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一.邂逅の四月(3)

 その日は雨で、そう言えば雨樋に小さな穴が見つかったのを放置していたかなどと考えながら、大学からの帰路についていた。

 午後五時を回り、空は太陽が分厚い雲に覆われているので薄暗い。


 肌を撫でる風に温さが増して、道行く女性たちの装いがどこか華やかで薄手になってきているのが分かった。

 桜はすっかり散り、公園に植採された沈丁花の葉は雨露に濡れて光沢を見せていた。

 それでも夏の気配は当分先で、程良く快適な気温が、目的なく遠回りに散歩でもさせようかと盛んに誘惑する。


 「千夜せんやハイツ」のエントランスですれ違った明智あけちから「なんかいいことでもあったのか?」と問われた。

 「特に無い」と嘘偽りなく返すと、無精髭だらけの顔ににやりといやらしい笑みを浮かべた。


「応接に行ってみ。大変なことが起きてるぞ」


「なに?喧嘩とか?」


「いいから。俺は久しぶりに大学に顔を出してくる」


「今から?もう七・八限は終わったけど」


 背中を丸めて遠ざかりながら、明智は掲げた右手を軽く振った。


 郵便物を確かめてからキーロックを解除した。

 真っ直ぐ管理人室応接を目指すと扉は開いており、談笑が外まで漏れ聞こえた。

 その様子から、どうやら喧嘩の類ではないと判断できた。


 扉から顔だけを出すと、室内には三人の姿があった。

 麻里亜まりあ白川しらかわ氏、それに面識のない制服姿の少女。

 テーブルの上にはきちんとお茶が出されていたので、麻里亜が応対したに違いなかった。


「あっ、管理人さん」


「麻里亜さん、白川さん。こんばんは。その子は?」


 二人はおれの質問には答えず、代わりに少女自ら椅子から降りて、ぺこりと頭を下げて挨拶してきた。


一宮玲いちのみやれいと言います。はじめまして。ここでお世話になっていた、一宮の妻です」


「これはご丁寧に。管理人の北条千尋ほうじょうちひろで……えっ?今、なんて……」


「一宮の妻で、玲と申します。高校三年生、十八歳です」


「あ、そう……」


 頭がうまく回らずに、おれは震えのきている手で一宮玲を指した。そして白川氏の顔色を窺った。


「奥様は女子高生だそうですよ。全く羨ましい。どういう初期設定をしたら、人生がこんなに楽しいモードになるのですかね」


 麻里亜が「ゲームじゃないんですから」と突っ込みを入れた。

 明智の言った「大変なこと」というのはこれのことか。


「あの、管理人さん。玲ちゃん、一宮さんの部屋で暮らしたいって……」


 おれは訳が分からず、麻里亜の言葉に「はあ」とだけ応じた。

 一宮氏に妻がいて、それが女子高校生で十八だという。


 少女は幼さを残してはいたが、大きくぱっちりした目には力があり、一見して利発そうに見えた。

 肌は雪のように白く、目鼻立ちも相当に整っている。

 今時の女の子らしく小顔で、客観的に見て可憐であった。髪の毛を変に染めていない点にも好意が持てた。


 だが、それら褒められるべき容姿と一宮氏の部屋に住まわせるというのは話が別だ。

 おれは手近な椅子に腰掛け、丁寧に話して聞かせた。


「一宮……玲さん?あのね、ここは独身アパートなんだ。入居時に皆から住民票や戸籍謄本のコピーを提出して貰っている。もし、君が本当に一宮さんの奥さんなんだとしたら、それはまず一宮さんがペナルティを受けることになる。独身と偽っていたわけだからね。入居後に婚姻届を出したなら、確かにこういったケースも有り得る。それでも、もし空き部屋があったとして、君が一宮さんと結婚状態にあるなら契約は出来ない。そういう規則だから」


 頷きながら聞いていた玲が、目に涙を溜めて言った。


「一宮が行方不明になっちゃったから、いま住んでるところを追い出されて……。行くところがなくて、それで……」


「管理人さん。玲ちゃん、天涯孤独の身なんですって。一宮さんしか親類縁者がいないから、ここに来る他なかったって……」


 麻里亜にも玲の感情が伝播したようで、明らかに涙腺が緩くなっているように見えた。


「でも、そう言われても……」


 おれとしては、立場上同情や共感だけで「はいそうですか」とは言えなかった。

 白川氏が追い打ちをかけるように「可哀想ですね」と呟いた。


「とりあえず、緊急避難ということで……ダメですか?」


 麻里亜が必死になって頼んできた。

 玲はというと、潤んだ瞳で口を真一文字に結び、おれの裁可をじっと待っていた。


「……行き先が決まるまでなら。最長一月。あくまで、緊急避難ということで」


「管理人さん!」


「ただし、一宮さんと婚姻関係にあるという証明はして貰う。あと、一宮さんの保証人には君のことを連絡しなくてはならない。玲さん、それでもいいね?」


 これが、おれに出来る最大限の譲歩だった。

 感激した麻里亜が、両手でおれの手を包み込んで感謝の意を示してきたが、これは有り難く受け取ることにした。

 玲は頷いて、鞄の中をまさぐって鍵を取り出した。


「これ、まさか二〇三号室の鍵?」


「そう。何かあったときのためにって。本当に何かあるとは思ってなかったけど……」


「……鍵は後で試すとして、これじゃ一宮さんと結婚していた証にはならないな。他に何かない?」


 玲は考える素振りを見せたが、ややして首を横に振った。


 仕方がないので、おれは執務室に入って一宮氏の保証人へと連絡をつけた。

 回答は素っ気ないもので、一宮氏の保証人にはなったものの、元々遠い親戚なので結婚とか近況までは分からないのだという。

 一宮氏の親兄弟といった近親者は亡くなっているそうで、その線からあたるのも難しそうであった。


 待ち受けていたのか、執務室から出たおれに近寄ってきて、麻里亜が鋭意表明した。


「今夜は私の部屋に玲ちゃんを泊めます。それなら良いですよね?」


「構わないよ。一宮さんの部屋へ入れてあげるには、どうしても関係性の証明がいるけど。玲さん、明日一緒に住民票を取りに行けるかな?」


 玲はにっこり笑った。少しほっとしたのか、涙が一筋だけ頬を伝う。


「うん。学校を早退してくる」


「……そういえば、荷物は?」


「追い出されたから、住んでたところにそのまま……」


 聞けば、ワンフロアの安アパートに暮らしていたそうで、一宮氏が学校の近くで何とか見つけてきたのだという。

 女子高校生が一人で入居できるだけあって法律関係には大分疎いようで、どこからか一宮氏が行方不明になったと聞きつけるや、問答無用で玲を引きずり出したらしい。


 裁判所の強制執行以外の手段でそんな暴挙に出るとは、同じ不動産関係者として許せなかった。

 それこそ立派な犯罪である。


「よし。荷物はおれが取り戻してこよう。玲さん、場所を教えて」


「私は、行きませんからね……」


 白川さんが小声で主張し、麻里亜から白い目で見られていた。


 借りた軽トラックを駆ったおれは、安アパートの家主と問答の末、無事玲の荷物を引き取って「千夜ハイツ」への移送を済ませた。


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