四.七月の雨(3)
テーブルには上品なバッグとおれが持参した薔薇の花束とが置かれ、麻里亜は椅子にきちんと着席していた。
ローズピンクのサテン地のドレスは、麻里亜の美しさを大人っぽく引き立てていた。
白いカーディガンを羽織って銀のネックレスを着けたその艶姿を一目見て、おれは思わずほうっと息を吐いてしまう。
ソファには制服姿の玲が寝そべっていて、麻里亜に「席、外そうか?」と聞いて首を横に振られていた。
「ごめんなさい。言い訳のしようもないです」
おれは入室早々に頭を下げ、ただただ謝り倒した。
スーツの背中や裾はびしょ濡れで、動くたびに肌に張り付いて気持ちが悪かった。
何度目かの謝罪の後、麻里亜がやっと目線をこちらにくれて言った。
「……何で帰っちゃったんです?受付の方から、ひどく焦っていたって聞きました」
「うん」
「あと、陸奥さんからもメールを貰いました。急な代役を頼まれたけれど、と。管理人さん、答えてください」
いつになく真摯な麻里亜の瞳に気圧され、危うく何もかもを白状しそうになった。
それでもおれは、帰宅途上に考えていた回答そのままで通した。
「どうしても外せない急用ができて。演奏前に連絡したら差し障るかと思って、受付に言伝を……」
「答えになっていません。急用って、何ですか?」
「それだけは言えない。……言えないけれど、どうしても外せなかった。麻里亜さんには悪いことをしたと思っています」
「……言えないんですね。管理人さん、もしかして酔っぱらってます?」
「……はい」
「そうですか。わかりました」
麻里亜が立ち上がった。口を引き結び、今までに見たことがないような怒りを湛えた表情をしていた。
「ちょっと待って!麻里亜さん、管理人さんは……」
「玲!」
おれは玲の言を封じた。
麻里亜が怪訝そうにおれと玲のやりとりを眺め、すぐに興味を失ったように視線を切って、無言で退出していった。
おれはそのまま立ち尽くしていた。
頬のひとつも張られた方が幾分かマシだっただろう。
麻里亜は決して怒りを爆発させることなくいってしまった。
それはおれに愛想をつかしたに等しいことで、テーブルに残された花束がそれを如実に物語っていた。
「管理人さん、馬鹿だよ……」
玲はそれだけを言って、行くあてを失った薔薇を手にとって部屋へと帰っていった。
おれはからからに渇いた喉を湿らそうとポットを手に取るが、無情にも中身は空だった。
マーケティング論の講義が終わり、教授が速やかに退出していく。
それを最後まで待たず、学生たちは雪崩をうって我先にと出口へ殺到した。
昼休みになるので、学生食堂や大学付近でランチタイムを満喫しようというのだろう。
二百人以上が収容可能な大教室は、座席から教壇までがなだらかに傾斜した造りで、おれはその中央付近に最後まで居残っていた。
「北条、昼飯行かないか~」
「すまん。ちょっと作業していくから」
おれは友人たちの誘いに断りを入れ、鞄からテキストとノートを取り出して机に並べた。
夏休みが間近に迫り、大抵の講義は今週で課程を終了する。
そして来週からはいよいよ前期末試験が始まる。
試験がテスト形式ではなくレポート提出を以って代える講義は複数あり、今夕に一件の提出締め切りを控えていた。
こつこつ準備はしてきたものの、昨晩徹夜をしても結論部分だけがうまくまとまらず、こうして寸暇を惜しんで作成に励むしかなかった。
この現状を把握している玲が弁当を持たせてくれたので、おれはテキストを眺めながら昼食にありついた。
玲の卵焼きは絶品で、おれの好きな甘辛な味付けと出汁の深みが見事に調和していた。
玲が作る食事の典型として、栄養バランスのとれた食材使用が挙げられる。主食、副菜、主菜、乳製品に果物と満遍なく摂れるよう配慮がなされていた。
「管理人さん。もしかして、税務会計のレポートをやっているんですか?」
その不意打ちにぎょっとして、ご飯を口にしたまま咳き込んだ。
声の主はもちろん同じ経済学部の後輩である麻里亜だった。
麻里亜はゆったりしたピンクの半袖シャツにデニムという動き易そうなスタイルで、鞄を肩に掛けて頭上からおれの机を覗き込んだ。
麻里亜がおれと同じマーケティング論を履修していることは知っていたが、ここ数日は事務的な会話以外に挨拶すら交わせていなかったので、敢えて姿を探しはしていなかった。
おれは気付けにと水筒の紅茶を喉に流し込み、ご飯を一気に飲み下した。
紅茶の良い香りがおれの乱れた心を落ち着かせた。
「うん。まだ終わってなくてね。あと少しなんだ」
それには何も答えず、麻里亜はじっとおれの手元あたりを見つめていた。
レポートはおれの手書きであり、下手な字に呆れられたものかと勘繰った。
「麻里亜~。行くよ」
教室の入り口から麻里亜を呼ぶ声が上がった。
「今行くから。管理人さん、それじゃ」
麻里亜が踵を返して小走りに去っていった。
以前であれば「頑張ってくださいね」くらいの激励はくれていた気がした。
どうしても冷たい応対をされているように思ってしまうのは、ただの被害妄想なのだろうか。
おれは深く考えるのを止め、分からない用語をテキストで調べながら、鮭の切り身を口に放った。




