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三.十九歳の六月

三.十九歳の六月



 宏美ひろみから呼び出されたおれが足を運んだのは、白金台にある瀟洒な一軒家のスタジオだった。

 駅から十五分ほど歩いた先、住宅街のど真ん中に建った白い家で、外観も内装も不自然なほどに生活感がなかった。


 靴を脱いでスリッパ履きになると、屋内の薬っぽい人工的な匂いが鼻についた。

 芳香剤か、撮影現場に用意された薬剤の類だろうか。


千尋ちひろ、こっち」


 白いノースリーブのシャツにスカーフをあしらい、黒のホットパンツをはいた宏美が手を振っていた。

 彼女にはこういう活動的な装いもよく似合う。


 一階のそこはリビングとダイニングキッチンに仕切りの無い開けた間取りで、おれは機材やスタッフの間を縫って宏美に近付くと、持参した紙袋を前に突き出した。


「はい。これ」


「ごめんね。持って出たつもりで忘れちゃって。この時計、スポンサーの貸し出しだから、ないと撮影にならなくって。助かったわ」


「気をつけてくれよ。じゃあ、おれは帰るから」


「えっ?折角来たんだから、見ていきなさいよ。早川はやかわさん、いいですよね?彼に見学させたいのだけれど」


 早川さんと呼ばれたシャツを腕まくりした眼鏡の女性が、「いいですよ」と気さくに応じた。


 本当に帰ろうと思っていたのだが、パイプ椅子まで差し出されては断り辛かった。

 おれはそそくさと腰掛けて、所在ないので室内をくまなく見回した。


 ファッション誌の読者モデル撮影ということで、宏美の他にも器量良しの女性が三人ほど、テーブルについてこちらを窺っていた。

 スタッフは慌ただしく走り回り、服だの小物だの照明だのメイクだのと、あれこれ調整しているようだった。


 宏美はというと、「うちのアパートの管理人さんです」と現場関係者におれのことを紹介して回っていた。

 一通り話が済んでから、宏美はおれの横にぴたりと張り付き、顔を近付けてきて言った。


「あんたも久しぶりじゃない?私の撮影に立ち会うの」


「それはそうだ」


「昔みたいにきょろきょろしないのね。あの子たち、紹介しようか?可愛いでしょう。みんな、まだ独身のOLなんだから」


「いや、いいよ。邪魔しないように見てるから」


「そう。何だか千尋、随分落ち着いちゃったわよね。前は、もう少しギラギラしてた気がするけど。それって麻里亜のせい?」


「別に変わってやしないよ」


 宏美はいつもマイペースで、自分がやりたいように物事を運ぶ。

 昔のおれはそれらを全て諾としていたが、今のおれはもう少し客観的な判断に基づいて対応しているに過ぎなかった。


 それとも、それは性格が変わったということと同義なのだろうか。


「あの……すみません、手が空いてらしたら、これ手伝っていただけませんか?」


 女性スタッフから渡されたそれは、モデルが身に着けるアクセサリのようで、依頼事項は穴の開いたたくさんのビーズに細い糸を通していくというもの。

 手持ち無沙汰であったおれは了承し、テーブルの隅でひたすら内職に励んだ。


 宏美から「そういう細かい作業、好きでしょ?」と茶化されて、軽く既視感を覚えた。


 宏美がいったん席を外すと、水色の薄手のワンピースを着たモデルの女性が、横からおれに声をかけてきた。

 肩までのショートヘアが良く似合う丸顔の美人だ。


「はじめまして。工藤香奈子くどうかなこです。北条さん……でしたっけ?宏美の彼氏なの?」


「いえ。ただの管理人です」


「何を管理するの?宏美?」


「……アパートです。独身アパートの管理人なんです」


「へえ。独身アパート……面白そう。住んでいる人はみんな若いんだ?」


「そうでも……あるかな。下は十八から、上は三十二、三歳まで」


「じゃあ宏美は真ん中ら辺だね。確か二十五になったでしょ?」


「誕生日は、過ぎたかな」


 矢崎やざき宏美の誕生日は六月の頭で、今年は珍しく「千夜せんやハイツでパーティーを開きなさい」というオーダーがなかったことを思い出した。

 去年、白川しらかわ氏が参加しておきながら会費を支払わないで逃げたことも追想された。


「じゃあさ、独身アパートの男性諸氏と、うちらとで飲みに行かない?合コンってことで」


 工藤香奈子さんが少し体を寄せてきた。フローラル系の爽やかな香りがした。


「はあ」


「はあ、じゃなくて。気乗りしない?」


「いや……みなさんお綺麗で。こちらの釣り合いがとれないかなと思って」


「なにそれ?君が頑張ればいいじゃない。もっとこう、素材はいいんだから。背筋を伸ばして気合いを入れてさ」


「背筋と、気合い……」


「そうそう」


 工藤さんは大きな瞳を輝かせてころころと笑った。

 おれは内職を続けていたが、摘んでいるビーズにはなかなか糸が通らず、手に汗をかきはじめた。


 宏美がそっと寄ってきて、予告もなしにおれの耳を引っ張った。

 宏美の指にはそこそこ力がこもっていて、正直なところ痛かった。


「紹介しようかって言ったのに、断っといてなに口説いてんのよ」


「おれは何もしていない……」


「また周りのせいにするわけ?どうしていつもそうなのよ。おれは知らない、おれじゃない……もう聞き飽きたわ」


「いつの話をしてるんだ?」


「いつもよ。いっつもそう。まるで自分に責任はありませんって澄まして。あんたの主観ってどこにあるの?それともなに、自分の意見が知られると困ることでもあるの?」


「何の話だ?」


 おれと宏美が口論を始めたことで、工藤さんが困り顔で「ごめんごめん。私から振った話だから……」とフォローを入れてくれた。

 出版社の人間である早川さんも間に入り、場を宥めにかかった。


 おれは周囲に対する申し訳ない気持ちと、宏美の理不尽さに対する諦念とで胸がいっぱいになった。


 薄い緑色をした無地のシートを背景に、さまざまなファッションに袖を通した宏美がポーズをとった。

 カメラマンがシャッターを切り、その都度早川さんはパソコンの画面に転送された撮影画像をチェックした。

 折々に宏美がこちらに視線を送ってくるので、おれは気恥ずかしく思いながらも彼女の肢体をじっくりと拝み続けた。


 宏美は出会った頃から変わらず綺麗で、均整のとれた体つきや甘い声音も相まって、完成された女性美を有していた。

 単純に容姿だけを比べれば、あの麻里亜とて一歩譲るに違いなかった。


 気が強すぎるところは玉に瑕だが、どうせ女性はみな気が強いものだ。


「ハイ、矢崎さんオッケー。お疲れ様でした」


 宏美のパートが無事に終了し、身支度を整えて二人してスタジオを出た。

 駅までの道中特に会話もなく、おれはこの後どうしたものかと思案した。


 何と言っても今日は平日で、おれは大学をさぼってここに届け物をしに来ていたのだ。


「千尋、今日はごめん」


 地下鉄の改札を潜ろうとした矢先、宏美が謝ってきた。

 彼女は他に用事があるようで、今回の埋め合わせは必ずするといって別れた。


 おれはどうせだからと、池袋で適当な映画でも観て帰宅することにした。



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