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七.十月の明暗

七.十月の明暗



 明智あけちから昼食に誘われていたので、おれは管理人室応接で彼を待っていた。


 朝一番にれいが入れたと思われる紅茶を啜りながら、さてどこの店に行くものかと思案した。

 午後にはなぜか玲の買い物に付き添うことになっていて、それを考慮に入れると駅の近辺に出た方が都合は良かった。


 ややして明智が手を挙げて入ってきた。

 明智は「おれも一杯」とポットから紅茶を汲んで、一息ついた。


 工事現場での仕事がだんだん板に付いてきたようで、不健康そうだった彼の体は一回り大きくなったように見えた。

 肌も小麦色に焼けていて、文芸同好会に所属していた頃の明智の面影はなかった。

 最近では週に五日、みっちりと働いているらしい。


「たまの日曜だし、がっつり食うか?」


 明智が歯をむき出しにして笑顔で言った。


「別にいいけど。やっぱり毎日体を動かしていると、腹が減るかい?」


「ああ。飯が本当に旨いよ。日が出てるうちに仕事して、日が暮れたら帰って飯食って寝て。……カジノで朝までバーテンやってた頃が遠い昔みたいだ。思い返してみても、あの生活は不健康そのものだったな」


「そうか」


「これでもお前には感謝してるんだぜ。今月の給料も出たし、今日は奢ってやろうじゃないの」


「そう言えば、あの会社の給料日は十五日だったな。一昨日出たのか。なら遠慮なくご馳走になるとする」


「おう。で、どこに行くよ?」


 おれが候補を挙げようとしたタイミングで、開いているドアから陸奥むつが顔を出した。


 陸奥は襟が付いた白いシャツの上にグレーのジャケットを着込んで、フォーマルに近い清潔な服装にまとめていた。

 髪もきちんとセットされていて、洒落た大人の男性像を隙なく演出しているように思えた。


「陸奥さん。おはようございます」


 明智が挨拶した。

 おれが紅茶を勧めると、陸奥は「すぐ出るから、結構」と返した。


「陸奥さん、ジャケットなんか着ちゃって。もしかしてデートですか?」


「明智君、なかなか鋭いね。これからやなぎさんと待ち合わせでね。そういうわけで北条ほうじょう君、今日は僕が柳さんをエスコートしてくるから。それじゃ」


 それだけ言って、陸奥が勝ち誇った顔をして出ていった。

 おれはテーブルに突っ伏したまま、黙って紅茶を一口啜った。


 明智はそんなおれを一瞥して、やはり何も言わずに紅茶のお代わりを入れ始めた。

 カップの半ばまで注いだところでポットの中身が空になり、おれに「なくなったぞ」と表明してみせた。


「玲ちゃんはお出かけ中。ちなみにお前と飯食った後で、買い物に同行しなきゃならん」


「相変わらず玲ちゃんとは仲良しだな。この際、付き合っちゃったら?玲ちゃんの入れる紅茶、美味しいし」


「紅茶で決めろって言うのか?」


「そんなことは言ってないだろ」


「どう聞いても、そうとしかとれないけどな」


「あの子、お前のことマジだぜ。可愛いし健気だし。年下が嫌だっていうわけでもないなら、文句ないと思うんだけどな。バツ一なのが問題か?」


「そんなことも言ってない」


「じゃあ、何が不満なわけ?」


「不満なんてないさ。ただ、不満がないから付き合うとか、好かれているから付き合うっていうのは、理由が消極的に過ぎるだろう?」


「考え過ぎだって。外から見たら、お前と玲ちゃん、相性抜群に思えるけど」


律子りつこさんにも言われた。……一緒にいて窮屈なことはないよ。確かに」


「んで、陸奥さんをそのまま行かせちゃっていいのか?」


「……どうしろと?」


「先週の土曜日も、陸奥さんと柳がディナーだかに行くところとすれ違ったぜ。お前、敵がデートを重ねてるってのに、悠長に構えてる場合か?」


 明智はカップに残った紅茶を一気に飲み干して、すっくと立ち上がった。


「陸奥さんの後でもつけるか?」


「しない」


 おれは即答した。


 何があっても、もう尾行などという真似はしたくなかった。

 それに麻里亜まりあが陸奥の誘いにのっている以上、そこにおれが口を差し挟む余地はない。


 明智は肩を竦め、テーブルに尻を乗せておれを見下ろした。


「……まあ、お前さんの火付きが悪いのは、今に始まったことじゃないけどよ。柳のこと、諦めたとかか?」


「……ふむ。あまり考えなくなったことは、確かさ」


 麻里亜を好きでなくなったということでは決してないのだが、以前よりもおれの熱意が薄れたことは間違いなかった。

 どうもおれに芽がないようだと読み取れて以来、無理に誘って彼女と一緒に過ごそうというような欲求は影を潜めていた。


 この一月、大学の食堂で偶然一緒になる以外は、特に麻里亜と二人きりで接触することもなかった。


「……お前がそれでいいなら、いいや。さあ、どこ行く?駅前だと、陸奥さんと柳に鉢合わせするんじゃないか?」


「別に気にはしないさ。本当に。そうだな、どこにするかな……」


 おれが三軒ほど候補店を提示したところで、白川しらかわ氏がふらっと入室してきた。

 白のワイシャツに整った七三分けという彼のスタイルは、今日も変わらなかった。


「白川さん、おはようっス。玲ちゃん印の紅茶は完売御礼ですよ」


「ああそう。君たち、飲み過ぎなんじゃないですか?管理人さん、一人一杯に限定するようお達しを出すべきかと思いますが」


 白川氏は言って、物足りなさ気な表情を浮かべて椅子に腰掛けた。

 手には新聞を握っているので、おそらく紅茶を飲みながら読み耽るつもりだったのだろう。


「ところで、部屋の前で柳さんが聞き耳を立てていたようですけれど。気付きませんでしたか?」


 白川氏が、今日は天気が良いですねとでも言うような調子でさらりと言った。

 おれと明智は思わず顔を見合わせた。


「白川さん。それ、いつのことです?」


「たった今まで、です。彼女が半開きのドア越しに中を窺っていたようだから、私も近付くのを遠慮していました。おかげで紅茶を飲みそびれたわけですが……」


 白川氏は本当に残念そうにポットを眺めた。


「……だってよ。北条、どうする?」


 明智が真面目な声音で尋ねてきた。

 それに対しておれは首を横に振って応じ、駅前に出ようと明智に促した。


「あの、玲ちゃんに新しい紅茶をお願いしていただけると……」


 白川さんが、連れだって部屋を出るおれたちの背にそう声をかけてきた。

 おれは「後で伝えておきます」と返した。


 表に出ると、一陣の突風がおれの全身に吹き付けた。

 つい顔を背けると、隣で明智が難しい顔をしていた。


「北条。やっぱり柳を追え。どう考えても、あれを聞かれてそのままってのはまずい。お前、絶対後悔することになるぞ。……早く、走れ!」


「……そんなこと言ったって、どこへさ?」


「陸奥さんのことだから……車で出掛けるなら一緒にここを出るだろうし。バラバラに出たってことは、どこかで待ち合わせるとして……まず駅前だろ。そら、行け」


 明智に背中を押し出され、気乗りはしなかったが池袋駅へと向かって走り出した。


 陸奥と麻里亜が駐車場で待ち合わせているとしたら逆方向に当たるのだが、この際あれこれ考えないことにした。

 駅への経路に関しては大通りに出るまで幾通りも存在し、陸奥にせよ麻里亜にせよ、どの道を使うかといったことはわからなかった。


 敢えて最短ルートを行ったのはただの勘でしかなかったのだが、幸運にもすぐに麻里亜の後ろ姿を捉えることができた。

 背中で風になびく黒髪がおれの心を躍動させるが、一方で向かう足は自然と緩慢になった。

 声を掛けるとして、一体何をきっかけに話せばいいというのか。


 おれの心の声など露届いていないに違いなかったが、奇跡的に麻里亜が振り返っておれの姿を認めた。

 おれは臆して引き返したくなるも、かろうじて踏みとどまって、早足に麻里亜との距離を詰めた。


「……管理人さん」


「おはよう。陸奥さんと出掛けるんだって?」


「……はい。あの、管理人さんは?」


 先ほどの白川氏の話では、麻里亜はドアの外からおれと明智の会話を聞いていたはずで、おれたちが昼食に出掛けようとしていたことを知った上での質問だと思われた。

 敢えてその点は気にせず、都合の良いシナリオで答えることにした。


「誰も相手にしてくれないから、駅前で一人でお昼にしようと思って」


「明智さんとか、玲ちゃんは……」


「みんな忙しいみたい。おれは午後も暇だから、玲ちゃんの買い物に付き合うくらいしか予定はないんだ」


「そうですか……」


 表情を見せずに麻里亜が言った。

 少しだけ調子が暗いようではあったが、取り立てて感情的な様子は見られなかった。

 明智の心配は取り越し苦労だったに相違なかった。


 麻里亜の服装はグレー系のセーターと白のプリーツスカートで落ち着いた感じにまとめられており、紺と白のチェック柄のストールをふわっと首に巻いて彩り鮮やかに見せていた。

 軽く口紅も引いており、可憐な中にワンポイントで大人っぽい魅力を覗かせていた。


「今日もお洒落な感じでいいね。ストールがよく似合ってる。ちょっと風は出てきたけど、晴れててお出掛け日和だ」


 おれは素直な感想を述べた。

 麻里亜が言葉も無しに頷いた。


 大通りに出るまでは頑張って一緒に歩こうと思い、おれはえいっと気合を入れて麻里亜の隣に並んだ。


 十字路で猫がてくてくと目の前を渡っていくので、撫でられないかとおれが二、三歩近寄ると、急ぎ足で逃げられてしまった。

 諦めて麻里亜の側に戻り、「失敗失敗」と呟いてその顔を盗み見ると、麻里亜は硬い表情で前方を見据えていた。


「管理人さん。私、今日は別にデートとかではありませんから」


「うん?」


「何か誤解があるといけないので」


 相変わらずこちらを見ずに、前を向いたままで麻里亜が言った。


「陸奥さんの従姉妹さんがご結婚されるそうで、そのお祝いを一緒に見繕って欲しいと頼まれただけです」


 世間一般ではそれをデートと言うような気もしたが、おれは敢えて指摘しなかった。


「そう」


「……興味ないですよね、こんな話。……ただ、私もそれくらいしか予定がないので、言ってみました」


 それなら、と喉元まで声は出かかったが、思うところがあって口をつぐんだ。

 玲との買い物を終えてから麻里亜と逢い引きするというのはどうにも気が引けたし、三人で合流するのもそれはそれで誠実ではないように思われた。


 代わりにおれが口を滑らせたのは、模範解答から程遠いであろうエピソードだった。


「だいぶ前のことになるけど。宏美と付き合い始めたきっかけがね、彼女のお兄さんへの誕生日プレゼントを一緒に探したことなんだ。……ふと思い出した」


「そうだったんですね……。管理人さん、もしよかったら、後で……」


 麻里亜がそこまで言いかけたところで、大通りの方から「柳さ~ん」という陸奥の声が聞こえてきた。

 遠目にも陸奥が手を振っている様子がよくわかった。


 陸奥のいるところまで歩いて、おれは二人に「それじゃ、ここで」と挨拶して道を違えた。

 二人は駅の方角へと歩いて行った。


 明智に電話をすると、「律子さんの部屋で矢崎やざきさんとお好み焼きをご馳走になってる。お前も来るか?広島出身の先生から、秘伝の粉をたくさん貰ったんだってさ。美味いぞ」と応答があり、おれはここまで来て「千夜せんやハイツ」に戻る気も起きず、ひとまず行きつけの定食屋を目指すことにした。



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