八.忘れられない十二月
八.忘れられない十二月
乾いた寒風が剥き出しの両手を冷たく打った。
いよいよ寒さが厳しくなり、道行く人の装いも本格的に厚みと毛量を増してきた。
おれはマフラーの下で歯をがちがちと噛み合わせ、掲示板の前で明智を待っていた。
しばらくすると、黒のダッフルコートに赤いニット帽で防寒した明智が、大学の管理棟からのっそりと顔を出した。
「よお。中で待ってりゃよかったのに」
「いや。教務課とか学生部とか、苦手で」
「よせやい。お前で苦手なレベルだったら、俺なんて親の仇も同然ということになっちまう」
そう言って、明智ははにかんだ笑顔を見せた。
「……休学の手続きが済んだ。これで大学生活も終わりかと思うと、やっぱ寂しく思えるもんだな」
「休学なんだから、まだ終わりじゃないさ」
「いや、もう戻らない。俺の中では終わってるんだ。たぶん、このまま自動で退学になるだろうから、今日が実質、大学生最終日というわけだな」
「同好会に顔は出す?」
明智は首を横に振った。そもそもここ一年ほど、明智はほとんど活動していた素振りがないので、そういうことなのだろう。
父親との約束通りに年内で大学を休学とした明智は、今ではおれが紹介した測量会社で社員も同然に働いていた。
トレードマークだった無精髭は鳴りを潜め、長髪もやめて気持ちのいい短髪としていた。
それが意外にも、割とイイ男に見えてくるのだから不思議である。
事実、玲も太鼓判を押していた。
「おっ。柳が来たぞ」
麻里亜はおれたち二人の姿を認めるや、小走りで寄ってきた。
ファーが付いた暖かそうなコートに身を包み、ムートンの可愛らしいブーツがよく似合っていた。
「あれ?管理人さん、今日はスーツなんですか?」
「午後は就職セミナーに出るから」
おれは慣れないスーツ姿で、上からトレンチコートを着て手編みのマフラーを巻いていた。
十四時から合同セミナーが予定されていて、そこからがおれの就職活動のスタートとなる。
「そのスーツ、玲ちゃんが見立てたやつだろ?スマートでいいじゃんかよ。よし。三人揃ったことだし、飯に行こうぜ。自ら門出を祝う新境地で、俺が奢ってやろう」
「えっ?明智さん、本当ですか?今月苦しいから、嬉しい」
「任せとけ。冬のボーナスも出るし、奮発するぞ。若人はクリスマスがあって、この時期何かと物入りだろう?」
「何が若人だ」
おれの突っ込みを無視し、明智は先頭に立ってすたすたと歩きだした。
大学近くのレストランで、おれは一番値段が張るリブロースのステーキを選んだ。
明智は呆れ顔でそれを注文し、横で麻里亜がくすくすと笑っていた。
二人はチーズハンバーグのランチにサラダと珈琲を付けていた。
ウッド調で静謐な感じがする店内には学生風の客は見当たらず、上品な身なりの夫婦連れが目立った。
ウェイターも白いシャツにきっちりと蝶ネクタイを締めていて、物腰が落ち着いていた。
これが社会人というものかと、おれは少しだけ怖じ気づいた。
「久しぶりに大学に来ているって聞いたかと思ったら、休学だなんて。……びっくりです」
麻里亜が水を一口飲んで言った。
「いやあ。おれも二十四だし、これで柳と同じ二年生だったから。まあ、これで一区切りってことで、しばらくはがむしゃらに働いてみるよ。二人には、随分と迷惑をかけたしな」
明智は口の端を曲げて、おれと麻里亜に意味深な笑みを投げかけてきた。
麻里亜は「私は別に……」と表情を変えずに応じていた。
料理が出てきて、おれはナイフとフォークを相手に格闘し、重厚な肉を堪能した。
「玲ちゃん、センター試験はどうするって?」
明智が聞いてきた。
「取り敢えず受けるって。センター試験の結果を採用する私立大も多いし、先生からは再三国立大を受けるよう忠告されてるから」
「その方がいいだろ。うちの大学も見栄えは悪くはないけど、あの子のレベルからしちゃ滑り止めのそのまた滑り止めくらいの感覚だろう?自分のレベルに合った大学に行くのが身のためだ」
「珍しく同意見だ」
「北条がいるからうちに来るって言ってるんだし、引導を渡すとしたら、お前しかいねえぞ」
「……わかってるよ」
玲にはことあるごとに聞かせてはいたが、頑固なうえに頭の回転が速いので、おれの説得などほとんど効果はなかった。
東京大学現役合格が手に届く位置にあるため、乾女史からは何度か懇願に近い電話を貰っていて、学校と家庭の双方から攻めてはいたものの、依然玲に陥落の気配はなかった。
「正直、この歳でお父さん役をやることになるとは思わなかった」
「今にも娘に手を出しそうな、怪しいお父さんだけどな」
肉が喉に詰まったので、おれは慌てて水で飲み下した。
抗議しようとした矢先、麻里亜がぼそっと「玲ちゃん、絶対にうちの大学に来ると思います」と呟いた。
明智はその顔を見て、「ふうん」とだけ言って追及しようとはしなかった。
話題は律子さんの近況へと移り、例のインターネットで知り合った男性との付き合いに及んだ。
「え?結局、付き合ってないの?」
おれはひどく間の抜けた声を出してしまった。
「らしいです。今ではいいお友達って感じ、って宏美さんが言ってました。やっぱり草食系は駄目よねって……」
麻里亜が宏美から仕入れたらしき顛末を語りだした。
おれと麻里亜が井の頭公園でデートを尾行した後も、二人の親交は続いていたのだという。
ただし、デートの場所があれ以降も堅苦しく、博物館、鎌倉大仏、絵画展といった具合に昼間の散策が中心で、ゆっくり食事やお酒を楽しむ機会はなかったのだとか。
そう言えば、井の頭公園のあの日は暑かったなと懐かしくも思い出された。
食後の珈琲にミルクと角砂糖を落としながら明智が言った。
「伊藤さん飲める口だし、バーとか連れて行ったら楽しめたと思うけどな」
「相手は彼女いない歴十一年、って書いてあったからな」
「それとバーと、何か関係あるのかよ」
「いや、別に」
「北条よ。矢崎さんと付き合ってたことがあるからって、さては上から見てやがるな?」
「……それはない、と思う」
「本当か?だいたい矢崎さんみたいな上玉が、一時的にとはいえお前を選んだことからして謎だよ」
「……まあ、否定はしないよ」
「明智さんは彼女、作らないの?」
麻里亜がおれをフォローしてくれるようなタイミングで、ブラックのまま珈琲に口をつけて言った。
「いや、俺はね……。いいなと思ってる人はいるんだけど……」
「いるんだ?」
おれと麻里亜が同時に声を上げた。
明智が白状したところによると、相手は会社で経理を担当しているお姉さんだそうだ。
歳は三十より一つか二つ手前で、バツ一らしい。
何でも今度の土曜日に、二人で映画を見に行く約束を取り付けたのだという。
「それは……尾行でもするかな」
「何でだ?」
おれの提案に明智が大声で突っ込みを入れ、言葉の意味をよく知る麻里亜は口に手を当てて笑った。
調子にのってお薦めの恋愛映画などを披露し始めた麻里亜に、顔を上気させた明智が仕返しとばかりに詰め寄った。
「そういう柳の方こそ、最近はとみに陸奥さんと遠出してるみたいじゃんか?陸奥さんが勝手に自慢してくるから、ちょくちょく聞いてるぞ」
麻里亜は押し黙って、苦笑に似たぎこちない笑みを形作った。
おれも口をつぐんでいたので、テーブルを不思議な沈黙が支配した。
明智は「あれ?これ、地雷だった?」と大仰に言って汗を拭く振りをして見せ、伝票をひっ掴むやレジに逃亡してしまった。
時計をちらっと見たおれに、麻里亜が小声で話しかけてきた。
「セミナーは学内ですか?」
「いや、サンシャインビルだよ。近場だから、楽でいい。スーツも着慣れないし」
「似合ってますよ。奇をてらってなくて、清潔感があって良いと思います」
「ありがとう。玲ちゃん様様だよ。一人で選んでたら、恰好をつけ過ぎた気がする。……おれ、自分に自信がないから」
「まあ」
「社会人になったら、もう少ししっかりしないとね」
「管理人さんは充分しっかりしてますよ」
「……だといいんだけど」
言って、おれは明智が会計を済ませた様子を視界の端に収めて、マフラーを首に巻いた。
麻里亜はおれの手元をじっと見つめていて、おそらくマフラーが玲の手編みだと察しているのだろう。
おれは敢えてこちらからそれを説明したりはしなかった。
「……久しぶりに長くお話が出来て、楽しかったです」
それだけ言って、麻里亜は上着を抱えて席を立った。
おれも同じ感想を抱いていたのだが、特に言葉にはせず二人を追いかける形で店を出た。




