六.手探りの九月(2)
宏美の部屋は以前と変わっておらず、クッションやカーテンと言った生地ものの色彩が豊かで、緑やら黄色やらとにかく視界を明るく染め上げていた。
衣類などはあちこちに綺麗に吊るされており、ちょっとしたオブジェのようにも見えた。
室内に漂うシトラス系の香りが鼻をくすぐり、ふと懐かしさを覚えた。
テーブルを取っ払って、ベッドの脇から宏美、おれ、麻里亜、律子さんの四人が車座になって集っていた。
四人の中心には宏美のタブレットが無造作に床に置かれていた。
夜も八時を過ぎていたので各人ラフな服装になっており、おれや宏美はジャージの上下、律子さんはデニムのミニに薄地のパーカーで済ませていた。
麻里亜は身体のラインも明らかなタイトなTシャツにショートパンツという、いかにも目のやり場に困る格好をしていた。
ちなみに、宏美はメイクまであらかた落としていた。
おほん、と律子さんがひとつ咳払いをして、集まった面々に言った。
「あの……何だか宏美に呼び出されて……。みなさん、ご迷惑をおかけします……」
「いやいや。律っちゃん、何言ってんの。そうじゃないでしょう?今週の日曜に見合いする彼、本当に大丈夫かって話」
「見合い?」
おれは疑問をそのまま声に出した。
「そうよ。トゥインクルマリアージュで申し込みがあった男と。日曜の昼に、井の頭公園で」
「ちょっと、宏美!そんなことまで管理人さんに言わないで」
律子さんが慌てた調子で宏美に抗議した。
麻里亜はある程度まで宏美から聞かされていたようで、「千夜ハイツ」女性陣の間でこの問題を共有化していたらしい。
「それで、怪しくないかと思って千尋に登録を依頼したってわけ。早速ログインしてみて」
宏美に言われるがまま、おれは宏美のタブレットを手に取り、日中に登録したIDとパスワードでログインした。
すぐにおれの専用画面が表示された。
宏美や律子さんが興味深そうに液晶画面をタップして、細部まで見物し始めた。
「……あんた、これ。目が大きくて、長い黒髪で、年下、ピアノが弾ける……って。まんま、麻里亜のことじゃないの」
「え、それは……一緒に、登録していたから」
なぜかおれではなく麻里亜が応じた。
顔を真っ赤にしているので、それなりにおれのことを意識しているようにも見えた。
「おれのプロフィールより、律子さんの相手のことだろう?」
「そうそう。で、登録してどう思った?男側に都合がよかったりしない?」
「都合がいいよ。何といっても、そこまで書いていておれは証明書の類を何一つ提出してるわけじゃないからね。職業だろうが年収だろうが、結婚履歴だって誤魔化せるんじゃないかな」
宏美への答えであったが、おれは律子さんに向かって言った。
彼女がこのサイト内でアクセスしてきた相手と現実で会うことに、おれも一抹の不安を感じていた。
「だって。律っちゃん。やっぱり怪しいから、会うのは止めたら?」
「でも、メールの文面は紳士的だし。写真を見る限り、爽やかな感じで……」
おれと麻里亜は相手の男を知らないため、ユーザーを律子さんとしてサイトにログインし直してもらい、男のプロフィールを出してもらった。
「ちなみに、律子さんのプロフィールも軽く拝見しました。すごく誠実な印象を受けましたよ」
律子さんが目を丸くして、おれに掴みかからんばかりにずいっと顔を寄せてきた。
眼鏡のレンズ奥で、瞳が潤んで光って見えた。
「管理人さん!どこまで……どこまで見たの?」
「え、いや……本当に、さらっとですけど」
「……彼氏いない歴は?」
「……二年」
おれは律子さんに首を絞められた。
宏美がゲラゲラと笑った。
麻里亜がタブレットを操作して、律子さんにメールを送ってきた相手の情報を精査していった。
「メーカーの研究職。三十七歳。大学院卒。年収六百万円。趣味は将棋と登山。東京で両親と同居中。彼女いない歴十一年。……なんだか、読んでいる限りでは良い人そうですね」
写真を拡大してみると、明らかに人の良さそうな、スーツ姿の木訥とした中年男性がそこにいた。
「宏美。この人なら、大丈夫なんじゃないか?」
「何でよ」
「何というか、プロフィールを読む限り、あまりがつがつしてない印象を受ける」
「あんたと似てるからって、贔屓してるんじゃないでしょうね?」
「そんなことはないさ」
「えーと、管理人さん。そんなことないのはどっち?がつがつしてない方か、それとも贔屓してる方?」
律子さんが質問を挟んだ。
「後者ですかね」
「ふうん。麻里亜さん、がつがつしてない男性ってどうかしら?」
ノータイムでの律子さんの振りに、麻里亜が答えに窮して目を泳がせた。
宏美はというと、目を皿にして画面上のプロフィールを隅々まで検閲していた。
「私は……あまりしつこくない男性の方が……」
「あら。なら、陸奥さんとかは駄目?管理人さん、これは私にあまりしつこく迫らないでっていうメッセージよ。気を付けてね」
律子さんのよくわからない激励を受け、おれは傍らの麻里亜に見せつけるように、力強く頷いてみせた。
横で見ていた宏美がふんと鼻を鳴らして口を開いた。
「話を戻すけど、ここに書かれた情報が嘘かもしれないって言ったのはあんたでしょ。プロフィールなんて参考になるの?」
「そうだけどさ。写真は嘘つけないわけだし」
「……当日、別人みたいな奴が来たら?」
「それこそ、約束と違うみたいな口上で帰っても問題ないんじゃ……」
おれの反論に宏美が「う~ん」と唸って考え込んだ。
麻里亜が「律子さんはどう考えてるんですか?」と尋ねた。
「恥ずかしい話だけど、もしこの通りの人なら会ってみてもいいかな、って。最近は出会いもあまりないしね。……まあ、それで約束しちゃったわけだけれど」
律子さんは少しだけ頬を染めて言った。
「律っちゃん、何弱気なこと言ってるの。顔はいいんだし、まだ女盛りなんだから。出会いなんていくらでもあるわよ。もっと女子力を磨いて表に出なきゃ」
「……上下ジャージで、男の前ですっぴんを晒してる女子がそれを言うか?」
おれが突っ込むと、宏美は「あんたがアウトオブ眼中なだけ」と冷たく言い放った。
しんとしてしまった空気を嫌ってか、麻里亜が「まあ、昔付き合っていた同士なら、すっぴんでも……ねえ?」と訳の分からないフォローを入れてきた。
「日曜、どうするんです?」
答えはほとんどわかっていたが、おれは一応律子さんに聞いてみた。
「行くわ。約束だから」
仏頂面の宏美が胡座をかいて頭を掻き、「ま、仕方ないか」と呟いた。
「危ないと思ったら、逃げてきてください。写真と違うとか、独身の証明書類を持参して来ないとか」
「ありがとう。管理人さん」
律子さんが透き通った笑顔を見せた。
唇から覗く白い歯が清廉に感じられた。
こんなに可愛い人が、どうしてインターネットを介してお見合いなんぞする必要があるのだろうと不思議に思った。
「今みたいなミニを履いて行っちゃダメだからね。いい?千尋なんて、さっきからずっと律っちゃんのパンツにばかり目がいってるんだから」
「宏美!」
「何さ。本当のことでしょ」
「管理人さん……?」
麻里亜と律子さんが同時に問いかけてきた。
おれは絶句していたが、それは理不尽だという怒りではなく、宏美の観察眼に恐れ入ったからであった。
彼女は昔から目端がよく利いたものだ。
律子さんを先に帰して、宏美が改めておれと麻里亜にビールを差し出した。
麻里亜は「お酒はちょっと……」と遠慮しようとしたが、そこは上手な宏美に押し切られた。
三人で乾杯して、宏美はベッドサイドに背を預けたまま本題に入った。
「そういうわけで。日曜日、律っちゃんを尾行しなさい」
やはりそうきたか、と俺は思った。
麻里亜は目を丸くしていたが、それはビールの味に対する反応なのか、宏美の無理筋なオーダーによるものかは判別がつかなかった。
「宏美……なんでそうまでするんだ?律子さんはいい大人だろう?自分のことは自分で出来るさ」
「こと恋愛に関してだけは、律っちゃんは圧倒的に経験が不足してるの。危ない男かどうか、見極めをつけてさえくれればそれでいいから」
「そんな簡単に見分けがつくなら苦労はないよ。見た目だけなら、白川さんだって真面目な紳士だ」
「そんなはずないでしょ。ねえ、麻里亜?白川さんてどう見える?」
顔を真っ赤にした麻里亜が「ええと……神経質そうな感じ?」と答え、「そうよ。やっぱりキモいわよね?」と宏美に半ば強引に誘導されていた。
差し込まれた麻里亜がついに「まあ……気持ち悪いと言えば、言えなくもないです。海でもじっと見られていたような……」と宏美になびいた。
おれのせいで始まってしまった、もはや見た目とは無関係な白川氏批判を聴講しつつ、おれはビールで咽を鳴らした。
「ちょっと、あんたなにビール飲んでくつろいでんの?しかも他人の部屋で」
「……そもそも、何でおれが探偵紛いのことをしなきゃならない?」
「あんたと麻里亜の二人で、よ。学生なんだから、日曜くらい暇でしょ。私は色々と忙しいのよ」
「色々って、何だよ?」
「何、興味あるの?脱毛エステと足裏マッサージと美容院とネイルサロンと歌舞伎座とバーに予定があるの」
「歌舞伎座って……?」
「うるっさいわね。デートよ、デート。私だってそのくらい、いいでしょう?」
宏美の目が据わってきた。
よく見ると、すでにビールの缶を三本空けていた。
宏美がデートに出かけることは結構だが、それとおれが休日に律子さんを尾行することとは何の関連性もない。
ましてや麻里亜がそんなことを承服するはずがなかった。
「それは、別にいいさ。おれが言いたいのは、何でおれが……」
「やりましょうか」
おれの話を遮って麻里亜が言った。
その目は充血していて、いつの間にか二本目の缶を開けていた。
「麻里亜さん……?」
「そういうことよ。麻里亜、よく言ったわ。日曜日は頼むわね」
宏美が麻里亜の隣にすり寄っていって、彼女の頭を撫で始めた。
麻里亜も満更ではないという顔をして、缶をぐいっと傾けた。
二人ともまだそれほどの酒量ではないはずだが、充分に出来上がって見えた。
そろそろ潮時かと思いおれが静かに腰を浮かしかけたところ、目聡くも宏美に見つかって糾弾された。
おれはげんなりして座り直し、こうなったら自棄だと三本目の缶を開けた。
「なによ。なにが不満なのよ?麻里亜と二人でデートできるんだから、いいでしょ。それともなに?パートナーがご不満?」
「そうじゃないさ。……それに、尾行はデートじゃない」
「また細かいことに拘る……。仕方ないわね」
予告無しに、宏美が麻里亜のTシャツを一気に捲り上げた。
万歳をする形になり、麻里亜の白い肌がおれの視界いっぱいに飛び込んできた。
自分の瞳孔が広がる様を自覚できた気すらした。
そして、一拍置いて麻里亜の悲鳴が鼓膜をつんざいた。
「ふふふ。千尋、これはサービス。日曜はよろしく」
「……あのなあ」
「嬉しいくせに。すっごく幸せそうな顔してる。この顔は、間違いなくあれの……」
「おい、余計なことを言うな」
宏美の言動がなにやら怪しい向きを見せ始めたので封じにかかるも、柳眉を逆立てた麻里亜がおれの目の前に立ちはだかった。
間髪を入れず、麻里亜は問答無用でおれの頬を張った。
宏美の部屋に乾いた音が鳴り響いた。




