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七.十月の明暗(3)

 十月最後の土日は麻里亜まりあ陸奥むつはやしの両者と連日出かけていたこともあり、おれはざわついた心を持て余して「千夜せんやハイツ」の外壁補修と塗装に専念した。

 それら麻里亜の予定を知ってしまったのは、鈴木依子すずきよりこ白川しらかわ氏の情報提供によった。


 塗装とは言っても、本格的に全面を塗り変えるのではなく、あくまで個人でできる範囲の話だ。

 汚れた箇所や破損箇所をケアして、部分的に上から塗り重ねていく。


 おれは二日がかりで地道に作業を進め、日曜の夕方に風が出てきたのでひとまず終了とした。

 補修材で穴埋めして上から塗り込むという単調な作業に没頭していた間だけは、陸奥や林に対する嫉妬心を忘れることができた。


 二階の奥、二〇六号室にあたるスペースが倉庫代わりになっていたので、おれは補修用具をそこに収めた。

 この部屋も借り手が現れれば整理整頓するつもりだったが、現状では内見にすら呼べたものではなかった。


 隣の二〇五号室の宏美ひろみは、今夜は友人宅に泊まると聞いていたので、どたばたと二〇六号室を出入りしても差し支えはなかった。

 れいは模擬試験で遅くなるそうで、明智あけちは仲良くなったらしき現場の作業員たちと出掛けていた。


 律子りつこさんもPTAとの会合で出払っており、陸奥はというとコマーシャル撮影の仕事が入ったらしく、早朝から遠出していた。

 白川氏だけは何の用事か教えてくれなかったものの、昼過ぎにボストンバッグを一つ抱えてどこかへ消えた。


 玲が出掛けに入れていった紅茶もなくなったので、おれは自室の冷蔵庫から牛乳パックを持ってきて、管理人室応接の電子レンジで温めて飲んだ。

 一緒に持ってきたノートパソコンを開き、「千夜ハイツ」の帳簿をつけ、昨日今日で手を入れた補修状況も更新しておいた。


 管理人を始めて五年目になるが、残した記録は積み重なり、何と無しに帳簿を遡ると懐かしさがこみ上げてきた。

 住人記録をざっと眺めただけでも色々な顔が思い起こされた。


 麻里亜が入居してからまだ一年半。

 宏美が二年半で、次いで陸奥の三年と明智の三年半。

 今いる住人の最古参が四年近くになる律子さんと白川氏で、もし健在であれば一宮いちのみや氏が間もなく七年になるはずだった。


 四年と半年のうちに住人が全て入れ替わっているわけで、転出していった面々のその後に関しては、便りがある少数を除いては全く把握していなかった。

 行く末が気になる者もいた。


 将棋のプロ棋士を目指して挫折し、郷里に帰っていった男や、おれと同年代で大学を辞めてホストを本職にした男。

 六本木で出会った外国人と意気投合して、僅か一月という交際期間を経て結婚すると出ていった女。

 毎晩終電過ぎまで残業していて、九州に転勤となった役人の男。


 様々な人間が住んでは去っていった。

 あくまで管理人と住人、もしくは住人同士という関係に過ぎなかったのだが、いつだって別れは寂しかった。

 家賃の支払い期日やゴミ出しのルール、生活騒音といった揉めごとがあった相手でも、それは変わらなかった。


 特殊な経緯で玲が新たな住人となって早半年。

 今の「千夜ハイツ」の面子は、奇跡と言って良い位に親密な関係性を構築できており、これは不遇な玲を皆が気遣うことで一層濃密になったものと解釈できた。


 年齢的にも未熟な玲を皆が見守り、そうして逆に彼女の直向きな姿勢や利発さに皆が刺激を受けているのだ。

 だがその美しい人間関係も、いずれは失われていく儚い夢のような産物であった。


 人生の転機は幾度となく、そして予期せず訪れるものであり、引っ越しもまたそれについて回るのだ。

 それが分かっているからこそ、おれはこうして過去の帳簿を紐解くと、感無量といった心持ちで泣きたくなった。


「ただいま帰りました」


 麻里亜の声が聞こえた。

 管理人室応接のドアが開けられて、彼女の見目麗しい顔が覗いた。


「お帰りなさい」


 言って、おれはノートパソコンを閉じた。

 時刻は七時を回っていた。


 麻里亜は遠慮がちに入ってきて、ポットの中の具合を確かめた。

 おれは「紅茶はもうないんだ。冷蔵庫に牛乳があるから、もしだったらどうぞ」と教えた。

 麻里亜は言われた通りに、冷蔵庫から牛乳を取り出してマグカップへと注ぎ、電子レンジで加熱した。


「パソコン、何を隠したんです?」


 麻里亜が少しだけ警戒の色を露わにして尋ねてきた。


 麻里亜は脱いだ上着を畳んでソファに置き、真っ赤なワンピース姿を披露した。

 ワンピースの丈は短く、すらっとした長い足がとても魅惑的に映った。


「千夜ハイツの帳簿だよ。昔の住人記録を見ていてね。個人情報だから、とっさに隠してしまった」


「管理人さんはもう長いこと管理人をされてるんですよね。昔の住人と連絡を取っていたりするんですか?」


 麻里亜は熱くなったマグカップを取り出して、そのまま椅子に腰掛けた。


「そうだね。でも、今は二人だけかな。パソコンのメールでたまに近況をやりとりしてるよ。気になる人ほど連絡がつかないものでね。プライベートの話なんかしたことがない人もいたし」


「ふつうはそっちでしょうけど。友達から聞いている話だと、大家さんや管理人さんとはほとんど会話らしい会話をしたことがないって」


「かもね。はじめはおれもそうだったし。この部屋を開放してからかな。共有スペースが出来たことで、少しずつ住人間のコミュニケーションが生まれてね。……でも、それを嫌って出ていった人もいたから、一概に良策とは言えないんだろうな」


 おれは閉じられたノートパソコンに目を落とした。

 「干渉しないで欲しかった」と言い残して去っていった女性の姿が脳裏を過った。


 麻里亜は温められたミルクに口をつけ、ほうっと一息を吐いた。


「今日は珍しく誰も出て来ませんね」


「ああ。みんな出掛けていてね。玲ちゃんはそろそろ帰ってくると思うけど」


「今、誰もいないんですか?」


「そうだよ。静かなもんさ」


「……管理人さん。気になっていることがあるんです」


 麻里亜が改まって言った。

 目の色は真剣で、おれは居住まいを正して先を待った。


「なにかな?」


「最近、私を避けていませんか?」


「誰が?」


「管理人さんが、です」


 唐突に言われ、おれは面食らった。


「……ええと、どういうこと?」


「私のことを、全然誘ってくれなくなりましたよね?玲ちゃんや宏美さんとは、よくご飯に行っているみたいですが」


「ああ……確かに、麻里亜さんとはすれ違っているかもしれない。そうは思うけど、別に意識して避けているということはないよ」


 もちろん、これには一部の嘘が混じっていた。

 井の頭公園で不意のキスを咎められてから、おれは麻里亜を以前ほど積極的には誘っていなかった。


 しかし、避けていたという事実も本当になかった。

 もう一度拒絶されることを怖れて、今一つ本気になれなかっただけで、敢えて逃げるほどに後ろ向きなつもりは断じてなかった。


「……本当ですか?もしかして、井の頭公園に行ったときのあれを、気にしているんじゃないかと……」


 麻里亜がずばりと切り込んできた。

 こうなれば、おれも応じざるを得なかった。


「その、全く気にしていないと言えば嘘になるけど……。あれは、おれがマナー違反だった」


「そんなことはありません。現に、私はもう気にしていませんから。私のほうこそ……戸惑っちゃって、わけがわからないことを言ってしまいました。ごめんなさい」


 麻里亜の言を聞くに、あの日の宏美の直感は正しかったことになる。

 やはり女の勘は恐ろしい。


「そんな、おれの方こそ……。とにかく、本当に、麻里亜さんを避けてなんていないよ」


「……でも。玲ちゃんにいくら伝言しても、一向に声が掛からないですし」


「伝言って?」


「夕方とか、玲ちゃんがここにいるときに、もし管理人さんとご飯に行くなら私にも声を掛けてと何度か伝えました。毎回二人だけで行かれていたみたいだから、私が避けられているのかなって……」


 それは一体何のことだろう。

 そういった機会があったとして、おれが麻里亜に声掛けを躊躇う理由はなかった。


 クリスマスの予定が頭の片隅で引っかかりこそすれ、食事の同席を忌避するほどにおれはセンチメンタルではなかった。


 有り得る線としては、玲が麻里亜からの言伝を黙っていたかだ。

 その場合、意図をはかりかねる部分はあるが、玲はおれにしっかりと意思表示をしているわけで、麻里亜とおれの距離を離したいという計算が働いていたとして理解はできた。


 考え込んでいたおれの顔を下から見上げるようにして、麻里亜がテーブルに前のめりになった。

 ワンピースの胸元が大きく開いて見え、おれは生唾を飲み込んだ。


 麻里亜がおれの視線に気付いたようで、じろりと睨んできた。


「……エッチですね。そういうときは目線を外してください。……でもやっぱり、伝わっていなかったんですね」


「やっぱり?」


「管理人さん、覚えています?私が陸奥さんと、陸奥さんの従姉妹さんの結婚祝いを探しに行った日のこと」


「……ああ。確か、ボーリング場ですれ違ったよね」


「あの日、陸奥さんとの用事を終えて、玲ちゃんにメールしたんです。体が空いたから、私も買い物に合流していいかって」


「へえ」


「そうしたら返事がなくて。そうこうしているうちに、林君からボーリング場に管理人さんがいるって連絡がありました。可愛い女の子と一緒にいるって言ってたから、玲ちゃんのことだとすぐにわかりました」


「うん」


「入り口ですれ違った時に玲ちゃんの顔を見て思いました。ああ、この子は私を管理人さんに近付けたくないんだなって」


「……それは考え過ぎだと思うけど」


「女同士、そういうことはわかるんです」


「そういうものなんだ」


「そういうものです」


「玲ちゃんの性格は、そこまで打算的じゃないような気もする。たまたま伝え忘れたとか、何か理由があったんじゃないかな……」


「管理人さん、どうしてそこまで玲ちゃんの肩を持つんです?何か弱みでも握られているんですか?」


 似たような台詞をかつて陸奥から言われたものだが、まさか当事者である麻里亜からぶつけられるとは思ってもみなかった。

 話はあべこべで、この場合おれと麻里亜と陸奥とでは、三角関係すら成立していないように思われた。


 そもそもからして、おれの好意のベクトルは果たして玲に向いているのだろうか。


「いや……もてないおれのために、クリスマスの予定を空けておいてくれるらしい、というくらいのものだね。弱みというほどではない」


「いつから、管理人さんがもてないことになったんですか?それにまだ十月なのに、クリスマスの予定を考えるにはいくら何でも早過ぎます」


 麻里亜が力説した。

 ぽかんとしているおれに、麻里亜は何をか閃いたものか、目を細めて続けた。


「……私、陸奥さんからクリスマスイブに誘われていますが、聞いてます?」


「……一応」


「どんなふうに?」


「イルミネーションを見に行って、そのあと夜景が見えるレストランを予約してあるとか」


「それ、誰から聞きました?たぶんこの話を知っているのは、当事者以外では玲ちゃんだけかと思います。彼女、その場にいたので。ここですけど」


「まあ、そうなんだろうね」


「私、その場ではっきりと言いました。今から二ヶ月以上先の予定なんて、約束は出来ませんと」


「そう……」


 その答え自体は朗報であったのだが、別の角度から見れば不幸な現実が浮かび上がるので、いまいち喜べなかった。

 おれは玲に対して、余計な疑念を抱きたくなかった。


 おれは空になった手元のコップを弄び、どうしたものかと思い悩んだ。

 麻里亜がじっとおれの顔を窺っているのは分かったが、有り体に言っておれは今の状況に困っていた。


「……それで、管理人さんは玲ちゃんとクリスマスを一緒に過ごすんですよね?」


 凄みすら漂わせて、麻里亜は真顔でおれと向き合った。


「一応、保護者だからね。プレゼントにはテディベアでもあげようかな、と。受験の前祝いも兼ねておこうかと思って。ほら、玲ちゃんには家族がいないし」


「年末年始は、一人ぼっちになっちゃいますしね」


「それが……何となく、おれの実家に来たいみたいなことを匂わされていて。叔父も事情を知らないわけじゃなし、そうなったらそうなったでまあ仕方ないかなと」


「それは変です。明智さんとか、そう言ってはいませんでしたか?」


「言われた」


「あの子のやり方は、少々常軌を逸してます。独り立ちしているのなら、まだ分かります。でも、高校生で居候の身にしては加減が無さ過ぎる」


 麻里亜はそう言って、またも烈しい視線を寄越した。

 おれは一方的に疲れ切り、考えることが鬱陶しくなりかけていた。


 男と女、何故こうもいがみ合ったり裏を読んだりと神経をすり減らさなければならないのか。

 物事をもう少しシンプルに捉えて、好きでも嫌いでもない中間の関係が成立し得るのであれば、それほど不幸なこともなく人付き合いが出来るのではないか。


 我慢が限界を迎え、おれは盛大に溜め息を漏らした。

 麻里亜の瞳に一瞬電光が走ったかのように見えた。

 あながち錯覚とも言えなかった。


「なるほど。よくわかりました」


「……ええと、何が?」


 麻里亜は勢いよく椅子から立つと、ソファに置いてあった上着を手に取ってドアの前まで歩いた。

 そして、おれと目を合わせようとはせずに言い放った。


「管理人さんが、私の話を聞く気がないことが、です」


 ドアは大きな音を立てて閉められた。

 この日を境に、麻里亜の方からおれに話しかけてくることはめっきり減った。



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