四.七月の雨
四.七月の雨
麻里亜がピアノの発表会に出演するということで、おれは栄誉ある観覧の招待を受けた。
練馬にあるそこそこ大箱のホールで演奏するそうで、縁者特権として最前列の席が用意されているらしい。
クラシックに造詣が深いわけではなかったが、来週がただ待ち遠しかった。
「僕は納得がいかない。なぜ君なんだ?北条君、まさか管理人の権限を悪用して、何か柳さんの弱味でも握ったんじゃないだろうね?」
「陸奥さん、おれがそんなことをするはずないでしょう。おれの誠意が通じたんじゃないですか?」
「絶対におかしい……何でだ?」
管理人室応接で、テーブルの向かいに座る陸奥が首を捻っていた。
おれは余裕をもってそれを眺めやり、紅茶の味と香りを楽しんでいた。
七月を迎えて空気の湿り気が急速に増し、空調はせっせと乾いた冷風を紡ぎ出していた。
外は梅雨の直中で、傘を手放せないことから自然と外出に及び腰となっていた。
今も土曜の昼下がりだが、住人たちはこうして暇つぶしにと集まっていた。
「平日の夜だからでしょう?あなたも私も、仕事中よ」
ソファに沈んで雑誌を読みふけっていた律子さんが、さらりと言った。
律子さんが指摘した点はおれも考えないではなかった。
しかし、陸奥の性格なら仕事を抜け出してでも顔を出しそうなもので、麻里亜がそれとわかっていながらおれにチケットをくれたということなら、アドバンテージは俄然こちらにあった。
先月宏美が開いてくれたモデル仲間との懇親会以来、おれと麻里亜の距離が少しずつ縮まっているように思えたのは、決して気のせいではなかったのだ。
「伊藤さん。僕はね、確かに仕事を一生懸命やり遂げるタイプではあります。でもね、柳さんが誘ってくれたなら、どうにか都合をつけて観に行きますよ。それが、公演が平日だからといって、ぷらぷらしている学生に負けるなんて考えたくもない」
「陸奥さん、安心してください。大役はおれがきちんと果たしてみせます。薔薇の花束でも持参して行きますから」
「……君はドラマの見すぎだ。くそ……何ということだ」
「そんなに深刻な話じゃないと思うけどね……。まあ、あなたたちからしたら大事なのはわからないでもないけど」
「伊藤さん。僕は真面目に社会人をしていますし、自画自賛になりますが他人より多少はスマートなつもりです。どうして柳さんは、僕と北条君を同列に扱うのですかね?」
「さあ……」
律子さんは、苦悩する陸奥の問いかけを関心が無さそうに流してソファを立った。
そしてテーブル上のポットを傾けるが、紅茶はもう切れていた。
「あら、紅茶が無くなっちゃった。管理人さん、お紅茶くださいな」
「パックの麦茶じゃ駄目ですか?それ、毎度玲ちゃんが入れてるんです」
「もう紅茶じゃないと落ち着かなくなっちゃって。玲ちゃん、いるかな?」
「夕方から予備校なんで、まだいるかもしれない」
「……北条君、僕も熱い紅茶が飲みたい」
「わかりました。ちょっと玲ちゃんを呼んできます」
おれは二人に言って、管理人室を出て二階へと上がった。
二〇三号室の呼び鈴を鳴らすと、「は~い」という可愛い応答があって、制服姿の玲が顔を出した。
「管理人さん。こんにちは」
「こんにちは。土曜なのに、やっぱり制服で行くんだ?」
「一応校則にあるから。どうしたの?やっぱりお昼ご飯、作る?」
「いや、応接の紅茶がなくなっちゃって。みんな、玲ちゃんの入れた紅茶が好きみたいだ」
玲は嬉しそうな笑顔を見せて、「すぐ入れるね」と言ってパタパタと室内に戻っていった。
しばらく廊下で待っていると、二〇二号室のドアが開き、麻里亜が顔だけひょっこり出してきた。
一見ノーメイクのようだが、それでも透き通るような肌と大きな瞳が魅力的だ。
「管理人さん、おはようございます」
「おはよう。寝起きかい?」
「やだ。わかりますよね?午前の講義が休講って分かっていたから。昨晩は夜更かししちゃって」
「来週、楽しみにしてるよ」
「はい。今日も練習、頑張ってきますね」
玲が紅茶セットを持って出てきたので、麻里亜との会話を切り上げて二人で管理人室へと向かった。
三人で玲の入れた紅茶を啜り、弛緩した時間を過ごしていた。
律子さんは夕方から出かけるそうで、陸奥は珍しく一日暇らしい。
確か明智は今夜もカジノでアルバイトだったはずで、日中は寝ているに違いない。
「玲ちゃん、いい子よねえ。ここの掃除もすっかりあの子任せなんでしょ?」
「……面目ないです」
管理人室応接の片付けや掃除を玲が率先してやってくれるので、おれも彼女に甘えて怠けていたことは事実だ。
「別に管理人さんを責めているんじゃないのよ?気のつくいい子だなってだけ。いまどき珍しいわよ。私も教師をやっている手前、たくさんの生徒を見てきたから」
「そうですね。いい子です」
「正直、ぐらつく?」
「律子さん……」
「そうだ」
テーブルに突っ伏していた陸奥が突然顔を上げると、大声を出した。
律子さんが「陸奥さん?」と恐る恐る尋ねた。
「北条君、伊藤さん。来月は夏休みがとれます。旅行にでも行きましょう。千夜ハイツ慰安旅行。住人みんなで」
「慰安旅行……?」
「そうだ。宿泊先は、僕の会社の提携保養所を使えば格安で見つかる。基本的に住人は学生が多いから、スケジュールも組みやすいだろうし」
「そうねえ。私と陸奥さん、それに宏美の三人分を合わせればいいわけね?」
「はい。一宮さんの件もありますし、せっかく玲ちゃんが加わったので、パーッと騒ぐのもいいんじゃないかと。折角の夏ですから」
陸奥も律子さんも白川氏の存在には言及しておらず、おれとて彼が一体いつ仕事をしているものか把握できていないため、迂闊には突っ込めなかった。
住人皆で行く旅行というのはナイスアイデアのように思えた。
普段酒が飲めない玲を交えて盛り上がれる機会など、早々はないからだ。
「では、住人の参加意向の確認とスケジュール調整はおれがやりますよ。回覧板を作っておきます」
「頼む。僕は宿泊先のリストアップをしておくから」
「陸奥さん、行き先決まったら、旅程の作成は私も手伝うわ。修学旅行で慣れているもの」
「是非お願いしましょう」
「あ、陸奥さん。宿泊費が概算で分かったら、教えてください。回覧板に落とし込みますんで」
「ん?君はなにを言っているんだ」
「いや、費用を……」
陸奥がやれやれといった体で肩を竦ませて言った。
「そんなものは、我々社会人に任せておけばいいよ。大学生や高校生に払わせるつもりなんてないさ」
「そういうこと。たまにはお姉さんたちに任せなさい。ね、陸奥さん。それに、どうせ保養所なら安いんでしょ?」
「そういうことです」
二人は悪戯っぽく笑みを浮かべた。
おれは感謝を表明して、大人二人のカップに紅茶をなみなみと注いだ。




