝の上に置くと、真っ赤なセーターに包まれた肢体が現れた。

 随分と可愛らしいサンタクロースがいたものだ。


 体にぴったりフィットしたセーターなので、麻里亜の胸や腰の曲線が浮かび上がって無駄におれを緊張させた。

 汗ばんできたおれの手に、麻里亜がそっと手を重ねてきた。


「ケーキはホールで予約したんですか?」


「うん。麻里亜さんの指定通りに、生クリームがたっぷりのやつをね」


「ホールかあ……それじゃ、玲ちゃんにもたくさん食べて貰わないと。私たちだけじゃ、とても食べきれないですからね」


 麻里亜が澄んだ瞳を潤ませて言った。

 零距離なので、甘い吐息がおれの首筋を優しくくすぐった。


 こんなシチュエーションは初めてのことで、ここが公衆の面前であることが大いに悔やまれた。

 いつだったか玲に言った通り、大人は人目がつくところではしたない真似などしないものなのだから。


「なんだか管理人さん、ぎこちないですね」


 わざとやっているのか、麻里亜が耳元で囁き、ふうと息をついた。

 自らの衝動に我慢がならず、おれは麻里亜の手を引いて店を出ることにした。


「うそ?雪……」


 麻里亜が言うので空を見上げると、ひらひらと粉のような雪が舞い降りてきた。

 それはだんだんと視界一面に広がって、すぐに本格的に降り出してきた。


「……甘かったな」


 明智への当てつけか、そんな言葉がおれの口から出た。

 麻里亜が首を傾げて優しい目をして見つめてきた。


 ホワイトクリスマスで、隣には麻里亜がいる。

 こんなにも甘い事態が訪れるなどとは、一年前のおれには想像すらできなかった。


「さあ、ケーキを取りに行きましょう」


 麻里亜は軽やかなステップでおれの目の前に躍り出た。

 こんこんと降りてくる白雪と街の雑踏を背景に、彼女の笑顔がとても眩しく映った。


 玲の肌も、雪と見紛うような白さであった。

 初めて会った日に、おれはそんな印象を植え付けられた。


 あのまま何事もなく時間が過ぎていったならば、来年の今頃には叶ったかもしれないささやかな計画がおれにはあった。

 そう、玲に「千夜ハイツ」の管理人を譲ろうと思っていたのだ。


 美味しい紅茶を入れる、可憐な女子大生兼管理人。


 我ながら名案だと思われたのだが、残念なことに玲が不在のいま保留になっていた。

 だが、おれは決して諦めてはいなかった。


 玲がふらりと舞い戻ってきたとして、二〇三号室はそのままにしてあるので何も問題はなかった。

 年が明ければ、或いは春になれば、玲の心境にも何か変化が起こるかもしれない。

 もしかして、おれが就職活動の最中に、どこかの町中ですれ違うことだってあるかもしれないのだ。


「管理人さん、なに立ち止まっているんです?早くしてください。ケーキを持って、千夜ハイツに帰りますよ」


 おれは手を振る麻里亜に応えて、ニ匹のテディベアを抱えて歩き始めた。



 完



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