六.手探りの九月(3)
ボートにでも乗られたらどうしようかと固唾をのんで見守っていたが、どうやら二人は散歩道を歩き続ける選択をしたようで、おれはほっと胸を撫で下ろした。
暑さは依然厳しく、炎天下に蝉の怒声が頭上で延々交錯する。
アスファルトの照り返しに苦しんでいると、池のカモが平然とした様子でこちらを窺っていた。
隣の麻里亜は日傘を差して帽子を目深に被り、紫外線を避けているのか律子さんの目を惑わそうとしているのか、おれの経験則ではいまいち判然としなかった。
井の頭公園の駅前が思いの外閑散としていたので、律子さんの到着を待つ間に尾行の失敗を何度も想像したものだが、ここまでは何とかなってしまっていた。
デートで待ち合わせるにしても、殺人的な暑さのこの日にわざわざ公園を選択する男に、おれは陰ながら苛立ちを募らせた。
麻里亜もきっと同じ気持ちに違いなかった。
「どこに行くんですかね?」
木立の陰に隠れるようにして、律子さんたちを遠目に眺めながら麻里亜が言った。
「このコースなら、たぶん園内の茶屋じゃないかな」
「そんなのあるんですね……」
「かき氷とか、食べたくなってきたな」
時間と共にハンカチは重くなり、もはや用を為さなくなっていた。
汗にまみれた身体は、このまま池で泳いでも差し支えがない状態にあると言えた。
日焼けを警戒して露出を抑えた麻里亜はおれ以上に深刻なはずで、時折漏らす吐息には熱気がこもっているように思われた。
いっそ尾行を投げ出して、このまま麻里亜とプールにでも行ってしまおうかとおれは何度も考えた。
宏美への義理は初見の二人を観察したことで果たした気もするし、いい歳をした大人の付き合いに、他人が口を差し挟んだところで益はないと理解していた。
出掛けに玲から持たされた水筒に手を付け、おれは冷たい紅茶で喉を潤した。
麻里亜が「私にもください」と催促するので、そのまま手渡してやった。
次におれが飲んだら間接キスになるが、麻里亜はそれを許すだろうかなどという次元の低い想念が、ぐるぐると頭の中を回っていた。
もしやおれは、熱中症にでもかかる過程にあるのかもしれなかった。
離れて確認しただけだが、律子さんの相手の男は、トゥインクルマリアージュのプロフィールに掲載されていた写真通りの外見だった。
会話が聞き取れる位置にはいないため、他に評価する術はなかった。
このまま二人が茶屋に寄ったとして、おれたちまで付いていくというのはどう考えても危な過ぎた。
発見されては元も子もない。
やはりこんなことは止めて、明智にくっついて工事現場にでも出ておくべきだったかと、後悔の念が俺の胸中にじわじわと広がった。
宏美がくれたサービスショットに喝采を送ったとして、その後に強烈なしっぺ返しを受けているのだから、貸し借りを無しと判断してもよかったのではないか。
「管理人さん。一休み、しませんか?」
麻里亜が木陰のベンチを指して言った。
正直おれはだれてきていたので異論もなく、二人してベンチに腰掛けた。
麻里亜の座り位置にハンカチを敷いてやろうと思ったものだが、汗でびしょびしょに濡れたそれを広げてはたと気付き、断念せざるを得なかった。
その様子を見ていた麻里亜がくすくすと笑った。
ベンチは日陰になっていたせいか、何とか座ることができる熱さであった。
「ふう。管理人さん、すごい汗ですね。顔が真っ赤ですよ」
「慣れないことはするものじゃないね……。まだ来てすぐなのに、もうへとへとだ」
「本当に。律子さんに気付かれるんじゃないかって、どきどきしてました」
「気付かれたら、怒るだろうなあ」
「当たり前です。休日に後なんてつけられたら、普通の女性は怒ります」
「麻里亜さんなら、どうする?おれがこっそり後をつけていったりしたら」
「絶対に許しませんね。絶交します」
「……ひっぱたく?」
「ひっぱたきます」
麻里亜は即答した。
宏美には、くれぐれも麻里亜の尾行など計画しないよう含めておく必要がありそうだ。
「……だから、今日来ちゃったことを悔やんでます」
「麻里亜さんも?おれもだ。……ひと休みしたら、気付かれないうちにそっと帰ろう」
おれの提案に麻里亜が頷いた。
どうせなら、このまま麻里亜と吉祥寺あたりをうろついて帰るのも良い。
そんなことを考えながら、しばらくベンチに腰掛けて雑談に興じていた。
蝉の声音を忘れ、一時落ち着いた時間を過ごした。
麻里亜が「あっ」と声を上げたかと思うと、いきなりおれに覆い被さってきた。
おれは気が動転してしまい、全く動けなかった。
「管理人さん、律子さんたちが戻ってきちゃいました……」
麻里亜が囁いた。
両腕をおれの首の後ろに回し、抱きついてカップルを装う腹なのだろう。
麻里亜の息遣いがそばで感じられ、おれの心臓は大きく脈打ち出した。
舗装された歩道からほど近いベンチのため、下手に隠すことは致命的に思われた。
やるからには、徹底する必要があった。
麻里亜の頭越しに覗くと、二人はすぐ近くにまで並んで歩いて来ていた。
「来た。麻里亜さん、おれの顔を見られる恐れがあるから、顔を重ねて」
「は、はい」
麻里亜の顔が真っ正面から接近した。
おれは、そのまま唇をそっと重ねた。
麻里亜の目が見開かれた。
そのままの姿勢で、律子さんたちがゆっくりとした足取りで通り過ぎていくのを待ち続けた。
一分かそこらだったはずだが、この時間は永遠に続くのではないかと思うほどに長く感じられた。
頭がぼーっとしてきた。過ぎ去った二人を横目で確認して、惜しみながらも唇を離した。
少し距離をとって、麻里亜がきっと鋭い目でおれを見やった。
「……管理人さん。なんでキスしたんですか?」
「その、我慢がならなくて……」
「認めません。なんで、キスなんてしたんです?」
「麻里亜さんのことが、好きだから」
「……認められません。なんで、いま、キスをしたんです?」
「……いや、その方が、自然に見えるかと思って……とか?」
「なら結構です。……あくまで、事故ですから」
強ばっていた麻里亜の表情が少しだけ和らいだ。
腰を上げて、「では、私たちも退散しましょう」と促してきた。
おれの心中は釈然としなかった。
麻里亜は以前からおれの気持ちを知っていたはずで、それでも先ほどのキスを緊急避難としか認めなかった。
それはつまり、おれに脈はないということではないか。
キスをしたことで、結果的に死刑宣告が早まっただけなのだとすれば、おれはただの道化でしかなかった。
律子さんたちとの距離に注意を払いながら、おれは麻里亜と連れだって駅へと進路を定めた。
道中、玲から電話があったため、吉祥寺への立ち寄りを切り出す機会も逸し、そのまま池袋への帰路についた。
その夜、宏美の部屋へ報告に行こうにも、彼女は午後十一時を過ぎても戻らなかった。
麻里亜は「デートって言ってましたからね」と早々に諦めて部屋へと戻り、おれは管理人室応接で白川氏と二人、だらだらと紅茶を飲んで時間を潰した。
途中玲が顔を出して、夏期講習の最終日に行われた模擬試験の結果を報告してきたが、数字が飛び抜けて優れていること以外、あまり頭に入ってこなかった。
白川氏が真顔で、「これなら東大にも入れるんじゃないですか?」としきりに勧めていた。
「白川さんは、どこの大学を卒業してるの?」
「私ですか?どこに見えます?」
「う~ん……仏教系とか?なんとなく、ミッション系ではない気がする」
「防衛大学校」
「え?」
その発言には、呆けていたおれの脳味噌も刺激を受け、玲と同じように声を上げてしまった。
「白川さん、防衛大の出なの?」
「いいえ。言ってみたかっただけです。ちなみに、航空大学校にも興味がありました」
「……玲ちゃん、聞くだけ無駄だよ」
「でも、管理人さん。白川さんって見た目に反して色々と知識はあるし、実はちゃんとした学歴があるんじゃないかな」
「見た目に反して、というくだりを本人の前で言いますか」
「あ、ごめんなさい」
玲は舌をぺろっと出して謝罪し、おれの前に成績表を滑らせてきた。
「ね。来年からは、管理人さんの後輩になれそうだよ。ついでに、明智さんや麻里亜さんの後輩でもあるし」
「……乾先生から、もっと上を目指すよう言われそうだな。私立は私立で好きに受けて、国公立にも挑戦してみたら?」
「練習のため、センター試験は受けてみようと思うんだけど」
「その結果を待ってからでも遅くはない、か」
白川氏が「赤本あげましょうか?」と玲に打診して、「本物かどうかは兎も角、白川さんのじゃ古いから嫌です」とけんもほろろに断られていた。
二人のやりとりをぼんやりと眺めている間も、おれの頭の中には昼間麻里亜との間で起きたあれこれが去来していた。
玲が入れてくれた紅茶の温かみは荒みがちなおれの心を慰め、宏美の帰りを待ち続けられるだけの忍耐力を授けてくれた。
「あ~あ。今日はどこにも行かなかったから、体がなまっちゃった。マッサージでもして寝ようかな」
「私で良ければお手伝いしますが」
「結構です。だったら管理人さんに手伝って貰うから」
「……おれは無理。宏美に用があるんだ」
「え~。柔軟だけでも、駄目?」
「駄目」
「ちなみに、柔軟以外には何があるんですか?」
白川氏の質問は無視して、玲が頬を膨らませておれを非難した。
冷たくしようという意図があるわけではないが、今夜は優しくして接してやれる自信がいま一つ持てなかった。
十二時を回り、陸奥が帰宅がてらに顔を出して挨拶していった。
「今日は柳さんと一緒だったらしいね」とかまをかけてきたので、「宏美に言い渡された用事を済ませに、少し一緒に外出しただけです」と表層部分だけを答えておいた。
宏美が帰ってきたのはそのすぐ後で、「ここじゃなんだし、部屋に来て」と言って、しっかりした足取りで階段を上がっていった。
部屋に帰るなり、宏美は男物のTシャツ一丁という無防備な部屋着を選択した。
「なに辛気くさい顔してんの?麻里亜にちょっかいだして、ふられでもした?」
「ああ……」
「え……本当に?あんたが?」
宏美はひどく驚いて見せた。
Tシャツの丈は長いので、見方によってはワンピースを着ているように見えなくもなかった。
おれが黙っていると、宏美はふうと長く息を吐いて、冷蔵庫からいつものように缶ビールを出してきた。
おれは何も言わずに手渡された一本のプルトップを開けた。
宏美はあと何時間かすれば出勤の支度をしなければならないはずで、長居するのも悪いと思い、昼間律子さんをつけ回して得られた情報を簡潔に伝えた。
「……別に、どうでもいいわ」
「それはないだろう?わざわざ真っ昼間から、井の頭公園を歩き回ったんだぞ」
宏美はビールに口をつけ、ぼそっと「……あんたが麻里亜と一緒に出掛けられるようにしてあげただけよ」とこぼした。
それきり、おれと目を合わせようとはしなかった。
「珍しく、がっついてしまった。柄でもないことをするもんじゃないな」
「……あの子が純情なだけよ」
「まあ、ゆっくりやるとするさ」
「千尋……たぶん、悪いことじゃない。麻里亜は戸惑っているだけなんだと思う」
「はは。今夜は、優しいんだな」
特に興味はなかったが、おれは歌舞伎の感想などを聞いてビールが空くまでの間を持たせた。
飲み終えた缶を潰しておれが立ち上がると、「余計なこと、しちゃった?」と宏美から弱々しい問いが投げ掛けられた。
おれは「そんなことはないさ」とだけ返して、そのまま部屋を辞した。
実際のところ、宏美は純粋にデートの機会を提供してくれたわけで、麻里亜としっくりこないのは全ておれの責任だった。
麻里亜には、「宏美には報告しておいた」とだけメールを送り、おれはさっさと布団を被って不貞寝することにした。
朝方まで全く寝付けずに、結局は昼過ぎまで寝過ごす羽目になった。




