八.忘れられない十二月(2)
「千夜ハイツ」の管理人室応接は土曜の昼にも関わらず、住人たちが集まって賑わいを見せていた。
「玲ちゃん、部屋で勉強した方がいいんじゃないか?ここは騒がし過ぎる」
「千尋。あんた、生意気言ってくれるじゃないの。私は玲ちゃんが入れた紅茶を飲みに来てるだけなんだからね」
宏美が口を尖らせて言った。
テーブルには三つのカップが出ており、それぞれがおれと宏美と白川氏の紅茶で満たされていた。
テーブルの隅では玲が静かに予備校のテキストを広げており、この後夕方からは世界史と英語の講義があるという。
「大丈夫。問題を解いてるだけだから、特別に集中しなくても出来るの」
「そんなものか?」
「管理人さんとは、おつむの程度が違うのではないですか?」
白川氏が新聞を読みながら紅茶を啜り、さらっと辛辣な言葉を投げかけてきた。
確かに、玲の頭の出来がおれと次元が異なることは事実だ。
しかし、それをどうして年がら年中七三分けで白ワイシャツの、職業不詳の三十路男に貶されなければならないのか。
「そうよね……。千尋って、顔とマメさくらいしか取り柄がないしね」
宏美の酷薄な感想に、玲が顔を上げてこちらを窺ってきた。
おれは「いいから、続けなさい」と諭して、宏美には「少し黙ってろ」と言って睨み付けた。
「はいはい」と適当に相槌を打って、宏美は手元のファッション雑誌に目線を落とした。
律子さんは土曜出勤の日で、陸奥と麻里亜も朝から二人で出掛けているようだ。明智は例の会社の同僚とデートということで、先ほど勇んで出ていった。
もうすぐ年の瀬ということで、おれはノートパソコンを開いて「千夜ハイツ」の帳簿を確認していった。
一宮氏の突然の逝去があってドタバタした一年ではあったが、他に住人の移動もなく、総括すれば満足のいく決算となっていた。
来年早々の懸案事項としては、倉庫と化している二〇六号室の整頓と、新規入居者の募集とが挙げられた。
この共有スペースたる応接室の一部を荷物置きとすることで解決出来ないか思案してはいたが、そろそろ決断のときかもしれなかった。
大家である叔父とは、新年会の席で協議する予定だ。
メールソフトを立ち上げ、登録済みの就職情報サイトから届いている案内メールを一通一通開封していった。
早くも会社説明会の通知が散見され、おれの体の奥底が鈍く燃えるように熱くなってきた。
横からおれのパソコンの画面を覗き込み、宏美が綺麗な目を見開いておれの顔をまじまじと見てきた。
「千尋が就職活動かあ……。時の流れって、早いものねえ」
二十五歳の宏美はすでに社会人三年目で、二十三にしてまだ大学三年生のおれは経験値で随分離されていた。
考えてみれば、陸奥は社会人六年目。律子さんに至っては九年にも及び、「千夜ハイツ」は社会で先を行く諸先輩に恵まれた環境だと言えた。
「説明会、これから予約をしようと思うんだけど。どう思う?」
「う~ん。あまり意味ないと思うけどね。どうせホームページの会社案内に書いてある以上のことは言わないし。だったらOBの一人でも訪ねて、現場の本音を取材した方が効率いいわよ。絶対」
「なるほど」
「管理人さん、どこの業界を志望するの?」
玲が顔を上げて、瞳を輝かせて尋ねてきた。完全にペンを持つ手が止まっていた。
「業界、という言い方をすると、陸奥君が寄ってきそうですな」
白川氏がぼそっと言った。マスコミ業界のことなら陸奥に尋ねればいいし、教育関係なら律子さんだ。
宏美は手堅く大手の食品メーカーに勤務していた。
「一応、出版と総合商社の志望だけど。幅広く活動しようとは思ってる」
「……じゃあ、一宮と同じ会社も受けるんだ?」
「ああ、そうだね。でも一宮さんのところは最大手の一角だから、入るのは至難の技だ」
「あの人、ぽややんとして見えて、実は凄かったのね……」
宏美が遠い目をして言った。
白川氏が「確かに、お酒に強かったですし。でも矢崎さんや伊藤さんと違って、あまり仕事の愚痴は言わなかったですね」と、思い出したことをそのままに述べ、宏美から冷たい視線で貫かれていた。
「管理人さんが就職しちゃったら、ここの管理はどうなるの?」
玲はふと気付いたように疑問を投げかけた。
宏美と白川氏が弾かれたようにはっとしておれを見た。
元々片手間のアルバイトとして始めはしたが、五年目ともなると「千夜ハイツ」への愛着は大きくなっていた。
それでもさすがに会社勤めとの両立は無理な話で、再来年のいずれかには結論を出す必要があった。
「まあ、なるようになるでしょ」
腹案はないではなかった。
だが、今はまだ心の内で温めている段階だ。
宏美が「ここの大家さん、千尋の叔父さんだからね。千尋がいてくれたから、すごく助かってるのよ」と話し、白川氏まで「管理人さんはとても気安いですしね」と肯定してくれた。
どんな理由であれ、役に立っていると言われると嬉しかった。
「就職したら、次はいよいよ結婚ですかね。社会人になれば、誰に対しても遠慮なく責任を取れるというものです。世知辛いこのご時世、うかうかしていると、行き遅れる事態になりかねません」
白川氏が予告なく爆弾を投下し、またも宏美が目付きを鋭くした。
彼女はまだ二十五と若いのだが、年頃故に結婚とか出産とかいう言葉には過敏な反応を見せた。
「そんなこと言って。そもそも白川さんはいつ結婚するのよ?」
「矢崎さん、私がいつ結婚したことがないと言いましたか?」
これはいつものパターンだろうと、今回はおれも宏美も疑問を挟むことはしなかった。
玲だけが「どんな相手だったの?」とさほど気にしていない態度で尋ねた。
「私が二十歳の時です。相手はまだ十八でしたね。当然のように周囲には猛反対されたのですが、恥ずかしながら我々は若かったのです。駆け落ち同然で地方に逃げましてね。慎ましい暮らしでも良い、二人で一緒にさえいられれば、というやつです。そんな甘い幻想は一年と持たなかったのですが。今となっては苦い思い出ですよ」
一息に告白して、白川氏が紅茶を飲み干して遠い目をした。
おれたちは皆目を丸くしていた。
「白川さん?それ、いつもの冗談ですよね?」
おれは出来るだけ平静を装って聞いた。
「いいえ。これから社会に巣立つ若人たちの参考になればと思いまして。そうそう、あの時の娘が、ちょうど今の玲さんと同い歳くらいのはずです」
これには玲が表情を明るくさせた。
「管理人さん。結婚するなら十八歳の女子がベストだって」
「今の……そういう話だったか?」
隣の宏美に意見を求めたが、白川氏の話にショックを受け過ぎたようで固まっていた。
無理もない。おれとてディテールを追うのは心臓に悪いと思い、意識して検証しないようにしていたのだ。
「私は二回目だから、いつでもいいよ。管理人さんがその気になるまで待ってるよ」
「玲さん、おめでとうございます」
「ちょっと、白川さん。おれたちの間にまだそんな浮いた話はありませんから」
「まだ?」
「言葉の綾です。何にせよ、軽々しく結婚なんて口にはできません。玲、白川さんをからかうのは止めなさい」
「別にからかってないのに……」
「そうですよ。悔いを残さないためにも、思い立ったが吉日。お互いの気持ちが通じているのなら、例え障壁が多々あっても結婚に踏み切るというのは一つの選択です」
「はいはい」
白川氏の空虚な演説を流して、おれは再びパソコンへと向かった。
会社情報を見るたび、そこに知っている先輩が入社していなかったかと記憶を辿った。
同好会に所属しているわけではないので、ゼミ生の伝手でOBを探してみようかと考えた。
「あ、そうだ。出版社の人、ファッション誌の系統でいいなら紹介してあげるわよ」
宏美が話題を就職活動に戻した。
読者モデルとして活動しているため、確かにその界隈の付き合いはありそうだ。
「助かるよ」
「商社は……玲ちゃんが知ってるんじゃないの?一宮さんの知り合いとか、誰か」
玲は目をぱちくりさせ、少し考えるような素振りを見せたが、舌をぺろっと出して「一宮が誰か名前を言ってなかったか考えたけど。思い出せない……」とすまなそうに答えた。
どのみち名前を聞いたことがある程度では、その人を探し当てることすら困難だ。
何と言っても、一宮氏の勤め先は大手商社で、社員数がそれこそ膨大なのだから。
「女子高校生の嫁を貰った一宮さんですから、社内でも有名人かとは思いますがね。その線から突撃してみれば、意外と話を聞いてくれそうな人間に当たるかもしれませんよ?」
白川氏が真面目に提案してきた。
「一宮さんの遺した嫁の面倒を見ている北条です、とか言って突撃してご覧なさい。もしかしたら上役とかが出てきて、ああ君が一宮君の奥さんを……と、顔を覚えられることになるかもしれない」
「なるほどねえ。白川さんらしい突飛な案だわ。でも、商社って基本は体育会系だから、実際そんなこともあるのかもしれないわね。ね、玲ちゃん?」
宏美がわざわざ玲に同意を求めた。
「はは……。どうなんだろ。私にはわかんないや」
玲の笑みはひきつっていた。
自分と一宮氏がネタにされて、流石に気分を害したのかもしれなかった。
玲はテキストを閉じて、「制服に着替えてくる」と言って出ていった。
遠ざかる玲の小さい背を三人して見送った。
「宏美、白川さん。一宮さんのことを、ちょっと話題にし過ぎかも」
おれは二人に軽く注意した。
二人とも神妙な面持ちで首を縦に振った。
紅茶をもう一杯飲もうと思ったが、ポットはすでに空だった。
なんだか玲に言い出し辛かったので、おれは紅茶を我慢して、蛇口から水を汲んで一息に飲んだ。
今晩にでも、玲のご機嫌とりをしておこうと思った。




