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五.接近の八月

五.接近の八月



 陸奥むつは愛車のアウディを「千夜せんやハイツ」のエントランス前に付けていた。


 昨日手入れをしたと思しき銀のボディは磨きに磨き抜かれていて、目映いばかりに八月の陽光を反射していた。

 普段は近場の賃貸駐車場に停めているはずのそれは、中型車ながらに迫力満点で、陸奥の男としての格を強烈にアピールしているように思えた。


 その隣に、おれが運転する国産のワンボックスカーがよたよたと駐車した。

 こちらは当然レンタカーで、分かってはいたが今更ながらに陸奥との経済格差を痛感した。


 エントランスから出てきた住人たちが、わいわい騒ぎながら乗車する先を吟味していた。


「どう考えても、乗るならこっちよね」


 宏美ひろみが陸奥の乗る銀のアウディを指して、皮肉気に口の端を持ち上げた。

 律子りつこさんもそれに頷いてみせ、陸奥が白い歯を見せて笑った。


「どうぞどうぞ、お嬢様方。中も綺麗にしてありますので」


「それにしても暑いわ。陸奥さん、冷房ガンガンに利かせてよね」


 宏美がハンカチで額の汗を拭いながら言った。

 律子さんは反対に涼しい顔をして、「あら、冷やし過ぎると体によくないのよ。気温マイナス十度くらいが丁度いいんじゃない?」と陸奥に同意を求めた。

 女性陣から詰め寄られ、陸奥の歯の白さに少しだけ陰りが生じたように感じられた。 


 白川しらかわ氏は率先して、「私は広い方が車酔いしないので、管理人さんの車で」と言ってこちらに乗り込んできた。


「私も、管理人さんの運転する車で行くね」


 れいも駆け寄って来て、助手席のドアを開けた。

 おれは「後ろ、すごく広いんだけど」と言ったが聞き入れられず、玲はちょこんと助手席に収まった。


 次いで明智あけちも「陸奥さんだって、わざわざ男を乗せたくはないだろうしな」と、そそくさとワンボックスの後ろに陣取った。


やなぎさん、助手席へどうぞ。今日はアロマも完備してますので、快適な旅路を約束しますよ。少なくとも、北条君よりは運転経験も豊富ですから」


 陸奥が自信満々といった体で麻里亜まりあを勧誘していた。


 おれは運転席から降りて、皆の荷物を集めてワンボックスの後部スペースへと積み込み始めた。

 陸奥から「すまんね。でも、そっちはスペースに余裕があるだろうから。頼むよ」と貶されたような感謝のようなよくわからない言葉を掛けられた。


 立ち止まったままの麻里亜がちらりとこちらを窺ったようにも見えたが、おれは特に気にしない振りをして運転席に戻った。

 サイドブレーキを下ろして、ブレーキを踏んだままギアをニュートラルからドライブに入れた。


「なんで麻里亜さんを誘わないの?まだ迷ってるみたいだけど」


「別に。四対四くらいに分かれた方が自然だろう?」


 おれは非難するような玲の目線から逃れ、前方を見据えて言った。


「こっちは女の子が一人。玲ちゃんのおかげで、ぎりぎり完封負けだけは免れたな」


「私は玲さん派ですから、こちらの勝ちとも言えます。それに、車は断然広い方が良い」


 明智と白川氏が後部座席から、余計な慰めの言葉を寄越した。


 麻里亜を迎え入れたい気持ちは当然あったが、玲が助手席に座ってしまったため、後ろには明智と白川氏がいるのみである。

 道中白川氏から延々と話し掛けられでもする事態を考えれば、断然向こうの方が居心地は良いはずだ。


 それに後ろに宏美と律子さんが座している以上、陸奥も無闇に麻里亜を口説くことは出来ないだろうという計算もあった。


「管理人さんの車、せっかく大きいのに……」


「玲ちゃん、無駄だよ。こいつはいい格好しいだから。柳を誘って、向こうに乗られでもしたらプライドが傷つくから。怖いんだよ」


「私は女子高生たる玲さんさえいてくれれば、満足ですが」


「セクハラ発言は止めてください」


 玲が珍しくもぴしゃりと言った。

 明智はくっくっと笑い、追撃した。


「白川さん、似たようなことをこの間のモデルさんにも言ってませんでした?あなたが隣にいればそれで満足です、みたいな」


「覚えていませんね」


「意外と軟派なんですね、白川さんて。やっぱり、管理人さんみたいに真面目な男性がいいな、私は」


「こいつ、そんなに真面目かね?」


「寡黙で頑固な男性ほどむっつりだという研究結果があるとかないとか」


 三人が好き勝手喋っている間に、躊躇っていた麻里亜が陸奥の隣に乗り込んだ。

 これで一同出発と相成った。二泊三日の温泉旅行であった。


「さあ、熱海に向けて出発するぞ」


 言って、おれはブレーキから足を離して、アウディの後ろにつける形で車を発進させた。



 宿に着いて荷を解き、夜の宴会までは各々自由に過ごした。


 おれたちが泊まる二部屋ともに窓からは海が見え、青い波濤を静かに眺めていると猛暑を一時忘れることができた。

 和室タイプの部屋に充満するい草の清潔な香りがひどく懐かしく、郷愁を誘った。


 窓際の籐椅子に腰掛けて静かにしていたところ、うつらうつらと舟を漕いでしまい、おれはいつの間にか眠ってしまった。

 目が覚めると日は暮れかけており、室内では明智が一人転がって高鼾をかいていた。


 明智はこのところ件の測量会社に通い詰めで、肌は真っ黒に日焼けしていた。

 まだ一月と経っていないはずだが、肉体のみならず精神的にも強靱さが身に付きつつあるように思われた。


 午後六時になったので宴会場へ集合し、旬の山菜と新鮮な魚が盛られた会席膳に舌鼓を打った。

 おれはビールを瓶で一本だけ堪能した。


 すでに温泉に浸かってきた者もおり、女性陣などは浴衣姿でくつろいでいた。


北条ほうじょう、温泉に行こうぜ」


 部屋で浴衣に着替え、手拭いやタオルを準備しながら明智が言った。

 おれはもう少し酔いを醒ましてから行くと言って断り、ロビーに移動してソファに埋もれたまま心身をだらしなく弛緩させた。

 黒の合成皮革のソファではあったが、弾力が弱くなっているのが丁度よく、適度に全身が沈んで心地好かった。


 すでに八時を回っていたので、たまに受付カウンター内に従業員が顔を出す以外は人影がなかった。

 叔父には先ほど連絡を入れ、初日に問題はなかったと報告済みだ。


 何せ「千夜ハイツ」住人一同の旅行である。

 管理人同行とはいえ前代未聞の企画なわけで、大家の許諾や定期連絡は欠かせなかった。

 未成年も参加している以上、管理人たるおれがしっかりしていなければ、事故の芽を未然に摘むことなど叶わない。


「管理人さん、いるの?」


 玲が顔を出した。湯上がりで肌が上気していて、浴衣を着ていることもあって年齢以上に大人びて見えた。

 麻里亜が一緒で、二人して温泉から上がったところだろう。

 美少女二人の浴衣姿の組み合わせは、旅館の薄暗いロビーを背景としても実に絵になった。


「玲ちゃん……それ、浴衣が左前になってる。衿の合わせが逆だよ」


 おれが指摘すると、玲だけでなく麻里亜までが「えっ?嘘」と胸元を見直した。

 麻里亜は正しい向きになっていたのだが、玲がいきなり帯を外し始めた。

 それを見て、麻里亜が慌てて制止した。


「ちょっと、玲ちゃん。管理人さんもいるんだし、ここで帯を解かないで」


 玲の所作を見ていたおれの動悸が早くなった。

 玲は渋々帯を締め直し、「部屋で直してくる」と言って急ぎ足で戻って行った。


 麻里亜がひとつ息を吐いた。

 おれはそれを見て軽く吹き出し、笑いは麻里亜にも伝染した。


 場の空気が随分と和やかになった。


「管理人さん。玲ちゃんのこと、凝視してましたね?」


「あ、いや……。見ていたというか、飛び込んできたというか」


「私がいなかったら、放っておいて全部見ようとしたでしょう」


「それは、ないよ。それはない……」


「ま、私には関係ないことですけれど」


 発言の内容だけをとれば厳しくはあったが、麻里亜の目は笑っていた。


 紺地に白で桔梗があしらわれた躍動感のある浴衣は、麻里亜によく似合っていた。

 結わずに背に垂らしている艶やかな髪や、浴衣の衿から覗く白い柔肌など、女性の色気を惜しげもなく発散させていた。


 取り立てて疚しいことはないのだが、おれは麻里亜の雰囲気に圧されて目線を外した。


 玲はまだ戻って来ないのだろうかと気にしていると、麻里亜が予告なしに近寄ってきて隣に座った。

 おれと同じように、ソファに背を預けてリラックスしていた。


「管理人さん。私、明智さんと玲ちゃんから全部聞きました。明智さん、ひどく申し訳なさそうにしてました」


「……そう。そんなところだろうな」


 それだけで、ピアノの発表会当日の件だろうと分かった。

 あれほど口止めをしたのに、「千夜ハイツ」にはお人好しが多すぎる。


「玲ちゃんも、管理人さんと明智さんには絶対に内緒でって、すごい剣幕で談判に来て。あ、だからこれは秘密にしておいてくださいね。ここだけの話です」


「ここだけの話、ね」


「でもね、管理人さん。私、悲しかった。ショックでした。私の招待席だけ一席、最前列で空っぽだったんですから。一年間しっかり練習を積んできたし、あの日に合わせてコンディションも整えました。ドレスも気合いを入れて選んで、お化粧もばっちりして。それで、本番であれ?おかしいぞって」


「本当にごめん……」


「……でも、管理人さんが理由なく欠席するはずがないって、心のどこかでは分かっていたんです。現に開演前に花束を持って来てくれていましたし、陸奥さんにも連絡を入れていて。分かってはいたんですが、管理人さんにすっぽかされた気がして、悲しくて感情の抑えが効きませんでした。すみませんでした」


「麻里亜さん……」


 おれは隣の麻里亜を向いて、自然と彼女の髪に手を伸ばしかけた。

 麻里亜の瞳がその動きを追っているのが分かったが、妨げる素振りは見られなかった。


 おれの掌が麻里亜の黒髪を軽くすくい上げ、そのまま手触りを楽しんだ。

 麻里亜の吐息がすぐそばではっきりと感じられた。


 白くきめの細かい肌をした頬を撫でてみようかと思案したその時、パタパタと近付いてくる足音が聞こえた。

 おれは全てを断念して、自分でも驚くべき速さで手と体を引っ込めた。


 玲と陸奥がロビーに顔を出した。


「浴衣、直して来たよ」


「柳さん。こんなところにいらっしゃいましたか。男性陣の部屋で二次会を始めますから、是非いらしてください」


「は、はい」


「管理人さん、二次会は陸奥さんの奢りだって。さすが、大手に勤めてるだけあって太っ腹だね」


「はは。酒や肴の持ち込みが可能だったんでね。あれ、北条君。まだ温泉に入ってないの?ここの湯は結構なものだよ。十時までは入れるから、行っておくといい」


「……そうします」


 おれが応じると、麻里亜から先にそそくさと立ち上がって、陸奥について部屋へと戻って行った。


 玲は「管理人さん、早く温泉行かないと、みんな酔っ払って先に寝ちゃうよ」とおれを急かし、腕を引っ張ってソファから引っ張り起こした。

 おれはしばらく惚けたまま、玲に手を引かれるがままに部屋へと戻った。


 その後一人で温泉に浸かった。

 ふと先ほどの出来事を反芻し、誰もいない湯殿で「やった!」と小さく声に出して拳を握り締めた。



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