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八.忘れられない十二月(3)

 おれは外食をして、本屋とコンビニエンスストアにだけ寄って帰宅した。


 れいの授業が終わるのは二十一時過ぎのため、買ってきたカップデザートは応接の冷蔵庫に入れておくことにした。

 玲にはすでに「冷蔵庫にデザートあります」とメールを入れてあった。


 応接には麻里亜まりあ陸奥むつの二人がいて、おれが冷蔵庫を開けると陸奥が、「そこにある紅茶、飲んでもいいよ」と言ってきた。

 おれはデザートをしまって、陸奥の言葉に甘えて大きいペットボトルの紅茶を取り出した。

 それをカップに注いで、電子レンジで温めた。


北条ほうじょう君。今日、僕らがどこへ行ってきたと思う?」


 レンジが稼働している間に、陸奥がおれの背中に声をかけてきた。

 これからデートの解説が始まるのかと思うとげんなりしたが、紅茶を貰ってしまった以上しばらくの間は我慢せざるを得なかった。


「……今日は寒いですから、海とは逆方向でしょうね。山ですか?」


「馬鹿か君は。どうしてより寒そうな冬山なんかに行かなきゃならないんだ」


 おれの適当な返しに陸奥が呆れた様子で言った。

 麻里亜は陸奥の隣で黙っていた。


 電子レンジからチンと音が鳴り、おれは熱せられたカップを取り出してソファに身を沈めた。

 椅子に座る二人とは目線が違えるので、これは都合が良かった。


「暖房がよく効いた美術館とか。そうだ、いま六本木にゴーギャン展がきてましたっけ」


 当てずっぽうで答えたが、陸奥は特に反応を示さなかった。

 陸奥に代わって、麻里亜がゆっくりと話し始めた。


「千葉の、房総の方に行ってきました。荒れた海の見える、寂しい一帯でした」


「海でしたか……。それなら予想とは真逆だったわけだ。さすがに、海っぺりには誰もいなかったんじゃ?」


 どうせ聞かされるのは二人のデートの顛末なのだ。

 早く終わらせたかったので、なるべく愛想良く応答した。


 しかし、陸奥は「いいから。やなぎさんの話を聞くんだ」と静かにプレッシャーをかけてきた。

 それを聞いて、おれは頭を切り替えた。

 陸奥の表情と声色、麻里亜の話し方からして、これはこれでおれが聞きたくない類の話なのだと理解できた。


「玲ちゃんが暮らしていた施設に行ってきました」


 おれはソファから立ち上がった。

 そのまま自室に戻るつもりだった。


 陸奥が追っかけで席を立ち、「北条君、座るんだ。ここで逃げるのは、管理人としても男としても許されない」と、強気でおれに立ちはだかった。


 おれは陸奥との睨み合いを少しの時間で解消し、長く息を吐いた。

 そして、諭すつもりで麻里亜に言った。


「……麻里亜さん。彼女の過去を暴くことが、誰かのためになるのかい?人間は必ず清廉潔白な身の上じゃなければいけないなんて、一体誰が決めた?いちアパートの管理人に過ぎないおれには、他人の過去なんて重すぎて背負えやしない」


 麻里亜は今にも泣き出しそうな顔をしながらも、口を結んでおれの批判に堪えていた。

 その決意に負けて、おれは再びソファに身を投げた。

 それを見届けた陸奥も椅子に戻って腰掛けた。


「……玲ちゃんは、施設を逃げ出す直前まで何日も、夜遊びから帰っていなかったそうです。当時を知っている職員の方にも話を伺ってきましたが、昔からとても聡い子で、自分の立ち位置をよく理解していたのだとか。他人との付き合い方や大人への取り入り方みたいな、コミュニケーション全般のスキルがとかく高かったそうです。ただの優等生というのとはまるで違う、と。印象的だったのは、何故かいつも多額の現金を持ち歩いていたことだとか」


 そこまで言って、麻里亜が口を閉ざした。

 おれは温くなりかけた紅茶にそっと口をつけた。

 予想以上に不味かった。


 陸奥が座ったまま、おれを上から見下ろす形で麻里亜の後を継いだ。


「今日は四つ葉の家という施設に行って、裏取りをしてきただけだ。柳さんが、以前玲ちゃんが口にしたクローバーという単語から調べあげてね。すごく手間だったろう。で、僕は柳さんの依頼でここ一月半ほど、一宮いちのみやさんの同僚を当たってきた。こちらはこちらで苦労したが、親しかった人間と五人くらい会った時点ではっきりしたよ」


「……何がです?」


 おれは決して聞きたくなかったが、言わずにはいられなかった。


「一宮さんと玲ちゃんの接点だ。玲ちゃんが言ったとおり、一宮さんが偶然彼女を救い出したという感動的なストーリーの成立を僕も願ったが、事実はそう甘くはなかった。……というより、随分と苦い。玲ちゃんはね、どうも援助交際で一宮さんと知り合ったようなんだ」


 何かが崩れる音が聞こえたような気がした。


 目の奥が熱くなり、おれは視界が暗転したかのような錯覚すら覚えた。

 ソファに腰掛けていなければ、膝から崩れ落ちていたかもしれなかった。


「……私、律子りつこさんにも訊いたんですが、一宮さんはお酒を飲み続けると少し気が大きくなることがあったとか。管理人さんは心当たりがありませんか?そのことと陸奥さんが取材してくれた内容は、一面で符合しそうに思えました」


「つまり、一宮さんは友人らと酒を飲んで、弾みで道端の女の子に声を掛けたらしい、というものだ。具体的には、金額を提示していたところまでは見ていた同僚がいる。その後は別れ別れになってしまい、顛末までは知らないと言う」


 麻里亜と陸奥は、代わる代わるおれを責め立てた。

 おれをどうこうしようというわけではなかったのだが、もはやこれは、玲が責められているのやらおれが責められているのやら、違いを見出すことが難しかった。


「……だったら、何事もなかったのかもしれない」


 こんな反論はすぐに論破されるのだろうとわかっていても、反射的に口から出た。


「それから一月ほど、一宮さんはだいぶ参っていたそうだよ。その後、周りは突然結婚したとは聞かされたが、何を尋ねても決して話そうとしなかったらしい。人事部の人間にもだんまりを通したようで、社内受けは相当悪くなったということだ。ああいう業界だし、祝いごとをそれとして祝わないというのは本来タブーだろう。それは僕の会社でも同じだ。つまり、一宮さんにとっては、玲ちゃんとの結婚は決して他人に誇れる類の美談ではなかったと結論づけられる」


「……四つ葉の家の誰にも、いいえ、一宮さんの会社の誰一人にすらその結婚の詳細を知られていないのは、本当に特異なことだったと思います。玲ちゃんに有利な条件ばかりが重なっていなければ、決して成立しません」


 陸奥の後を受けて麻里亜が総評を述べた。


 つまり、援助交際を盾にした偽装結婚と脅迫が成立する前提として、男の側に決して他人に漏らさないという信念やある程度のタフさがいる。

 苦悩や金銭状態を悟られるような家族がいてはまずい。

 守らねばならない社会的立場や、女を養い続けられるだけの財力も必須。


 何より、女の方にこそ、男が暴発するのをコントロールする利発さや抑制の心が必要とされる。

 そして、事情を知られない用意周到さと、最低限度の関係者を説得するだけの話術やアリバイ作りの巧みさまでもが要求されるはずだ。

 

 それこそ言うは易し、だ。


 麻里亜の仮説を聞いてなお一縷の望みを託すとすれば、一宮氏と玲との間に、出会いこそ屈折してはいたものの、少なからず愛情が芽生えていたという可能性をおいて他になかった。

 そしてその愛情は成就することなく、一宮氏の突発的な死で破れた。


 おれはそういった悲恋の物語を心の底から期待したかった。

 相手は当時十六にも満たなかったわけで、一宮氏が口外できないのも無理はない。

 それが結婚制度の法定年齢であるところの十六歳に達したとして、真っ当な社会人であれば世間体を鑑み、必要最低限の公開に止めることにも納得がいった。


 そう、麻里亜と陸奥の推論は穴だらけなのだ。

 一宮氏が亡くなったいま、彼と玲との間に本当はどんな感情が横たわり、どんな時間を過ごしてきたのか、当事者である玲を除いて客観的に証明できる人間など存在しなかった。


 頭の中でぐるぐると考えでいたおれに、屈み込んで目線を合わせてきた陸奥が、かつてない辛そうな声音で言った。


「……柳さんはね、北条君が玲ちゃんの次の標的になっていると言いたいんだ。何たって衣食住のうち、住は君が担保しているのだから。わかるか?君に罵倒されてまで必死に調べて歩いた柳さんの気持ちが。……正直なところ僕は、君のことなんてそれほど心配していない。何といっても君は成人した大の男なんだからね。だけど、柳さんがあまりに不憫でいじらしかったから、手伝ってしまった。……あとはもう知らん」


 おれは、玲にとっては住む家を確保するための都合の良い人間に過ぎなかったのか。

 玲の好意は全てが計算によるもので、陰で扱いやすい男だなどと嘲笑されていたとでも言うのか。


 もしそうなのだとしても、その事情を知らずに楽しく過ごせていたおれが不幸であったとは、決して思えなかった。

 思いたくはなかった。


 麻里亜に「じゃあ、僕はこれで」と断って、陸奥が一足先に応接から出ていった。

 残された形のおれが麻里亜に何と声を掛けようかと思い始めた先に、陸奥の切羽詰まった声が聞こえてきた。


「あっ、玲ちゃん?ちょっと、待って!」


 それを耳にして、おれは弾かれたように立ち上がった。

 全身全霊、体中の筋肉と骨とを駆使して、「千夜せんやハイツ」の玄関から走り出た。


 途中陸奥を突き飛ばした気もするが、気にしてはいられなかった。

 街灯が辺りを照らしてはいたものの、既に漆黒の闇の帳は落ちていて、人影のひとつも視界に入らなかった。


「玲!おれだ!戻ってこい!おれの話を聞け!玲?」


 おれはあらん限りの力を込めて叫んだ。


 住宅の密集しているこの区画で、それが自殺にも等しい迷惑行為だと承知していた。

 しかし、四の五の言っていられる状況ではなかった。

 ここで玲を逃しては、再び会うことはできないだろうという予感があったのだ。


「玲?玲!戻ってこい!話をしよう?玲!」


 おれは叫び疲れて、その後はただひたすらに近所を走り回った。

 それでも玲の姿は露見当たらず、駅周辺、漫画喫茶、深夜まで営業しているカフェやファストフード、ファミリーレストランと回り続けた。


 同じ場所を何度も見て回った。

 おれは途中幾度も携帯端末に電話やメールをしたが、反応は皆無であった。


 全て徒労に終わり、道端に両手両膝を着いて立ち止まった頃には、朝日がうっすらと昇り始めていた。

 薄明りの空を見ているとなんだか涙が零れそうになった。


 後から聞いた話では、陸奥や麻里亜、帰宅してから事情を聞きつけた明智あけちや律子さんも手分けして捜索に当たっていたらしい。


 結局玲は見つからず、それ以来「千夜ハイツ」に帰ってくることはなかった。




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