三.十九歳の六月(2)
「千夜ハイツ」に帰ると、管理人室応接には白川氏が一人ぽつんと居るのみで、おれは戸締まりをしてから「おやすみなさい」と声をかけた。
自室に入ろうとしたその時、階段を降りてくる麻里亜に呼び止められた。
少しだけ息が荒く、申し訳なさそうな顔をして麻里亜は言った。
「管理人さん、昨日は行けなくてすみませんでした」
一瞬何のことかと考えてすぐに、昨晩の飲み会の勧誘に対する謝罪だと思い至った。
律子さんと小ぢんまり開催していたのだが、二人とも早々に酔っぱらってしまい、誰かを呼び出そうと麻里亜や明智にメールを入れていた。
しかし、結局最後まで律子さんと差しで飲み明かすことになった。
「昨日の飲み会のことなら、全然気にしてないよ」
「でも私、最近管理人さんのお誘いを断ってばかりで……」
「急なセッティングが相次いで、逆に申し訳ないと思ってるくらいさ」
「……なので、さっき宏美さんからあった話、絶対参加しますから」
「なにそれ?」
「あの……宏美さんのモデル仲間と、千夜ハイツの男性陣とで親睦会を開くって」
なるほど。宏美は麻里亜を連れ出すことで、おれとの貸し借りを無しにしたいようだ。
おれに異存はないが、「千夜ハイツ」の男性となると、必然的に陸奥が面子に入ることは間違いない。
相手が皆社会人であることを考えれば、本業が学生のおれや明智だけでは荷が重いことは確かだろう。
陸奥の力を借りることは仕方ないとして、そこに麻里亜がいてはややこしいことになりはしないか。
「あれ、本当にやるんだな……」
「モデルさんを三人連れてくるって言ってました。みんな綺麗なんだろうなあ」
「麻里亜さんだって、モデルだと言われても全く違和感ないよ」
「そんなわけありません。でも、ありがとうございます」
「綺麗どころだけで四人も五人も集まったら、おれはきっとまともに口もきけない」
「ふふ。どうするんです?」
「背筋を伸ばして、気合い……」
「え?管理人さん、何か言いました?」
「いや……」
「何ですか、その楽しそうな親睦会とやらは?」
唐突に、白川氏がおれと麻里亜の間に割って入った。
一〇一号室は管理人室のすぐ隣のため、こちらの会話が筒抜けだったのだろう。
白川氏は七三に分けられた髪を手櫛で整えて、「当然私も参加させてもらえるのでしょうね?」と麻里亜に詰め寄った。
三人で立ち話を続けるのも不毛に思え、おれは「明日宏美に聞いておきますから。それじゃ、おやすみなさい」と断って、早々に一〇一号室へと引っ込んだ。
ダイニングバーの個室で催されたその会は、思ったより打ち解けた空気を醸し出していた。
陸奥が話上手でエスコートに長けているのは分かっていたが、明智もいい具合に道化者を演じて場を盛り上げた。
池袋駅の東口を出て、サンシャイン通りの半ばを脇に折れた一角、居並ぶ雑居ビルの内にその店はあった。
手配はおれが済ませ、念のために一足先に入って麻里亜と陸奥の席順を操作しようと企んだのだが、全てを見透かされてか陸奥は二十分前から現地にいた。
二人で座席を検討しながら、「北条君。今日はフェアにいこうじゃないか。ご婦人も大勢いるわけだし」と釘を刺されたので「陸奥さんこそ、抜け駆けは止めてくださいね」と返しておいた。
室内の配色は上品なワインレッドとダークグレーで統一されていて、薄暗い照明の下で落ち着いた空間を作り上げていた。
U字型にレイアウトされたソファは適度に弾性があり、元々八人掛けのところに十人が詰めたことで、距離も近付けば自然と話は弾んだ。
角張った細長いクリスタルグラスや、曲面の一部に歪みを作為した平皿にはそれとなく格調が見受けられ、料理も野菜と魚を中心に鮮度が高く、軒並み女性陣に好評だった。
「それにしても、学生の君がよくこんなお洒落な店を知っていたものだね。北条君?」
陸奥が上機嫌にグラスを傾けながら言った。
陸奥の両隣は麻里亜と工藤香奈子さんで、会のはじめにおれが席を立った隙に、座り位置は彼に都合よく入れ替えられていた。
フェアプレーの協定はあっさり破られたのだ。
宏美が連れてきたモデル友達は先日の撮影に同席した三人で、麻里亜を加えて女性陣は五人。
対して男性陣は、陸奥と彼の友人である銀行員、明智、当人の強い希望により参加した白川氏、そしておれの計五人だった。
ソファの片端に座るおれの右隣は宏美で、続いて銀行員、工藤さん、陸奥、麻里亜と続いた。
ソファはU字型なので、奥にいる麻里亜の位置がちょうど二列の結節点に当たった。
麻里亜の右に白川氏、モデルさん、明智、モデルさんその二と連なった。
モデルさんその二こと、三波秋奈さんがおれの向かいだ。
おれとしては白川氏と交代して、麻里亜を挟んで陸奥を牽制したいところだが、空気を読めばそうもいかなかった。
「そうよ。管理人なんて真面目そうな仕事をしていて、北条君って意外と軟派なんじゃないの?よく女の子を連れてこういう店に来てるとか」
三波さんが陸奥の発言に乗った。
彼女やもう一人のモデル友達は宏美と同世代のため、この中では二十三のおれが麻里亜に次いで若く、「北条君」と呼ばれていた。
「いやあ。北条はそんなタマじゃないよ。むしろ度がつく真面目で。こいつが一年の時だったんだけれど、学園祭で道案内を頼んできた可愛い女子高生に、素で総合受付の場所を教えてたくらいだから。その子、一緒に回って欲しそうだったのにさ。あの、自分は同好会の店番で、学園祭委員ではないんです、とか言って」
明智が身振り手振りをまじえて説明し、どっと笑いが起こった。
どさくさに紛れて白川氏が隣のモデルさんに、「私も幾つか良い店を知っていますが」と提案したが、見事にスルーされていた。
「で、実際のところどうなんだい?ここはネットとかで調べたの?柳さんも気になるよね」
「……ええ、まあ」
「宏美から教えて貰った店なんです」
おれは陸奥と麻里亜の問いに対し、正直に答えた。
即座にテーブルの下で、宏美に足を踏まれた。
宏美はヒールを履いていたので、衝撃がおれのスニーカーを貫通して直接的に伝わった。
おれはあまりの痛みに思わず「うっ」と悲鳴をこぼした。
三波さんが「どうかしたの?」とおれの顔を覗いてきた。
「そういえば、この間もわざわざスタジオまで忘れ物を届けに来ていたし。やっぱり宏美と北条君は付き合ってるのと違う?どういう関係なのかな」
工藤さんがフルーツカクテルを優雅に口に含んで言った。
三波さんらモデル勢に加え、皆から注目を浴びてしまった。
おれは宏美の横顔を盗み見るが、彼女は特に反応を見せていなかった。
ここは明智も茶化したりはせずに、黙々と煙草の煙をくゆらせていた。
「あの……」
「昔の話よ。昔の。今はただの友人で、アパートの管理人と住人って関係」
おれの言葉を遮って、宏美がきっぱりと言った。
おれには目もくれず、起伏の無い声音で先を続けた。
「千尋は頑固で真面目で。そういえば、付き合ってた頃は喧嘩ばかりしていたわね。ま、私も少しだけ自己中心的なところがあるし。だから香奈子、私に遠慮する必要なんて全くないわよ?」
「えっ、香奈子そうなの?北条君狙い?」
三波さんがびっくりした顔で大声を出した。
陸奥が「それはいい!三波さん、工藤さんと席を替わってあげたらいかがです?」と余計な提案で追随した。
おれは明智をじっと睨み付け、フォローを要求した。
肩を竦めた明智が仕方ないといった表情で煙草の火を消し、陸奥の提案を逆手に取った。
「それじゃ、陸奥さんと北条をチェンジしよう。北条が矢崎さんと隣同士のままってのは何だし、それで工藤さんの隣にもなれるし。美女がこんなにいっぱいで、長いこと席を固定しているのも勿体無いないしね。三波さん、どう思う?」
「オッケーよ。陸奥さんともお話してみたいし。業界の話、こっちにも聞かせて欲しいな」
明智の上手い誘導に三波さんが乗って、陸奥の動きを封じることができた。
一拍置いたものの、陸奥も「喜んで。不肖、陸奥遼一、モデルの皆さんにわざわざ披露できる情報は少ないかもしれませんが、業界の噂話くらいはお手のものです」と調子良く言って、座席の変更を促した。
さすがにおれを見る目に一瞬厳しい光が混ざりはしたものの、彼の如才ない振る舞いには見習うべき点があった。




